老残日誌(十八)
口号・標語(スローガン)
中共独裁統治下の中国社会とスローガン(口号・標語)は、切ってもきれない関係にあるようだ。思い出すままに挙げてみれば、たとえば「学雷鋒、樹新風」(雷鋒に学び、新風を樹立する)とか、あるいは「化悲痛為力量」(悲しみを力と為す)などを無意識のうちに暗唱できる。前者は糜爛した社会を回復する目的で人民に革命模範(烈士)の雷鋒を学ばせて新しい秩序を打ち立てるためにつくられ、後者は周恩来と毛沢東の相次ぐ死、唐山大地震などが連続して起った一九七六年、動揺する社会の不安を鎮めるために中共がひねりだしたスローガンである。
建国当初、「抗美援朝、保家衛国」(米国に抵抗し、国家を防衛しよう)という標語もあった。これは朝鮮戦争に際して叫ばれたスローガンだった。朝鮮半島に赴いて戦闘に参加した「志願」兵を鼓舞するとともに、国内では戦前から残留した外国人をも含むキリスト者を排除・粛清する意味合いも大きかった。しかし、日本では半島の戦争部分がクローズアップされ、国内で進行したキリスト教に対する大弾圧はあまり語られることがない。
その後、反右派闘争の直前になって「美帝国主義是紙老虎」(アメリカ帝国主義は張り子の虎である)という勇ましいスローガンも流布された。一九五六年七月十四日、毛沢東が米国の外交圧力を受けたラテン・アメリカからの訪中者に謁見して激励した言葉として知られる〔『毛沢東選集』(人民出版社、一九七七年)第五巻二八九〜二九二頁〕。このあたりから中共の諸外国に対する「革命輸出」が頻繁になったのではないかと思う。類似のものとしては、「一切反動派都是紙老虎」(すべての反動派は、みな張り子の虎である)というものもある。
大躍進運動期には、たとえば「農業学大寨」(農業は大寨に学ぼう)とか「工業学大慶」などが興味深い。大寨は山西省の貧しい農村人民公社で、大慶は僻遠の地、黒竜江省の荒野にあった油田で、いずれも厳しい自然条件のなかにあって国家の呼びかけに呼応し、大増産を実現したという虚構をでっち上げるために利用された。大寨人民公社大隊の陳永貴書記は文革後期に国家副首相にまで祭り上げられてプロパガンダに利用されたが、文革が収束し、鄧小平が「実践是検験真理的唯一標準」(実践は真理を検証する唯一の標準である)のキャンペーンを発動すると、更迭され故郷の村に帰っていった。
中共軍(人民解放軍)の正当性を子供の意識に刷り込む宣伝に使われた「解放軍叔叔好!」(兵隊さん、こんにちは!)は、ポスターや「連環画」(プロパガンダ教育効果をねらった子供向けの小型漫画本)に頻出し、人民解放軍は人民に奉仕する立派な軍隊であることが親から子へと語りつがれることが多かった。その軍隊が一九八九年に北京で発生した六四・天安門事件で民主を訴えた学生を戦車で轢き殺し、無防備な市民に銃口を向けたことから、国民の人民解放軍に対する幻想は崩れ、単なる中共党=国家の邪悪な意志を実現するための暴力装置に成り下がっている。
標語は、権力の継承にも利用された。一九七〇年代後半に中国と関わったことのある人ならたれでもリアルタイムで知っている「你辦事,我放心」(あなたがやってくれれば、わたしは安心だ)は、毛沢東と華国鋒の対話を再現したものである。おそらく捏造であろう。毛沢東死後の党内権力闘争で、たれが共産党のトップに座るのか、おそらく決着がつかなかったに違いない。党主席のポストを空席にするわけにはゆかず、とりあえず毒にも薬にもならない華国鋒を祭り上げ、政治の空白を避けるための人事をおこなって当座をしのいだ。その後、鄧小平が復権すると、一九七八年十二月、華国鋒は下野させられ、胡耀邦がその後を継いでいる。筆者は当時ラジオペキンに在籍していて、外国人専門家として華国鋒が人民大会堂で主宰した最後の国宴に招かれ、まぢかで国慶(建国祝賀)の演説を聴いたことがある。その表情は穏やかで慈悲深く、後に首相となった李鵬のように醜悪な表情ではなかった。華国鋒はその手腕をそれほど期待されたわけではなかったが、李鵬のように陰険で狡猾な属性は備えていなかったので、国民からそれほど恨まれてはいない。
