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老残日誌(十六)

積水潭の都市内港

大運河は、南方の物産や税糧、兵糧としての米などを京師に漕運し、北方の特産品を南に流通して莫大な富を生みだした。同時に、皇帝の南巡(行幸)にも使われた。大運河の路段は時代によって異なるが、元代以降は概ね京師(北京)の積水潭(西海)から玉河(通恵河の北京市街路段)、通恵河、北運河、御河、南運河、会通河、済州河、山陽瀆、揚州運河などを経由して直隷、河北、山東、河南、江蘇、浙江各省の一七八二キロを南通し、杭州の銭塘江に合流した。このため、京杭大運河と称される。

北京は皇城(紫禁城)の西辺を南北に沿って人工湖の什刹海がつくられ、王都に錦景を添えた。紫禁城の北にそびえる景山は、什刹海を掘って得られた土を盛って造成した築山だ。什刹海は南から前海、后海、西海の三海を総称する名称である。什刹海の南側には、北海、中海、南海の三海がさらにつらなる。現在、党=国家の党政をつかさどる枢要な機関や要人の居宅がある中南海は、中海と南海を合わせて呼んだ呼称である。什刹海の西北端にある西海には積水潭の別名があり、郊外の昌平から土木の工夫して水を引き貯め、水位を確保した労苦がうかがわれよう。

郭守敬

積水潭(西海)は、元の大都につくられた都市内港湾である。天津や杭州、あるいは運河に近い沿岸港を経由して、皇都と世界の海を繋いだ。つまり、隋の煬帝期にその基本形が整った大運河の元代における発展は、出発地である大都と世界を結節する壮大な古代プロジェクトだったのである。これは元朝が現在の北京に首都としての大都を建設したことに始まる。積水潭と北運河を結んだ通恵河を設計したのは郭守敬(1231-1361)で、フビライの要請によるものだった。積水潭が開港して以降、ここには京杭大運河で輸送した税糧としての米穀をはじめとする南の物産、あるいは海のシルクロードを経由して、遠くアラビア海、インド洋、南洋から海浪を越えて舶来した南蛮の物産を積載する多数の河船が舫った。

元代、京師と北運河にはおよそ三十七メートルの標高差があり、京師の地勢が高かったので市中に水量の豊富な北運河の水を引き入れることはできなかった。この難題を解決するため、クビライは地理や水利、天文、暦法、数学などの学問に通じた郭守敬に北京北方の昌平に位置する白浮泉を玉泉山の湧水と合わせて甕山泊(現在の昆明湖)まで引く治水工事を命じ、それを積水潭に貯めて玉河や通恵河に供給し、水位を確保した。工事が完成したのは、至元二十九(1292)年のことである。

積水潭

銀錠橋と金錠橋、玉河

積水潭と后海をつなぐ水路を跨いでいるのが銀錠橋、そして前海と玉河の合流点に架かっているのが金錠橋である。金や銀があって、なかなか華やかだ。たとえ市中を流れた水路であっても、かつて大運河の漕運を担った船舶が往来した河道がこのように小規模であったはずはない。いま再現されている水路はうなぎを送る水路のように細く、浅い。金銀橋だって、もっと立派だったに違いない。現在の銀錠橋は、近年では一九八四年と二〇一一年に修復を繰り返してきたもので、すでに原型は歴史の彼方であろう。単孔石拱橋(単孔アーチ橋)で建造から五百年の歴史を有し、かつてここから望む西山の雄景は「燕京八景」と賞賛された。金錠橋は今世紀に入ってから、歴史の記憶として整備されたものだ。物産を満載して南行する河船は積水潭を出港すると、銀錠橋、金錠橋をくぐって市街地を流れる玉河を航行し、通恵河を東行して北運河に達する。

銀錠橋

前海から金錠橋をくぐった玉河は、皇城の北、地安門東大街の南側あたりに展開した枴棒胡同、口袋胡同、如意胡同、頭条胡同、二条胡同、四条胡同、五条胡同、六条胡同まで流れている。その後、南へ直角に向きを変え、北河沿大街を一気に下って清末民国期に各国大使館街だった東交民交に至り、玉河南橋(南水関)で東に折れて通恵河の本流に進んだ。大使館街の中では日本大使館、日本兵営と英国大使館、スペイン大使館と露国大使館、そして六国飯店と米国大使館のあいだを走る玉河路に沿って南進し、最後はドイツ郵政局と辛迪加企業連合会(Syndicate)の間を抜けて通恵河に合流している〔侯仁之主編『北京歴史地図集』自然環境、人文社会、政区城市編(北京・文津出版社、2013年)、目加田誠『北平日記』付録最新北京街詳細図(中国書店、2019年)などを参照〕。注意深く観察すると、現在、皇城の東側入り口、東華門周辺にはかつての玉河の河道跡と思われる凹凸がわずかに残り、往年の風景を彷彿させる。

金錠橋

玉河は、またの名を御河ともいう。皇帝につらなる河という意味からすれば、「御河」のほうが相応しいような気もする。玉河は民国期に蓋をされて暗渠となり、排水溝として利用された。その河道は二〇〇七年四月、東城区政府によって遺構が発見され、翌年から発掘がはじまる。全長は、およそ一・〇五キロだ。再現された河道にそって、地安門東大街をゆっくり散策する。枴棒胡同や頭条胡同など連鎖する胡同の連なりを抜けると、そこには小さな広場(皇城根遺址公園)があり、明清時代の皇帝の居住区を分けた皇城根東墻北段の城壁が数十メートルにわたって保存されている。城壁の切断面を見ると、壁の内部構造が判って興味深い。

皇城根遺址公園

前海の岸辺に亭(チン)があり、そこで老婦が戯を唱っている。手にはしっかりスマートフォーンを握りしめているところが、中国的現代の風景である。落下防止用に貼り付けた知恵の輪にしっかり人差し指を挿し入れている姿が、とても可愛いい。戯にあわせて太鼓を叩く男の横で、老婆が派手なスカートをたくし上げ、ストッキングの緩みを引き上げている。付近の景山では、やはり幾組もの老人男女が陶酔したように「紅歌」を合唱している。そのあたりでは、朝晩、やはり複数のグループが大音響を放ちながら「広場舞」を踊っている。

亭で唱う女性

地安門外大街から鼓楼西大街までの一帯が、什刹海(前海、后海、西海)の西沿である。いま、界隈の街路や胡同は賑やかに変貌し、人が群れている。この辺りを自転車で走りまわったのは、もう四十年以上も昔の一九七〇年代のことだ。当時に親しんだ古い街景は再開発ですでに消失し、ところどころに象徴的な建築物や遺跡が残っているだけになってしまった。

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