老残日誌(三十三)
玉門関・雅爾丹地貌・漢代長城
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手元の古い記録によれば、一九八一年七月、北京からフフホト(呼和浩特)、蘭州、張掖、嘉峪関、敦煌、トルファン、ウルムチなどをめぐる旅をしたようだ。写真の玉門駅には下車しなかったので、停車時間にホームに立って記念写真だけを撮ったのだろう。万年暦で調べてみると、焦げつくような陽光が照りつける盛夏七月十五日(水)のことだったらしい。蘭州から蘭新鉄路の硬臥(二等寝台)に乗り、おそらく張掖で下車している。なぜならこの町の大仏寺で、有名な臥仏を観た記憶があるからだ。ただし、写真は残っていない。なぜ、撮影しなかったのだろうか。あるいは張掖で臥仏を観たというのは、あとで合成された偽りの記憶で、ほんとうは大仏寺に参っていないのかもしれない。四十年以上もむかしのことであり、記憶も曖昧なので、そんなことは大いにありうる。なん十年ぶりかで若いころに感情を交叉しあった女性と再開したとき、お互いがたがいをフッたつもりになっていたりして、その滑稽に苦笑することがある。個人の記憶というものは、まことに都合よく焼きつけられている。写真を見ると、次の停車駅は向陽湖、そして前の駅は新民堡だ。いま地図でたどってみれば、新民堡は嘉峪関から五十キロほど西の小駅である。向陽湖も新民堡もその名前には中共イデオロギーの臭みを感じる。建国後に蘭新鉄路が敷設され、新しくできた沿線の停車駅がたいした検討もされず、安直に命名されたにちがいない。
当時、蘭州から西の河西回廊、そして新疆ウイグル自治区一帯は北京ほど衛生状態が良くなかったので、よく巡回医療に出かけていた知り合いの医師から黄蓮素と痢特霊を持たされた。この二種類の薬があったおかげで、下痢をしてもそれほどひどい状態にはならなかった。いまでも中国の田舎町に行くと、かならず薬局で買い求めて服用することにしている。
昨日に手配した車で敦煌から玉門関に向かって往復数百キロの砂漠を疾走している。フロントガラスには、ピシッ、ピシッとタイヤがはねた小石が飛んできて、ひび割れが蜘蛛の巣のように少しずつ大きくなってゆく。砂嵐が窓外で吹き荒れているのだ。前世紀の初頭、スヴェン・ヘディンやオーレル・スタイン、あるいは大谷探検隊の橘瑞超らもラクダで踏査したゴビの西南地帯である。玉門関は陽関とともに漢民族が駐屯した西限で、ここから以西には中華の威力がおよばなかった。目と鼻の先には疎勒河水系につながる塩湖があり、いまでも採塩している様子がみてとれる。玉門関周辺の土にも、白く塩分が析出している。ひと粒、指でひろって舐めてみたら、塩っぱい。人は最西の関所を建設するのに、やはり水と塩のあるところを選ばなければ生存することはできない。ゴビからタクラマカン砂漠にかけて塩湖が点在し、人の生活を支えている。大自然の環境システムとは、なんと巧妙で、偉大なことだろう。玉門関は大きな烽火台のような形をした土の構造物だ。四面に出入り口が穿たれ、ここが外的から軍隊の駐屯地を護る長城の大門であったことがわかる。付近には青い粗末な看板が立ち、ここを中心にして漢代長城や食料倉庫の遺構、雅爾丹地貌(風化土堆群雅=雅爾丹地質公園)の位置関係を教えてくれる。
玉門関を後にして、まず西に七十五キロほど離れた雅爾丹地貌にむかう。ここは東西八十キロ、南北が四十キロほどもある広大な風化土堆群で「魔鬼城」とも通称され、その恐ろしい名前が示すとおり、強風が自然を削って造形した砂漠の廃都とでも表現すべき驚観である。
雅爾丹地貌から漢代長城に移動する。吹き荒れる砂塵の前方に見えてきたのは高さ三メートル、壁厚四メートルほどの典型的な土長城で、その姿はまるで砂漠にのたうつ巨龍のようだ。版で突き固めて築いた長城、すなわち原始的な版築工法の内部構造を強化するために織り込んだ葦が露出している。二〇〇〇年以上も以前の葦が眼前の長城壁に展開している。風化で起伏する長城の背が砂嵐のなかを西にむかって突き進む。どこまで続いているのだろうか。巨龍の胴体は黄塵万丈のゴビからタクラマカン砂漠に向かって霞み、その頭を視界にとらえることはできなかった。
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