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老残日誌(十四)
馬祖列島——台湾海峡に浮かぶ五粒の真珠
馬祖列島は台湾海峡の北部海域に浮かぶ東引島、北竿島、南竿島、西莒島、東莒島の主要五島からなる台湾領土だ。中国と台湾を五十年以上もきびしく隔てた冷戦の海を両岸の架け橋に変えたのは、台湾当局が二〇〇一年から実施している対中緩和政策である。通郵、通航、通商のいわゆる「三通」を金門、馬祖の二地域経由で実験的に小さく行うことから「小三通」とよばれる。この政策は二〇〇八年六月、外国人にも適用され始めた。台湾本島と列島を結ぶフェリー「臺馬輪」は夜明けとともに最初の寄港地、東引島の中柱港に到着した。昨晩、基隆の港を出帆したこの老朽船は台湾海峡の風浪にもてあそばれながら、約百七十キロの航程を八時間かけてこの島にたどりついた。桟橋に降り立ってもまだ足下がふらふらするのは、悪天候による船の揺れから身体感覚が抜け出せないためだろう。よろよろと旅行カバンを引いて、海岸からせり上がった丘の斜面に広がる集落にむかう。
東引島
つづら折りの坂道をのぼってゆくと、斜面に建つ民家の屋根塀に小さな鳩小屋が建ち、十数羽が海にむかって羽ばたいている。馬祖列島は今でも季節風が吹くと何日も交通が遮断され、文字通り絶海の孤島になる。列島間に、あるいは台湾本土との間にまだ充分な通信設備がなかった昔は、伝書鳩による連絡が重要な役割を果たしていたのかもしれない。かつて「反攻大陸」の最前線だったこの島では、おそらく軍隊も鳩を飼って通信の不備を補っていたに違いない。坂道は十分ほどで島のメインストリートに達した。向かって左側の家並みが中柳村、右側が楽華村だと地図に記してある。食堂やゲームセンターなどの娯楽施設は道路の左に集中し、民宿やホテルは右に集まっていて面白い。旅館を物色しながらネットカフェを覗いてみると、大きなフロアに四十台ほどのコンピュータが並び、それぞれの機械に兵役の若者たちが取り付いている。盈賓休間旅館で旅装を解いた。部屋は高級ホテルのように清潔で、コンピュータまで備え付けてあるではないか。これで台北あたりの安宿と同じ料金なのだから嬉しくなる。
旅館でスクーターを借りて散策に出かける。目指すのは島の東端、世尾山の断崖が台湾海峡に落ちる急斜面の東湧燈台だ。清の光緒三〇(一九〇四)年、英国人技術者によって設計建造された白亜の燈台は、今でも華南から上海や天津にむけて台湾海峡を航行する船舶の道標になっている。礎石には「閩海関 東湧燈台」と朱で彫られているので、現実はともかく、政策上は福建(閩)税関に所属するものらしい。すでに六十年前に中国大陸と切断されながら、中国であることを主張しつづけざるを得なかった「反攻大陸」政策時代の名残りであろう。
この島の行政区劃にも冷戦時代の残り香が漂う。東引島の正式名称は連江県東引郷とよばれる。連江県は大陸の福建省北部にもあり、「海に流れ出す大小河川が南北に連なる県」という意味だ。このことから中国と台湾が分裂する以前は、馬祖列島も福建省に属していたことがわかる。現在の東引郷は、東引と西引の二島に周辺海域の雙子礁、西沙、北固礁、南引など四島があわさって成立した離島の行政区劃である。そんなことを考えながら、燈台を見下ろす世尾山の斜面にのぼる。濃い群青色の海峡には、茫洋とした水平線以外に視界に入るものはない。ぼんやりと霞む海原を見て、いま絶海の孤島にいるのだという感慨にひたる。
中柱堤防
東湧燈台から北部海岸沿いに西引島へ向かう道を走る。切り立った海岸線の雄景は自然が演出する一幅の絵画とでも表現すべきだろう。おもわず、台湾海峡に浮かぶ真珠、という言葉が脳裏を去来する。その美しさにスクーターを止めてうっとりしてしまう。海岸に没する断崖のところどころに野鳥が群れてにぎやかだ。渡り鳥であろう。その下の方で釣り人が長い竿を振っている。原始の風情が残る海峡の海は魚影が濃く、磯釣りのメッカらしい。東引島の地図には釣りのポイントが無数に印されている。
