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【北海道観光】オススメ・小樽観光vol.4「江戸時代の小樽の歴史」

こんにちは♪
北海道各地の見どころ&グルメ情報を
「note」と「食べログ(鷲尾★ジロー)」で
発信中の【オジロワシ🦅】です。

只今、小樽の観光情報を発信中。

前回の「小樽の海鮮グルメ」の話に続き、
今回は、江戸時代の小樽の歴史を紹介します😸

全体的な歴史がわかると、より一層小樽の観光が楽しめると思います💁🏻



▶︎ 江戸時代の小樽の話


「小樽」といえば、北海道開拓の歴史を感じさせる「明治大正ロマンの街」といった印象ですが、
それ以前の江戸時代の「小樽」は、どのような町だったんでしょうか?

疑問に思ったので、調べてみました📖

江戸時代、
蝦夷地は道南の「松前藩」が管轄していました。
本州の他藩と違い、寒冷地で米が獲れない松前藩は、その財政を、アイヌとの交易によって支えていました。


当時の蝦夷地は
和人の住むエリアとアイヌの住むエリアが区分されていました。
道南一帯の「和人地」は、和人の住むエリア。
日本海側、オホーツク海側の「西蝦夷地」
太平洋側の「東蝦夷地」
はアイヌが住むエリアでした。

(引用:八雲町教育委員会HPより)


江戸幕府が成立すると、徳川家康は「松前氏の許可なく蝦夷での交易ができない」ことを記した「黒印状」を松前藩に与え、アイヌとの交易権を独占させます。

松前藩主は家臣に対し、米ではなく、知行として
蝦夷地の特定の地域での、アイヌとの交易権を与えます。

これを「商場あきないば知行制」と呼びます。

そして与えられた交易地を、「場所ばしょ」や「商場あきないば」と呼んだのです。

「場所」を与えられた家臣(知行主)は、自身の商場あきないばのアイヌコタンに、毎年交易船を派遣して、物々交換を行っていました。

(引用:北海道開発局HPより)


アイヌ側からは
鮭やニシン、昆布、熊皮、鹿皮、ラッコの毛皮など。
一方、松前側からは、上方から仕入れた
米や酒、塩、タバコ、小刀や鍋、漆器などが、
主な交易の品でした。

交易の品は、松前と上方の京坂地方の交易を行う近江商人などの手に委ねられ、上方へ運ばれて売買され、松前藩の経済を支えていきます。

しかしながら、松前藩の武士の間では
「アイヌとの交易で生計を立てている松前藩の武士は、真っ当な武家ではない」という負い目もあったようです。

「武士の商法」は次第に行き詰まっていきます。

18世紀(1700年代)、元禄時代に入ると、
松前藩主や藩士は、各地の「場所」の運営を
自らに代わり、商人達に代行させ、その利益の一部を「運上金(マージン)」として受け取るようになります。
これが「場所請負制」です。

「場所請負人」となった商人は、請け負った場所に、取引の拠点となる施設(屋敷)を作りました。
これが「運上屋(家)」です。

藩の出張所としての「運上屋」に、
「場所」の経営の全権をまかされた商人の請負人とその手代らが生活し、アイヌや本州から出稼ぎに来た和人を使って、漁業などが営まれていました。

小樽の運上屋の跡の碑は、小樽運河近くの「堺町通商店街」にひっそり建っています。

史蹟 オタルナイ運上屋跡
この運上屋の創設は明らかではありませんが、
おおむね享保年間(1716年~1735年)の頃と推定され、幕吏・大石逸平の「西蝦夷地場所回浦日記」によると、天明6年(1786年)4月1日、オタルナイ運上屋に、宿をとったと記されています。
慶応元年(1865年)、オタルナイ場所が「村並」となって、場所請負制度とともに運上屋も廃止されました。
以後この建物は本陣とよばれ、「穂足内おたるない御用所」となりましたが、翌慶応2年(1866年)10月、火災により焼失しました。
「運上屋」は、始め和人とアイヌ人との交易所として発足しましたが、交易ばかりではなく、漁業経営場所内の行政一般も、役目として取り扱っていました。
なお、オタルナイ場所の知行主は松前藩重臣・氏家氏で、請負人は近江商人 恵比寿屋・岡田家でありました。

(説明版より)


