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老残日誌(二十六)
大北京とその周辺を鳥瞰する
北京から上海や広州など南の諸都市へ向かう航空機に乗ると、ときどき風の具合でまず真北に向かって離陸し、そのまま燕山々脈あたりまで飛んだあと、機首を西から南に転ずることがある。すると、右手の機窓には東から北にのびる燕山々系、そしてそれに連なる西の太行山脈を眼下に見ることができるのだ。その際、運がよければ万里の長城も視界に入ってくるだろう。飛行機好き、鳥瞰図好きとしては、わくわくする瞬間である。
万里の長城は遊牧と農耕を画する農業遊牧境域地帯のど真ん中に構築され、司馬台や金山嶺など農耕文化が遊牧文化と直接に境を接する境界としての外長城が燕山の尾根を這うように走っている。これら長城の敵楼に立って南を眺めてみればよく手入れされた畑や森林を認めることができ、視線を北方に転ずるとそこには縹渺とした草原地帯の入り口が展開する。人々が多く遊山する八達嶺や居庸関、そしてその奥の残長城などは残念ながら第二線、三線の長城で、あくまでも外長城が突破されたときに京師(首都)を狙う騎馬軍団など周辺諸民族の襲撃を遅らせる最終防衛線(内長城)にすぎない。山海関を起点にして西へゴビの嘉峪関、あるいは敦煌郊外に残存する漢代長城までのびる外長城は河北省境の司馬台や金山嶺、古北口で北京最北東に進入し、白馬関で方向を南に転じて一気に慕田峪まで降りてくる。慕田峪長城は、北京市外からもっとも近い外長城である。
飛行機は燕山の南斜面をなめるようにして左(つまり西に向かって)旋回し、やがて前方にはまず軍都山嶺、そして太行山脈が見えてくる。航空機の直下にはおそらく居庸関や青龍橋、そして八達嶺の雄大な景色が展開し、官庁ダムを越えれば地形はゆるやかになって広大な河北平原がはじまる。その先には、宣化(宣府)や張家口の街があるはずだ。
河北省の宣化は明代九辺鎮(軍制区画)の三つ目の要衝で、宣府鎮の中心だった。宣府鎮は居庸関から河北と山西の省境を流れる西洋河(陽高県)沿岸の平遠堡に到る区間を指し、全長は一〇二三里(=五百十二キロ)に達する。沿線には紫荊関、倒馬関、独石口、宣化古城、張家口(大境門)などがある。ここも京師防衛の要衝で、一帯の長城は二重、三重にも張り巡らされ、突破は困難を極めた。
張家口市は市街地に加えて、さらに六区(橋西、橋東、宣化、下花園、万全、崇礼)、十県(張北、康保、沽源、尚義、蔚、陽原、懐安、懐来、涿鹿、赤城)を隷属させる。宣化は張家口市の行政区画に属し、区(宣化区=市街地)と県(宣化県=郊外)からなり、古称は宣府だ。近代以前の中国においては「神京右臂、防御辺垣」(京師の右腕を担い、辺境を防衛する)と謳われ、いま隣で中堅の都市として栄える張家口などよりもむしろ格上で、宣府鎮における軍事の要衝だった。
この街の骨格は、他の中国の歴史都市とおなじように鐘鼓楼を中心に形成された。鐘楼の正式名称は清遠楼(明成化十八=一四八二年創建)で、鼓楼は鎮朔楼(明正統五=一四四〇年創建)と称される。鎮朔楼の「朔」はこの場合北とか北方という意味で、この意味のとおり「鎮朔楼」は鎮の北方、清遠楼の北側に位置している。中国ではかつて、朝から日中にかけては時刻をたずねるとき「幾点鐘」(鐘をいくつ打ったか=何時の鐘か)と問い、黄昏どきからは太鼓を叩いて時を知らせた。近代以前は、一夜を五更に分け、一更をさらに五点に分けて時間を計測したので、晩の時間は「幾更鼓」(幾更の太鼓か)とたずねた。朝は鐘をつき、暮れどき以降には太鼓を叩いたので「晨鐘暮鼓」という言葉も生まれた。
航空機はすでに太行山脈の美景を右の機窓に映しながら、南に向かって燕のようにまっすぐ飛翔している。左の機窓には、北京が遠望できる。社会主義を捨て、奇形的な経済発展で北京が深刻なPM二・五の被害に襲われて久しい。一九七〇年代の朝夕、南礼士路の城外にあった中央廣播事業局の専家楼五階からは北京の西郊外に迫る山々を見はるかすことができた。その山容を北京人たちは西山と呼んで自慢した。誇りに思うほどに美しい景色だったのだ。
大気汚染はいま北京から美しい西山を奪ってしまったが、春先に吹く強風の翌日には、まれにその懐かしい山影が呼びもどされることがある。北京の鳥瞰図を眺めていると、一九七〇年代の静かで濃厚な文化的魅力にあふれた北京に暮らしたころのあれこれが脳裏によみがえってくる。