西引島は東引島の北西約一キロの海上に浮かぶ小島だが、二十年前に両島をつなぐ中柱堤防が竣工して往来が便利になった。堤防の中央には中国式の亭(ちん)があり、そこに蒋経国像が鎮座している。三十八年間の長きにわたって国民に緊張を強いた戒厳令を解除し、中国大陸への里帰りなどを解禁して台湾社会の部分的な民主化を許容した蒋経国は国防相時代、頻繁に東引島を訪れ、最前線で「反攻大陸」の軍事指揮をとった。この島は台湾防衛の最後の砦だったのだ。西引島には軍事施設が集中し、民家はほとんどない。島を一周し、最後に兵営の歩哨に敬礼してふたたび中柱堤防を渡る。中柳村へもどる山越えの道で、稜線に立ってながめた村の集落が黄昏の斜光に輝いている。ふりかえると、夕焼け空の下に堤防で結ばれた西引島の美しいシルエットが旅情をそそる。村にもどり、ネットカフェに併設された食堂で排骨飯と臭豆腐の夕食をとる。一日の任務が終わったのだろうか、兵役の若者たちはコンピュータの画面と対面し、あるいは携帯電話を耳にあて、なにやら楽しそうに島の夕暮れどきをすごしている。
台湾海峡を行く
ふたたび「台馬輪」の客となる。早朝六時半に中柱港を出帆したフェリーは、馬祖列島の中心————南竿島に向かっている。見晴らしの良いラウンジで軽食をとりながら早朝の航海を楽しむ。案内板によれば、このフェリーは一等、ビジネス、エコノミーの寝台、それに座席の四等級があり、乗客定員は五百人、船員が三十人で操船しているらしい。ブリッジに貼付けられた船の出自を示す銘板は、この船が大分県の臼杵鉄工所で一九八五年一月に進水したことを示している。船齢は二十四年だ。「台馬輪」を運行する新華航業公司によると、もともと瀬戸内航路を走っていた内航船を買い入れ、改修を施して馬祖航路に就航させたらしい。
これから南竿島の親戚を訪ねるという男性は、「台馬輪」が馬祖列島の命運をにぎる重要な交通機関であることを教えてくれた。島の港はいずれも海底が浅く、吃水の深い外航船は桟橋に接岸できないので「台馬輪」のような内航船が必要なのだという。しかし吃水が浅い船舶は風浪に弱く、風の強い季節には頻繁に欠航することを嘆いていた。右手の船窓を亮島(無人島)が通りすぎていく。前方には北竿島の島影がうっすらと見えてきた。めざす南竿島まであと一時間ほどの航海だ。
南竿島———馬祖列島の中核
フェリーは八時半に南竿島の福澳港に接岸する。フェリー埠頭の隣りに近代的な漁業桟橋がつづき、ジャンクのような漁船が舫っている。島民は漁業を生業としているのだろう。福澳港の「澳」の字は、水が陸地に深く入り込んだ地形を指す。入り江のことであろう。福澳港も海岸線をスプーンで抉ったような地形に恵まれた天然の良港である。台湾海峡の渡航緩和政策を利用して台湾から大陸に渡る人々も、大陸からやって来た観光客もここで出入国手続きをして船を乗り換え、それぞれの目的地に向かう。おなじ海峡横断でも南の金門島のような派手さはなく、静かな「小三通」の風景だ。
埠頭から至近の凱翔客桟(旅館)に宿をとる。南竿島は国際港を持つ福澳村を表玄関にして、珠螺、四維、馬祖、津沙、仁愛、清水、介壽、牛角など九村から成る。どちらかといえば山あいに位置する珠螺、四維、馬祖、清水の四村は比較的新しく、辺境防衛軍の兵営などが建物のほとんどを占め、それに娯楽施設としての飲食街が付随している。残りの村は数百年の島の歴史を背負った海辺の古鎮で、風俗習慣や建築物の様式はマレー・ポリネシア系の海洋文化と閩(福建)文化の古式を継承しているようだ。文化は辺境に残る、と言われる所以であろう。島の西南角の入り江に面した津沙村には、夏場だけ民宿として使われる古民家群が斜面の高見に点在する。まだ入り江に防波堤などなかった時代、台湾海峡の大波を避け、雨期の湿気からのがれるため高所に建設されたものだろう。それら静かな古民家の傍らから現在の集落を眼に焼きつけて、数キロ先の仁愛村に向かう。
