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老残日誌(四) 中国の「北」の概念について
中国の「北」の概念について
中国では、日々の生活のなかで強固に息づく自然哲学、あるいはそれを支える観念のようなものを実感することがある。北京の東三環北路を東から西に突っ切るように亮馬河が流れている。冬になると河面が結氷するので、よくそこを歩いて近道をした。前世紀の一九九〇年代なかばころ、その河畔に漁陽飯店という瀟洒なホテルが建ち、「漁陽」というちょっと変わった名称に惹かれ、いつかは泊まってみたいと思っていたのだが、そのうちに忘れてしまった。
その「漁陽」と二度目に出会ったのは、長城の取材で天津最北の薊鎮から北京北郊の密雲一帯をうろ うろしていたときだった。このあたりは漁陽故地と呼ばれている。漁陽の「漁」は漁水、すなわち白河(潮白河)のことを指し、「陽」はその北岸という意味である。「陽」が、なぜ北岸なのか。中国大陸の広域地図を開いてみると、河川、とくに大河には幾多の曲折や蛇行があるものの、概ね西から東に流れている。それは中国が西高東低の大地だからだ。漁水はちょっと南に傾斜しているが、やはり西北から東南方向に向かっている。ここから、中国の河川の多くはその両岸が南、あるいは北に対面 していることが理解できよう。北岸は南に面しているので、当然のことながら陽がよく当たる。
ためしに、資料に当たってみた。諸橋轍次や白川静の字典には段玉裁注『説文解字』を引用し、漁陽 の「漁」を漁陽河、あるいは漁水と同定し、その流れは白河に注ぐとある。「漁」は「魚」に「氵」 をあしらい、水辺で「魚を捕るなり」としている。日本語の「漁(あさ)る」は、ここから派生したのだろう 。また、水を原義に持つ「氵」は「準(たい)らかになるなり」とし、水準の意とする。「水」の字は、また、別意に「北方の行なり」とある。これは古代中国の自然哲学をまとめた五行説が観念する方位の行、すなわち木(東)、火(南)、土(中)、金(西)、水(北)では、「水」が北に配 当されているからだろう。つまり漁陽は、陽光が溢れる漁水の北岸ということがわかってくる。
この「漁」の派生語には、馴染み深いものとして「漁火」や「漁笛」、「漁夫」などが見られ、魚を捕るために焚くいさり火や漁労に従事する漁夫の吹く笛、漁村に聞こえる漁師の笛の音などを簡単に連想することができよう。「漁色」というのもある。手当たり次第に女性を追い求め、その場限りの色事にふけることを言う。ついでながら、「色」の字は上部の「人」と下部に置いた「卩」(せつ)と の会意字で、「卩」は跪く人の姿を示すので、人の後ろから別の人が覆いかぶさる様を表し、人が相交わる意味をなす。獣の上に人が乗るのは「犯」という漢字で表現される。
紙幅に余裕があるので、もうひとつ「朔」という字について考察してみたい。北京から山西省に向かう列車に乗って大同をすぎると、南に方向を換えた線路のおよそ百キロ先に朔州という小駅がある。西方の陝西省に往くためには、ここから神木行きの列車に乗るのが便利だ。十五年ほど前、筆者が早朝に大同から乗車した汽車は車輌はそのままに、ここで私鉄に早変わりし、寧武、神池、義井、賀職、三岔、韓家楼、陰塔、沙泉、保徳などの田舎駅に停車した。そこで黄河鉄橋を渡って陝西の府谷に入り、終着の神木に至ったのである。走行距離は約三百キロ、およそ八時間を要した。
現在の朔州は、秦代に設置された雁門郡のころから中国史で頻繁に登場するようになり、漢代には雁門郡に隷属する馬邑などの八県が設置され、その馬邑県は唐代に朔州と改名された。朔州は、歴代、北狄の活動範囲内にあり、明朝はここに長城とその内側に展開する中華を防衛するために強固な雁門関を修復し、北方民族の襲来に備えている。神木に向かう鉄路の途中駅に寧武とか保徳などの名前が見えるのは、北狄を恐怖した明朝の名残だ。「寧武」とは攻めてきた北方騎馬民族の武力を寧すことであり、「保徳」は中華の徳を保つ意味であることが透けて見える。あくまでも華夷思想にもとづいて執行された一種の形式であろう。
その朔州の「朔」の字について、『説文解字』は「月の一日、始めて蘇(よみがえ)るなり」と解釈す る。「蘇る」とは、月末に至った日が、また初日にもどることを謂っているのだろう。「朔日」という言葉もあるように、毎月の始まりを指している。「朔」には、また、北という意味もある。北方を 朔とするのは、繰り返しになるが五行思想の「土」の方位を北とする考え方からきている。朔州は塞内、すなわち長城の内側ぎりぎりのところに位置し、この一帯では漢民族居住地域の最北にあった。 これが朔(北)州という名称の由来になったものと思われる。
朔の字の派生語として「朔風」という言葉もある。これは文字通り「北風」のことを指している。具体的には、現在の内モンゴル阿拉善左旗に展開する広大なゴビあたりから吹いてくる冷たい風のことだろう。この朔風は細かい砂漠の砂を巻き上げ、それを陝西や寧夏、山西の大地まで運んで降り積もらせ、日本の国土がすっぽりおさまってしまうほども大きな黄土高原を形成した。黄河がその高原を大きく湾曲しながら流れ、堆積した黄土を侵食して河水に取り込み、水を黄色に変色させたのだ。黄砂は黄塵万丈の砂嵐となって北京や天津など中国の北方地域を襲い、偏西風に乗って西日本や東日本にまで飛来し、窓ガラスを曇らせ、ベランダを砂だらけにする。