【関西グルメ考】 #3 〜 お好み焼きの歴史編(前編)
「お好み焼き」はいつからあるのか?
関西グルメの筆頭といえば
「お好み焼き」!
前回も書きましたが、
本場大阪で、ミシュラン掲載の「お好み焼き」を食べて、すっかり感動してしまった
オジロワシ 🦅です。
お好み焼きにも、色々な種類があって
北海道民としては、少々驚いてしまった訳ですが
そもそも
「お好み焼き」っていつからあるのか???
と、興味が湧いたので、調べてみました。(;^ω^)
とは言え、
自分の記録用に書いてます😅
お好み焼きが焼き上がるまでの前菜みたいな感じで
軽〜くお読みいただけると幸いです🙇
▶ 明治以前
そもそも、「お好み焼き」といえば
「粉モン」なんですが、
「粉モン」の「粉」、
つまり「小麦粉」がいつからあるのか?
って話になる訳でして。
まずはそこから始めてみます。
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(1)小麦の伝来
そもそも
小麦粉は、人類最古の作物と言われ、
1万年以上も前からあったらしい。
ちょうど、人類が狩猟から農耕へと進化していた時期に、西アジア(メソポタミア文明)とか、そんなあたりで栽培されていたのが最初みたいですね。
そこから、長い年月をかけて、世界中に広がっていったのですが
なんと!
日本でも弥生時代には、稲作と一緒に伝わっていたというから、驚きです!
弥生時代は、紀元前300年。
とはいえ、大昔には
獲れた小麦を粉にする技術は当然ないので
硬い殻が付いたまま、重湯のようにして食べていたそう。
かなり、不味かったと思われます😓
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(2)奈良時代 ~ 煎餅(センビン)
それから、時が流れた、奈良時代。
菅原道真と並ぶ大学者で遣唐使であった
吉備真備(きびのまきび)が
唐から持ち帰ったとされるのが
小麦や小麦を挽いた小麦粉を食べる
「粉食文化」。
因みに、米食は
米の粒を食べるので
「粒食文化」
というのです。
吉備真備は
小麦粉を水で溶いて、鉄板の上で焼いた
「煎餅(センビン)」
を紹介したのですが、
イメージ的には「クレープの皮」みたいな食べ物だったらしい。
この「煎餅(センビン)」が
どうやら「お好み焼き」の祖先らしいのですね。
でも、この煎餅(センビン)、
残念ながら世間には広がらなかったそう。
代わりに、この奈良時代には
同じ小麦粉からできた、団子や麺類が、
少しずつ貴族の間に広がっていったそうです。
遣隋使や遣唐使が中国から持ち帰ったのは
学問や仏教だけではなく、
新しい食べ物ももたらしたのですね🥣
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(3)安土桃山時代 ~ 麩の焼き
更に、時は流れた「安土桃山時代」。
信長、秀吉、家康でお馴染みのこの時代、
侘び茶を大成させたカリスマ的な茶人
千利休が、お好み焼きの歴史に登場します。
千利休は、
茶の湯だけではなく、
実は日本の食文化に深く関与している人物。
やはり、
お好み焼きの歴史にも関わっておりましたか😅
利休が好んで、茶会でよく用いたとされるのが
「麩の焼き」でした。
あの、我々がよく食べる「麩」の親戚です。
麩の原料は小麦粉。立派な「粉モン」ですね。
この「麩の焼き」が、お好み焼きのルーツとされています。
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(4)江戸時代 〜 助惣焼き
江戸時代になると
「麩の焼き」の山椒味噌の代わりに
餡を包んで食べる「助惣焼き」が発明されます。
江戸時代に、喜田川守貞が書いた随筆
「守貞漫稿」には、
この「助惣焼き」のことが
「温飩粉を薄くやきて 餡を包み、麹町にて売る。
今も存すれども 廃れて 買ふ人 稀なり」
と記されています。
この辺りから、庶民でも
「粉もの(小麦粉)」を普通に食べられるようになったようです。
当時、
小麦粉は、温飩を作ることから
「うどん粉」と呼ばれていました。
また、この「助惣焼き」は「どら焼き」のルーツともされています。
「どら焼き」と「お好み焼き」、
どうやら遠い親戚という関係のようです。
▶ 明治以降〜戦前
明治から戦前にかけ、日本の食文化は一気に変化していきます。
それは日本の「粉モン文化」にも大きな影響を与えてきます。
とはいえ、
日本の食卓は、米が主役で、
粉モンは、まだまだ珍しい脇役の存在でした。
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(1)「もんじゃ焼き」
ようやく馴染みの食べ物の登場です。
「もんじゃ焼き」は
水で溶いた小麦粉に具材を混ぜて鉄板で焼き、
小さなヘラで食べる、子どものおやつ的な食べ物。
東京の下町名物で、
よく駄菓子屋さんの奥に鉄板が置いてあって、
子ども達が焼いて食べているシーンを見たことがありますね。
「こち亀」だったか「三丁目の夕日」だったか?
実は「もんじゃ焼き」は
江戸時代や明治時代、紙が少なかった時代に
小麦粉を溶いた生地に鉄板の上で
文字を書いて教えたり、遊んでいたことから
「文字焼き」と呼ばれ、
そこから「もんじゃ焼き」と呼ばれるようになっていったそうです。
だから「もんじゃ焼き」には「駄菓子屋」のイメージがある訳ですね。
なるほどなぁ〜🤔
東京の「もんじゃ焼き」と関西・広島の「お好み焼き」。
今ではライバルの様に扱われていますが
誕生は「もんじゃ焼き」の方が
断然早かったようです。
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(2)どんどん焼き
大正時代に入り、東京を中心に流行した軽食が
「どんどん焼き」です。
これは「もんじゃ焼き」の生地の水分を抑えて、
固めに焼き上げ、持ち帰りできるようにしたもので、屋台を中心に売られていました。
縁日などで食べ歩くのに、手ごろで、ちょうど良い食べ物だったそう。
北海道のお祭りでは、今でも、割り箸にクルクル巻いた「はしまき」が売られていますが、その原型かと思われます。
この「どんどん焼き」が地方へ広がり、
東北や北陸などでソウルフードとして定着していきます。
客寄せのため太鼓をドンドンと鳴らしていたからとか、ドンドン売れるからなど、
名前の由来は諸説あります。
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(3)一銭洋食
「どんどん焼き」は関西にも広がり、やがて
「一銭洋食」と呼ばれるようになります。
一銭で買える、手頃なワンコイン感覚の軽食で、
当時は、ウスターソースがかかっている食べ物を
憧れを込めて「洋食」と呼んでいたことから、
「一銭洋食」と名付けられたそう。
「百円マック」みたいな感覚かな。
『100円あったらマックへ行こう』なんて
CMのキャッチコピーの原型は、
既にこの頃からあったのですね😅
一銭洋食は、大正から昭和にかけ、
駄菓子屋で売られていました。
出汁の入ったうどん粉を鉄板で焼き、
刻みネギ、とろろ昆布、魚粉などを乗せて、
半月状に半分に折り、ソースをかけたおやつ。
まさに、現代の「お好み焼き」の前段階と言えますね。
この頃から、関西の「粉モン文化」の土台が出来上がっていたと言えます。
(次回へつづく)
ちょっと長くなってきたので
この続きは、次回
「戦後編」で書きます。
あ、書きました😅
良かったらお読みください
それでは、また。
最後までお付き合いいただき
ありがとうございました
m(_ _)m
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