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大島について(二)


島のアンコ   

里見弴が明治四十二年に発表した「大島ゆき」という紀行文があり、かまくら春秋社がそれを『雑記帳』(昭和六十年)に転載している。里見はそのなかで、大島元村の旅館濱川屋に呼んでもらった大島節の歌い手が京橋から流れてきたという四十がらみの年増芸者だったことにげんなりし、二〜三曲唄ってもらって早く返そうと「(旅館の)婆さんを物陰に呼んで五十銭わたす」という描写があった。きっと、素朴で美しいアンコでもやってくると思っていたのだろう。

大島に遊んだのは学習院高等科に在籍していた二十一歳(明治四十一=一九〇八年)の年末十二月二十六日から年明けの一月二日までで、伊東から渡船に乗り、二時間半ほどかけて元村桟橋に半島の海峡を渡った。わたしが子供のころに乗った東海汽船の菊丸(七百トン)でさえ二時間も要したのだから、明治末期から昭和四十年代に至る六十年間で船足はあまり速くなっていないようだ。『大島ゆき』は滞在日記を下地にしてまとめられている。里見は大島をあまり気に入らなかったらしく、紀行文の最後に「つまらなかった大島旅行とともに、つまらない日記も終わる」と記していて、まことに潔くない。それでも滞在中に交わった「労働婦人」(「アンコ」を指す。このとき、里見はまだこの呼称を知らなかった)のことについて、「書き忘れたが、大島の女には醜い奴はそんなに居ない」、あるいは「大島の女は美しい。併し吾々が常に美しいと称するのは清雅(リファイン)された美しさだが、大島の女の美しいのは野的(ワイルド)な蕃人(サベージ)的な美しさである」などと書き残している。三原山の頂から眼下に一望した利島、式根島、御倉(御蔵)島、神津島など伊豆諸島の絶景には感動し、そして島内でも村ごとに異なる島方言などには少し興味をおぼえたようである。

アンコ(水汲み、縮小)

〔写真:大島町史編纂委員会『大島町史 民俗編』(ぎょうせい、平成十一年)より〕

里見弴が「労働婦人」と読んだ「アンコ」については、昭和十一年に息抜きの目的で大島を訪れた井伏鱒二もそのときの手記「伊豆大島」(三笠書房総合文化雑誌『ペン』十一号に掲載)で触れている。天才井伏鱒二の筆は里見のような若書きではなく、こなれていて心地よい。井伏によれば島のアンコの肖像は「筒袖の着物に幅のせまい黒繻子の帯をしめ、黒繻子のふちをとって前掛けをしめてゐる。髪は後頭部でたばね手拭を軽くしめた鉢巻きの上にそのたばねた髪をかぶせてゐる」とあり、わたしが子供のころに焼き付けた記憶のなかにいきるアンコ姿とほぼおなじだ。井伏は三原登山道の一合目ごとにある掛け茶屋で島の娘の接待を受け、そのときの想い出を「茶屋にはそれぞれ可愛らしいアンコがゐた」と回想する。また、宿屋の女中が、「表通りのアンコばかり有名になって、裏通りの家のアンコはとかく無名である。これは甚だ不公平なことではないか」と語ったことなどを書き残している。女中が語る表通りのアンコとか裏通りのアンコという表現は、ある種の羨望やあきらめが滲み出ていて面白い。井伏は、トルストイを耽読してその隠遁生活にかぶれ、島に棲みついてしまった友人の能勢行蔵から島で有名なお俊アンコを紹介してもらっており、「新進優秀なアンコが排出してくると、有名なお俊アンコなどの名声にもいささか影響するところがあるだろう」と語っている。井伏のいう「新進優秀なアンコ」とは、登山道にある茶屋などにいる可愛らしいアンコのことを指しているのだろう。

大島で生まれ育ったわたしにとって、子供のころ、アンコの存在は日常で、その厳密な定義など考えたこともなかった。アンコとは、いったいどんな女性のことをいうのか。大島町が平成十年から十三年にかけて編纂・刊行した『大島町史』全四巻(ぎょうせい、平成十〜十三年)が出るまでは長く大島の準歴史書とされてきた立木猛治『伊豆大島志考』(伊豆大島志考刊行会、昭和三十六年)の「家族制度と分家の法則」の項には大島では固有名詞の語尾に「コ」をつける習慣があり、舟を「フネッコ」、犬を「イヌッコ」、着物を「キモンコ」などと称するほか、「鞠ッコ」、「足袋ッコ」、「魚(いよ)ッコ」などと呼んだ。アンコも同様で、「姉ッコ」の転訛したものとされ、「姉サン」のことを呼称し、年長の婦人、あるいはその名の下につけて呼ぶ。一般に娘のことは「オンナゴ」とか、複数の場合は「オンナゴラ」と称する。したがって、アンコを妙齢の娘を意味して呼ぶことはない、という意味の説明がある。そして著者の立木氏自身も本書の著述に際して幾多の貴重な史料をよせてくれた山田光吉翁、白井まつ嫂のことをそれぞれ「光吉のアニイ」、「おまつのアンコ」と呼んでいると述懐している。著者は同時に、最近(『伊豆大島志考』が刊行された昭和三十六年ころのことを指しているのだろう)では時代の風潮に観念づけられてしまったようで、島民でありながら、若い娘のことをアンコと思うようになってしまった、とも嘆いている。『大島町史』民族編の第五章「方言」によれば、大島旧六ヶ村(泉津、岡田、元村、野増、差木地、波浮港)では村によって方言に微妙な違いがあり、たとえばわたしが生まれ育った差木地村では家族の呼称に「オジー」(祖父)、「ババー」(祖母)、「チャーヤー」(父)、「オッカア」(母)、「○○アニー」(○○兄)、「○○ネー」(○○姉)、「オンジー」(伯父)、「オンバー」(伯母)などを使っているとある。わたしの家族は大島の土着ではなく、戦後に東京新宿の上落合から移入したものだが、純粋江戸っ子の父親でさえ大島に移ったあとは母のことを「オッカア」と呼んでいた。

大島は漁業と農業、観光の島で、観光が島民にもたらす恩恵は多い。その観光でアンコがつくるイメージは重要で、来島者に良くも悪くも多くの想い出を残している。そんな状況のなかでも、アンコは島の娘を表す代名詞になって久しいが、もともとは立木が『伊豆大島志考』で書いているようにあくまでも「姉ッコ」あるいは「姉サン」の意味で、若い娘を呼ぶ呼称ではなかったのである。

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