現代になってよく目にする「建設有中国特色的社会主義」(中国的な特色のある社会主義を打ち立てよう)という標語は比較的に新しいが、よく調べてみると一九八二年に開催された中共十二全大会で鄧小平が開幕の辞を述べ、そのなかで語られた言葉のようである。「把馬克思主義的普遍真理同我国的具体実際結合起来、建設有中国特色的社会主義」(マルクス主義の普遍的な真理と我が国の実際状況を結びつけ、中国的な特色のある社会主義を打ち立てよう)というのが省略のないフレーズである。この十二全大会を画期として、中国は経済の市場化(改革開放経済)に弾みがつき、現在に至っている。後半部分の「中国的な特色のある社会主義を打ち立てよう」は鄧小平から江沢民、胡錦濤、そして習近平へと呪文のように語り継がれ、すでに社会主義を放棄したいまもなお、社会主義国家を標榜する照れ隠しに使われている。
ためしに『日本国語大辞典』(小学館、一九七四年)第六巻を開いて「スローガン」を引いてみると、「団体・党派・政府などが、一般に呼びかけるためにその主義・主張を端的に言い表した語句。標語」とあり、例として、火野葦平『赤い国の旅人』から戦争中の日本でつくられた「欲しがりません、勝つまでは」などを引いている。現代漢語詞典の「口号」の条には、「供口頭呼喊的有綱領性和鼓動作用的簡単句子」(口頭で叫ぶ綱領性と鼓舞作用のある簡潔句)のような説明がある。いずれの辞書の解釈も、「簡潔で綱領性と鼓舞作用を具備した短句」と理解できよう。中国語における「口号」の「号」には、号令とか命令、あるいは軍隊で使用されるラッパの意味、すなわち上から下への浸透性もつよく表現されている。
下に掲出したのは中国で革命宣伝画(プロパガンダ・ポスター)と称されるものである。訴求したい「偉大的教導、無窮的力量」(偉大な教導、尽きない力量=毛沢東とその思想を体現する中国共産党)というスローガンと、それに相応しい普遍性のあるビジュアルがセットになっている。この場合のスローガン(口号)は、上に説明した「簡潔で綱領性と鼓舞作用を具備した短句」であると同時に、文盲率の高かった中国において、簡潔で少ない文字を使い、中共のプロパガンダを実現するためのものでもあった。
毛沢東は中共が江西省の瑞金に中華ソビエト中央政府を樹立する前年、同省南部の尋烏で農村調査を実施して住民の文盲状況を調べた。その結果によれば、「二百文字を識っている者=二十%」、「三国志演義が読める者=5%」、「手紙が書ける者=三・五%」、「(古格に則った)文章が書ける者=一%」だったとされる(石川禎浩『革命とナショナリズム1925〜1945』岩波文庫、2010年)。かなり深刻な文盲社会だったのだ。
このような社会の人民を前にして、中共は文字に依らないオーラルな伝達方法による「話劇」などを使ってプロパガンダを実施した。日本でも、劇団が左翼思想の伝播に使われたのは現代史の事実である。中共は文字を使用する場合には、それに分かりやすいビジュアルを加え、簡潔なスローガン(口号)でみずからの方針や政策を農民に浸透させていった。スローガンは、簡潔明瞭で、たれにでも理解できるものでなければならなかった。