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老残日誌(六) 姜徳明の北京讃
姜徳明の北京讃
厳密にいえば、北京の文化や風俗は一九四九年に中華人民共和国が建国して以来すこしずつ終焉に向い、良き時代の香りは、いまとなっては書物のなかだけにしか残っていないのかもしれない。往年の北京を伝える書物や雑誌は、清から民国にかけて彼の地に暮らした生活者や作家、学者、企業の駐在員、留学生、そして密命をおびた諜報員らによって多く書き残されている。
清の光緒年間に編まれた敦崇の『燕京歳時記』(北京年中行事記)は、この街の春夏秋冬を月別の気候、文化、風俗などに特化して著した名編である。その燕京の風俗をさらに精緻な絵と文章で描写したのが青木正児編の『北京風俗図譜』だ。編者の序によれば、青木正児(一八八七〜一九六四)は一九二五年から二十六年にかけて北京へ留学したおりにこれを思い立ち、目録をつくって土地の画工に描かせたのだという。一方、官製の書としては、乾隆帝の特命で于敏中ら四学者が『日下舊聞』に増補した大部の『日下舊聞考』がある。もとになった『日下舊聞』は、康煕年間に朱彜尊が編んだものだ。もう一冊、一九四〇年から四六年まで住友銀行の駐在員として北京に暮らした臼井武夫の『北京追想』も、すぐれて良き時代を活写した名著といえよう。
蔵書家で編集人でもあった姜徳明(一九二九〜)が編纂した『北京乎』は、清から中華民国にかけての北京の森羅万象を文学(散文)で縦横無尽に表現している。李大釗から周作人、魯迅、胡適、沈従文、徐志摩、巴金、老舎、そして呂剣らまで七十四人の作家が北京について書いた百二十一編をまとめた作品集(上下巻)である。
姜徳明は北京がまだ「北平」とよばれていた一九四八年、初めてこの地の土を踏んでいる。山東の故郷から乗った長距離列車は東便門に近づくと、車窓が城壁に擦れるようにして正陽門外の北京東駅にすべりこんだ。城楼の煉瓦は風化して歳月の埃をかぶり、雑草に覆われていたが、そのなかば破敗した衰色にみずからの歴史を嗅ぎとり、民族や文化の誇りを感じたと述懐している。姜は一九五一年に北京新聞学校を卒業後、人民日報に職を得て文芸欄の副編集長、文芸部編集長、人民日報出版社の社長などを歴任した。青年時代から当代作家が北京について書いた書物を渇望し、東安市場の古本屋で上海宇宙風社が一九三六年に出版した『北京一顧』を見つけ出して読んでみたが、もっと深く北京を知りたいという強い欲求を満たすことはできなかった、と書いている。
宇宙風社の『北京一顧』を見つけて以来、十年がたち、二十年、三十年の星霜を経ても、姜が求めるような書物が北京で出版されることはなかった。一九八〇年代になり、友人で出版人の範用(一九二三〜二〇一〇)にこの三十年来の飢えた願望を打ち明けると、みずから編集の労をとるよう強く勧められ、『北京乎』をまとめる気になったのだという。
姜徳明は『北京乎』に寄せた「編者の言葉」で、一九一九 年から四九年までの三十年間に著された作品だけを収録し、四九年以降のものについては他の人にまかせる、と素っ気なく流している。この弁は姜徳明一流の表現で、少なくとも中華人民共和国が建国した一九四九年から本書が編まれた八〇年代初頭までの作品には姜の編輯欲を満たすような作品は皆無だった、ということを遠まわしに言っているのだと思う。建国以来の北京の歳月は、文学領域においても(と言うより、文学だからこそ)人文破壊の連鎖だったからだろう。
姜が執筆した「編者の言葉」は『北京乎』冒頭に十八頁もの紙幅を費やして、その心底が繊細に綴られている。この本に収録されたいずれの作品よりも長大なのだ。もう何度もこの作品集を手にしたが、姜徳明の前文を読むだけでも往年の北京の燦爛を感じとることができよう。
〔参考文献〕
姜徳明編著『北京乎 現代作家筆下的北京』上・下(生活・読書・報知 三聯書店、一九九二年)
敦崇『燕京歳時記』(東洋文庫、昭和四十二年)
内田道夫解説、青木正児編『北京風俗図譜』(東洋文庫、一九六四年)
于敏中等編纂『日下舊聞』全八册(北京古籍出版社、一九八一年)
臼井武夫『北京追想』(東方書店、一九八一年)