福建沿岸の陸影
スクーターがつんのめりそうな急坂を下ってゆくと、前方に華麗な媽祖廟の屋根が見えてきた。仁愛村だ。馬祖列島の名称が媽祖廟の「媽祖」に由来しているのは言うまでもない。路傍の空き地に古井戸があり、側面に石の銘板が貼ってある。近寄ってみると「民国参拾年修整」と打刻されているので、村民が代々伝えた井戸を民国三〇年に修繕したということなのだろう。はてな、と思う。民国三〇年といえば一九四一年だから、台湾はまだ日本の植民地統治下にあったはずだ。カイロ宣言には「台湾および澎湖島を中華民国に返還する」とあったはずなので、当時、馬祖列島は日本の植民地ではなく大陸中華民国の領土だったことに気づく。
石造りの集落を歩きまわって写真を撮り、海浜の「鉄堡」とよばれる軍事要塞を見学した。かつては海に突き出た小さな半島には大砲や機関銃が天を突き、塹壕が掘られ、敵の上陸兵を阻む無数のガラス片が鋭い切断面を剥き出しにして埋め込まれていたという。今はすべて撤去され、「鉄堡」は村の数少ない観光資源になっている。村から数キロ離れた海岸に地下埠頭があるというので見学に行く。名前を「北海坑道」という。海岸線の絶壁に深く穿たれた潜水艦基地のような風情で、数十トン級の小型船舶なら何隻も進入できそうだ。戦時の物資補給を目的に施工され、幅十、高さ十八、奥行き六百四十メートルの地下水路は馬祖列島における軍事工事の代表とされる。
北海坑道から島の反対側にある牛角村に行く途中、介壽村で小休止する。ここは連江県政府の所在地だ。つまり、馬祖列島の中心ということになる。村の真ん中には野菜公園という名前の大きな広場があり、村民が畑仕事に精を出している。この村には立派な飛行場があり、台北や台中との間をプロペラ旅客機の定期便が頻繁に往復している。この村のメインストリートを登りきったところが牛角嶺と牛背嶺の二大山を結ぶ尾根で、そこから坂道を下れば牛角湾の漁村になり、村の高台には真っ赤な媽祖廟が優美な姿を誇っている。高台をさらに登っていくと台湾海峡の視界が一気に開け、右手には明日訪れる北竿島が、左手水平線の彼方には陸影が見える。地図で確認するとそれはまぎれもなく福建の遠景で、定海湾を形成する黄岐半島の南岸に違いない。距離にして約60キロ、中国大陸はもう眼と鼻の先なのだ。
北竿島一周
南竿島の北の海域に浮かぶこの島は、くびれた蓮根のような形をしている。福澳港から快速船に乗れば十五分ほどで白沙湾の桟橋に到着する。塘岐村、橋仔村、芹壁村、白沙村、そして浅瀬で繋がる小島の后沃村などの集落からなるこの島には、馬祖列島でもっとも高い海抜を誇る壁山(二百九十八メートル)がある。晴れた日ならそこから馬祖の島々や中国大陸を見渡すことができるというのだが、今日は山に雲がかかっているので登るのをあきらめる。港でスクーターを借りて北竿島最大の集落である塘岐村に向かう。それから先の予定は島の人の話を聞いてから決めればよい。いつもの旅の散策スタイルである。
午前中の塘岐村はまだ活動を開始していないのか、人影がきわめて少ない。一軒だけ営業していた食堂に入って海鮮麺をたのむ。店主の話によれば、数日前、日本人の若者が一人この店に立ち寄り、やはり海鮮麺を注文したのだという。集落からほんの数分のところに北竿空港があり、離発着の爆音が聞こえてくる。海が時化ると船は当てにならないので、島民は速くて安い飛行機を利用するらしい。船というのはどうも「台馬輪」のことらしい。台湾本土までの航空運賃をたずねると、海路とあまり違わない。きっと、島民割引があるのだろう。
后沃村の龍嫌い
