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老残日誌(十一) 漢詩の音韻


漢詩の音韻

李白の「静夜思」、もしくは「夜思」は、好きな漢詩のひとつだ。

牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷

これを日本語漢文の書き下し文で読むと、いずれの詩選も、

牀前、月光明らかなり
疑うらくは是れ地上の霜かと
頭を挙げて名月を望み
頭を低れて故郷を思う

などとやっている。この詩調は、はたして李白が寝間で観た美しい月光や、そこから連想した霜などを忠実に再現しているだろうか。あの漢詩の持つふくよかな情緒はなかば失われ、趣が一変してしまっている。きちんとした日本語にすればよいのに、なぜ、詩吟みたいにうなるのだ。なぜ、ちから瘤をつくるのだ。原作には、そんな雰囲気など感じられない。ためしに、大家といわれる人たちの書き下し文ではない日本語訳を見てみよう。

前野直彬注解『唐詩選』中(岩波文庫、二〇〇〇年)は、次のように訳している。

寝台の前の床を照らす月光を見て、その白い輝きに、地上におりた霜ではないかと思った。そして頭を上げて山の端の月を望み、また、うなだれて故郷のことを思いめぐらすのである。

凡庸である。日本語の美しさが表現されていない。まるで、中学優等生の作文をみるようだ。次に、武部利男注『李白』下(岩波書店・中国詩人選集、昭和三十三年)はどうか。

ベッドの前にさし込んでくる月の光を、ふと、地におりた霜かと思った。頭をあげて山の端の月をながめ、頭をたれてはふるさとのことを思った。

前者と変わり映えがしない。日本語にまるで力が入っていない。松枝茂夫編『中国名詩選』中(岩波文庫、一九八四年)は、いかに…。

寝台のあたりに射しこむ月かげ、そのあまりの白さに霜がおりたのではないかと目を疑った。頭をあげて山にかかる月を仰ぎ、またうなだれて故郷のことをしのぶのである。

いずれも日本語の詩になっていない。あくまでも漢文の付け足しにすぎないのだ。原文と、詩吟のようにうなる書き下し文に解説をつけておけばそれでよい、という学者の自己満足にすぎないのではないか。最後に、ことばの手練れである井伏鱒二(『自選全集』第八巻、新潮社、昭和六十一年)の訳をみてみよう。

ネマノウチカラフト気ガツケバ、霜カトオモフイイ月アカリ、ノキバノ月ヲミルニツケ、ザイショノコトガ気ニカカル。

真剣勝負の日本語を書く作家、詩人の表現とは、このような名訳のことをいうのだろう、

ここ数日、必要があって唐詩の世界に沈溺している。パラパラと捲っていて、ふと崔顥の楽府長干行〔蘅塘退士編、目加田誠訳注『唐詩三百首』下(東洋文庫、1975年)〕に眼がとまり、びっくりした。

君家何處住(君の家は何処にか住す)
妾住在横塘(妾は住して横塘に在り)
停船暫借問(船を停めて暫く借問す)
或恐是同郷(或は恐る是れ同郷ならん)

ここまでは、普通の漢詩とその書き下し文である。ところが、その次の日本語訳がふるっている。

ちょいとあなたのお住まいどちら
あたし横塘に住んでるの
舟をとどめてお尋ねするわ
おくにの方じゃないかしら

これこそ唐詩の醍醐味であろう。漢詩は書き下し文でよむべきではない、とは常々思っていたことである。いわゆる「日本語漢文」で読んでしまっては、大半が「あんこ椿は恋の花」のような名調子のうなる詩吟になってしまう。漢詩のもつふくよかな情緒なんて、ほとんど捨象されてしまう。原文は、決して唸ってなどいないのだ。できる人は中国語の原音で読んでほしい。それが叶わないなら、井伏鱒二や目加田誠のようなこなれた日本語訳がよい。

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