実は小樽訪問の際、看板をチラ見して、フーンと思ったのですが、内容をよく理解しておりませんでした💦
もっと歴史が分かっていれば、史跡の見方も変わっていましたね😅


▶ 小樽市内にあった3つの「場所」


現在の小樽市内には
オタルナイ場所」「タカシマ場所」「ヲショロ場所」の3つの「場所(知行地)」がありました。

「オタルナイ場所」は
現在の南小樽から朝里、銭函にかけての東側の広いエリア、
「高島場所」は
現在の色内いろない、手宮、高島、祝津のエリア、
「ヲショロ場所」は
更に西側(余市側)の塩谷など、忍路おしょろエリアとなります。

 オコバチ川(妙見川)

なんと、「北一硝子」や「オルゴール堂」がある、堺町通の起点にある於古発川(オコバチ川)が、「オタルナイ場所」と「高島場所」の境目でした。

小樽運河を見て、堺橋がある右側の堺町通りが、かつて「オタルナイ場所」があったエリア
左側の「旧日本銀行」などがある「北のウォール街」が「高島場所」があったエリアとなります😳

堺橋
堺橋を渡った先が、かつてオタルナイ場所があった
「堺橋商店街」になります


オタルナイ場所の知行主は、松前藩重臣の氏家直知で、場所の請負は、恵比寿屋・岡田家が、
また、高島場所の知行主は、松前藩重臣の蠣崎かきざき嘉蔵で、場所の請負は、住吉屋・西川家が、
それぞれ担って来ました。

オタルナイ場所の請負人の恵比寿屋、
高島場所の請負人の住吉屋はどちらも
北前船で財を成した近江商人の豪商です。


▶ 小樽という地名の由来


「オタルナイ」という地名が、初めて登場するのは、文禄5年/慶長元年(1596年)。
安土桃山時代の終わりの頃で、太閤豊臣秀吉が亡くなる2年ほど前という時代です。

この年、和人地の福山(現松前町)の住人、八木勘右衛門が、アイヌコタンのあったオタルナイに入植して、漁場を開き、和人として初めて漁業を始めたと言われています。

※八木勘右衛門(八右衛門?)がオタルナイに来てニシン漁を始めたのは、慶長元年ではなく、大阪冬の陣があった慶長19年(1614年)とする説や、もっと後の元禄時代(1688年〜1702年)ではないかという説もあります。


「小樽」という地名は、アイヌ語で「砂浜の中の川」を指す「オタ・オル・ナイ」が由来とされています。

この砂浜をゆっくりと流れる川が、現在の小樽市と札幌市の境界を流れる星置川の下流、「小樽内おたるない川」を示しているそう。
この「小樽内おたるない川」は現在ありません(同じ名の川は定山渓ダムの方にあります)が、星置川はまだ残っています。
その細い支流が、当時の文献にも残る清川きよかわ濁川にごりがわで、こちらは現存。
札幌の北区を流れる新川に合流し、石狩湾に注いでいます。

この新川の河口には「オタナイ発祥の地碑」があります。
どうやら現在の小樽市内ではなく、この地が約400年前に、八木勘右衛門が開いた「オタルナイ場所」だったようです。

因みに、「オタナイ」「オタネ」「オタルナイ」などと呼ばれたこの地には昭和40年代くらいまで、集落があったそうです。

ここは、手稲山口にある火葬場「山口斎場」のちょうど裏側になる場所。
「おたるドリームビーチ」から、石狩側に少し進んだ辺り。

子どもの頃から海水浴でよく遊びに来ていたこのビーチの辺りが
「小樽発祥の地」だったとは驚きです。


その後、この辺りが冬には季節風をまともに受け、船の係留などにも不便だったため、風を避けられ、海も穏やかな「クッタㇽウㇱ」に移転して
新たな「場所」が開かれたと言います。

この「クッタㇽウㇱ」が現在、「オタルナイ場所」の史跡が建つ、堺町通りの「メルヘン交差点」の辺りなのです。
現在、「ルタオ本店」の大きな塔が建っていますね。

ルタオ本店

ここはかつて、大きな船入澗ふないりま(船の貨物の積み降ろし場)でしたが、現在では埋め立てられています。

この時、「クッタㇽウㇱ」ではなく、そのまま「オタルナイ場所」という名が使われたそう。

その後、明治維新の3年前の慶応元年(1865年)、
幕府は「オタルナイ場所」の場所請制を廃止し、直轄となる自治体の「村並むらなみ」にします。
これは、オタルナイ場所の請負人である恵比寿屋の権力を奪うということを意味しました。