砂州の浅瀬に敷かれた道路を渡って、隣りの小島の后沃村に向かう。砂浜には小舟が引き上げられ、その後に離陸するプロペラ機が見える。后沃村の「后沃」は「後澳」と同義で、北竿島で最も奥の入り江にある村、という意味だ。ほんの十数戸が寄り集まった小村である。石積みの民家が並ぶ路地を進んで行くと、楊公八使廟に突き当たる。楊公八使とはこの島に伝わる古代からの祈祷師で、悪龍に虐められたことで有名らしい。そのため、この廟は龍を想像させるレリーフや装飾物を一切排除している。前世紀の九〇年代、北竿文化協会は付近の海岸で龍舟賽(ドラゴンボート)を企画したが、后沃村がこれに強く反対して実現しなかった。龍嫌いの村なのである。
島の反対側にある橋仔村に向かう。スクーターで山の尾根まで登り、反対側の斜面を一気に下っていくと、前方に小さな漁港と派手な寺廟の建物が見えてきた。なんと、この村の媽祖廟の屋根にはみごとな龍が踊っているではないか。悪龍はこの漁村まではやって来なかったらしい。中国大陸に向かって突き出した小さな半島には歩哨のいないコンクリートの見張り小屋が朽ちて廃屋になっている。「反攻大陸」は、もう過去の政策になってしまったのだろう。廟の敷地に併設された漁具展示館に入ってみたが、何ら見るべきものはない。斜面に広がる集落を歩くと小道に幾つもの小さな橋が架かっていることに気づく。湿った季節風が吹くと、雲が山の斜面にぶつかって大雨が降り、濁流となって村を流れて海峡に注ぐのだという。小さな橋はそれらの濁流を跨ぐための生活道路だったのだ。橋仔村という名前の由来を教えられて納得する。小一時間ほど散策し、本日最後の訪問地である芹壁村を目指す。
反共スローガンの村
大陸に面した海岸に砂浜がつづく。その上の斜面に福建様式の建築物が広がっている。これだけ大規模な小民家群は東引島にも南竿島にもなかった。ここ芹壁村はかつて馬祖列島でも有数の漁業基地だった。前世紀七〇年代以降、漁撈自体が近海から遠洋に移ったために村は衰退し、漁民のほとんどがここを捨ててしまった。古民家の廃墟だけが残ったのだが、最近になって都市にはない生活環境を求める芸術家や若者が住み着き、新しい島の文化を育みはじめている。彼らは生活の糧を得るために、夏期、美しい砂浜を求めて訪れる観光客に住居や食事を提供する民宿やカフェをオープンした。
芹壁村の家々の軒先には決まって反共スローガンを刻した石板が貼付けられている。「朱毛漢奸を消滅せよ」とか「光復大陸」などの標語を見ていると、福建省と至近距離にあるここもまた「反攻大陸」政策の前線基地であったことがわかる。海峡を望む高台の喫茶店で一休みして店主と雑談する。昨日まで日本人の若者が宿泊していたという。塘岐村の食堂で話題になった海鮮麺の男かもしれない。南竿にもどる時間になったので、白沙湾の船着き場に急ぐ。
福建を護る二匹の番犬
馬祖散策の最終日、南竿島の福澳港から快速艇に乗って西莒島をめざす。船はまず東莒島の猛沃港に寄港し、数キロ離れた西莒島の青帆港にむかう。二島は東西をあわせて莒光郷と称される馬祖列島最南端の行政区劃である。南竿島から南へ下ること三十キロ、約一時間の航程だ。小雨降る青帆村に人影は少なく、観海楼という名前ばかりが立派な簡易食堂で昼食をとり、ふたたび船着き場にもどる。兵役の若者が数人、定期船の待合室で事務をとっていた。軍服に身を包んだ若い女性もいるので「やはり兵役ですか」とたずねると、「志願です」と答える。離れ小島でこんな知的な異性と祖国防衛の任務に就けるのなら、兵役も捨てたものじゃない。
台湾海峡に注ぐ大河閩江の河口と言ってもおかしくない海域に位置する西莒島の中国名は西犬島、東莒島は東犬島だ。二匹の犬で福建省の表玄関を護っている気分なのだろう。青帆港から南竿島への復路はにわかに天候がくずれ、小さな快速艇は大波に弄ばれながら航海した。船窓に打ち寄せる巨浪が砕けて無数の泡になり、海峡の風景をさえぎる。銀色に光を放つ泡粒は、馬祖という台湾海峡に浮かぶ五つの真珠が生んだ子供のようだ。船の丸窓に、往路では確認できた福建の陸影を見ることはできなかった。(二〇〇九年三月執筆)
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