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老残日誌(三) 白馬寺 斉雲塔
白馬寺 斉雲塔
洛陽駅前から路線バスに乗って白馬寺にむかう。街を西から東に貫く中州路を北東に12キロ、約50分ほどの距離だ。
後漢の明帝(劉荘)は神がかった人だったらしく、宮殿の庭に黄金の仏が降り立つ夢を見た。さっそく郎中の蔡愔、秦景らを天竺に派遣して夢の実現を試みた。仏教の教義を書写させたのである。蔡愔らの一行は、大月氏国(アフガニスタン)から沙門の迦葉摩騰(カーシャパ・マータンガ)、竺法蘭(ダルマラリシャ)の二人を伴って帰国した。迦葉摩騰らは白馬の背に「四十二章経」、「十地断結経」、「佛本生経」などとともに釈迦の立像を積んで洛陽城西郊の外国使節を接遇する鴻臚館に落ち着き、持参した経典を収めた。明帝の「感夢求法」説話に乗っている実話だ。後漢の永平十一(68)年、皇帝は洛陽城の西郊外に両僧のための仏教寺院を建立し、彼らが天竺から経典を運んできたのが白馬だったことから、この寺を白馬寺と命名した。
白馬寺はこの国における仏寺のはじまりで、中国仏教の釈源(発源地)でもある。前漢末から後漢の初めころに伝播した仏教はまず洛陽城に根を下ろし、その後、各地に広まった。城西に白馬寺が建立されて以降、歴代王朝はこの地に数多くの仏教寺院を建立し、洛陽は比類のない伽藍都市となり、仏都と尊称されている。
およそ400年間ほど続いた漢王朝が3世紀初頭に滅び、その後6世紀末、隋によって統一されるまでの中華の分裂と盛衰の期間を魏晋南北朝時代とよぶ。漢魏洛陽城の宮城から中軸線をまっすぐ南郊に走る銅駝街の西に展開した大伽藍の永寧寺、城南に宣武帝(北魏第七代皇帝)が建立した景明寺、民衆の喜捨によって建立、維持された城東の瓔珞寺、庶民の娯楽場としても機能した城西の宝光寺などが有名である。北魏の楊衒之は『洛陽伽藍記』(入矢義高訳注、東洋文庫)で43寺廟の由来や立地、規模、機能などを著し、その盛衰を現代に伝えている。魏晋南北朝時代、洛陽城がことのほか精彩をはなったころのことである。
漢魏洛陽城は、隋唐洛陽城の10キロほど東にあった。このため、もともと城西にあった白馬寺は、現在、城東に位置する。漢魏時代の洛陽城が、隋唐時代には街ひとつ分ほど西に移動したためで、寺が動いたのではなく、街の中心が大きくずれてしまったからだ。
現在の白馬寺は清の康煕五十二(1713)年に改築されたもので、天王殿(中央に弥勒佛、左右に四大天王像)、大佛殿(釈迦牟尼座像)、接引殿(釈迦牟尼立像、菩薩など)、清涼台、そしてその上に建立された毘盧閣などから構成される。清涼台は明帝劉荘が幼少時に教育を受け、避暑に使った場所と伝えられる。
金の大定十五(1175)年、白馬寺の東に建てられた十三層の磚塔が斉雲塔(白馬寺塔)である。高さは35メートルで「離天只有一丈八」(天を去ることわずかに一丈八尺)とその威容が讃えられ、まさに「雲の高さに斉(ひと)しき塔」という評判から「斉雲塔」と命名された。往時、斉雲塔は洛陽城のはるか郊外からも望むことができた。旅人は視界に白馬寺の塔影を認めると、とうとうあこがれの都にたどり着いたことを知り、感慨にひたった。
いま、洛陽の藍天に屹立する十三層の磚塔を見上げると、各層の四隅に吊るされた52個の風鐸が仏都を吹く風にゆれてガラン、ガランと静かに響いてくる。この心地よい枯れた音色は、洛陽の浮き沈みを見守ってきた歴史の呟きに違いない。