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老残日誌(十三) 毛主席への思慕は父母に対する感情よりも深い
毛主席への思慕は父母に対する感情よりも深い
数ある「文革修辞法」のなかに、「爹親娘親不如毛主席親!」(毛主席への思慕は父母に対する感情よりも深い)というのがある。個人独裁の頂点にあったあの時代を代表する、狂った偶像崇拝である。
毛沢東は一九五三年に早くも中華人民共和国の建国の理念であった新民主主義論と連合政府論を打ち捨て、急進的な「社会主義改造」に突き進み、五〇年代から七〇年代の中盤まで中国の大地は政治闘争の嵐に覆われ、そのなかでこのように毛沢東を天まで持ち上げ、中国共産党を唯一無二の正しい党と鼓吹する言葉が氾濫した。
人民はそのことに疑問を抱いたが、中共の「教え」と真面目に向き合った真面目な人々は秧歌隊が太鼓を叩いて歌い、舞ったプロパガンダの「歌舞」に熱狂し、毛語録の朗誦に合わせて「忠字舞」さえも踊った。圧倒的多数の人民は、まだ社会主義革命に絶大な期待を寄せていたので、疑念を抱いた人々は苦悩の末、「そのような疑念にとらわれる自分には、まだ革命の自覚が足りないのだ」と無理矢理に納得し、毛沢東と中国共産党の専制独裁を受け入れた。その行為を、「愚かな…」という一言で一笑に付すことはできない。わたしたちの国だって、かつて大日本帝国が掲げた皇国史観によるウルトラ・ナショナリズムのなかで「天皇陛下万歳!」と叫んで戦闘機もろとも敵艦に体当たりし、あるいは砲弾が雨のように降る迫撃戦で銃をかまえて突進し、敵弾に当たって斃れていった幾多の若者がいたではないか。
それは純粋に社会主義革命を信じた人民に共通した、ピュアな「革命精神」でもあったのであろう。こうした疑念こそ実は中国の社会を正常化させる正しい思考であったことが明らかになるのは、中共がまがりなりにも文革を総括し、文革に弄ばれて不本意な挫折を余儀なくされ、果ては人生そのものを失った幾千万にものぼる真正の革命戦士たちの雪辱を晴らした「歴史決議」以降のことなのである。
圧倒的多数の人民は革命家である前にまず生身の人間であるので、「毛主席への思慕は父母に対する感情よりも深い」などということは荒唐無稽以外のなにものでもないはずなのだが、「文革」という政治運動の狂気に浸され、思考が特定の方向にのみ暴走し、一時的にそのような観念にとらわれ、判断力を失ってしまったのだろう。
いわゆる「文革修辞法」は中共の思想工作部門が毛沢東と党の正統性を人民の思考のなかに植え付けるため、職業作家や工作要員などを使って捏造したプロパガンダ修辞法である。その数は膨大だが、いずれも毛沢東を至高の存在として位置づけ、その毛沢東が指導する党は無繆無欠であり、党があってはじめて「新」中国があることを強調する単純明快な手法を採用している。
たとえば、党を天まで持ち上げた「天大地大不如党的恩情大!」(天や地がいくら大きくても、党の恩情の大きさにはかなわない)は、中共がその「臣民」である大衆に下賜する「恩情」の深さを天の限りない大きさよりも、台地の広大さよりも偉大なものとして宣伝し、人民の思考を麻痺させ、党に対する絶対的な服従を調達しようと目論んだものであろう。
次は、「社会主義」への理想を極限まで高めようとするものだ。「千好万好不如社会主義好!」(千も万ほども良いものがあったとしても、社会主義の素晴らしさに勝るものはない)は、毛沢東が党という組織を使って実現しようと足掻いた「社会主義」をその実体ではなく観念で無繆化し、人民に信じこませることを狙った「修辞」である。
最後に、階級概念を煽ってひねりだした「河深海深不如階級友愛深!」(河や海がいくら深くても、階級的な友愛の深さに勝るものはない)は、ブルジョアジーとプロレタリアートの矛盾を利用して階級的な対立をつくりだし、そこに中共が生き残るための巨大な空間を捏造しようとした。
この「文革修辞法」の雛形は、江西省の中華ソヴィエトから大西遷してたどりついた黄土高原の延安で毛沢東が中共内における権力を確立するために編み出したものだ。一九四九年に中華人民共和国が成立すると、毛沢東を中心とする中国共産党はこの至高の存在としての毛沢東と党、社会主義、階級観念をセットにしてバージョン・アップした「文革修辞法」を使って、毛本人と党の権威を最大化することにつとめた。それは政治、経済、文化、芸術などのあらゆる領域を侵略し、人民を教化して毛と共産党が進めたユートピア的な「社会主義」を正当化するための道具として利用され、文化大革命で頂点を迎えたのである。