この時、村名をそのまま「オタルナイ(小樽内、尾樽内、穂足内)」としました。
その後、明治2年(1869年)、正式に「小樽」という地名に改称されます。

これが「小樽」という地名の由来という訳です。



▶ 小樽のニシン漁のはじまり

江戸時代後期から、明治・大正に、小樽が「ニシン漁」で沸いたという話はよく聞きますが、その前後関係がよく分からない💦

北海道でニシンといえば、道南の江差町だったり、道北の留萌市や小平町も有名ですね。
小樽とニシンの関係」を書いておきます。

実は意外なことに
小樽でニシン漁が解禁されたのは、江戸時代中期の
寛政5年(1793年)
のことです。

時代は11代将軍・徳川家斉の治世。
江戸三大改革の一つ「寛政の改革」が行われていた頃の話です。

江戸時代の初期、蝦夷地でのニシン漁は、
松前藩がある福山(松前)と江差に限られており、それ以北の西蝦夷地でのニシン漁は禁じられていました

この頃には、松前藩のニシンや数の子は、北前船による本州との貴重な交易品となっていて、松前藩の財源を支えていました。

このニシン漁のお陰で、
ニシンの産地である江差も大いに賑わい、
「江差の春は江戸にもない」
と言われるほどの繁栄を誇りました。

一方、この禁制を破り、更にニシンを求めて、
西蝦夷地へ出稼ぎに出る漁民も続出します。
松前藩は、熊石に番所を設け、西蝦夷地へ向かう船を取り締まっていましたが、その網をかいくぐり、多くの漁民がニシンを追って、奥地に出稼ぎに出るようになります。

ニシンの群れを追いかけて出稼ぎに出ることを
「追い鰊」といいます。

松前藩は、亭保4年(1719年)
西蝦夷地のうちでも近場所といわれる
現在の寿都町の磯谷、歌棄うたすつまでの追い鰊を認めます。
それでも、積丹半島を越えた先のニシン漁は
禁止し続けていました。

こうして豊漁が続いたニシン漁でしたが
安永5年(1776年)に福山が、続いて
天明2年(1787年)には江差が、不漁となります。

また、追い討ちをかけるように、
同じく天明2年、世に言う「天明の大飢饉」が全国を襲います。
このため、奥羽地方の流民が松前に大量に流れ込んできました。
少ないニシンを多くの漁民が狙う状況となります。

松前の漁民は生活のため、ニシンを求め、
西蝦夷の奥地へ追い鰊に行くようになります。

松前藩としても、ニシンが豊漁の時は莫大な運上金が納められますが、不漁となると運上金も激減し、藩財政に大きく響いてきます。

こうした状況のため、寛政5年(1793年)、松前藩は、積丹半島を超えて、小樽・石狩までの追い鰊を解禁。

この結果、小樽沿岸では、場所請負人の手による大規模なニシン漁が行われるようになります。

これが小樽でのニシン漁の始まりです。

小樽にある松前藩の場所、忍路おしょろ場所、高島場所は、ニシン漁の漁場としては最適で、
特に高島場所にある祝津は多くのニシンが獲れることから「ニシンの千石場所」と呼ばれるほどでした。

この当時、蝦夷地の各場所にいた場所請負人は、アイヌの人々を使って漁業を行っていたため、追い鰊でやって来た漁民が勝手に漁をすることはできませんでした。
そこで場所請負人は、出稼ぎに来た漁民に、ニシン漁の許可を与え、代わりに漁獲物の二割を徴収する「二八取り」という制度ができます。

こうして小樽でのニシン漁は、場所請負人に巨万の富をもたらし、そこから得られる運上金によって、松前藩の財政も潤っていくのです。


▶ 江差追分の歌詞の意味

祝津展望台に建つ江差追分の歌碑


北海造の代表的民謡である「江差追分」の一節で

忍路おしょろ 高島  及びもないが せめて歌棄うたすつ  磯谷まで

とありますが、これは
小樽にある忍路おしょろ場所、高島場所での
追い鰊に向かう男衆を見送る女性達の恋心を歌ったものとされています。

この当時、小樽へ向かうには、アイヌにとって聖地である積丹半島の神威岬沖を通過する必要があったのですが、神威岬周辺に女性を乗せた船が近づくと転覆事故が繰り返されるという伝説があり、長らく「女人禁制」とされて来ました。

だからせめて、現在の寿都町にある、歌棄うたすつや磯谷までは見送りたいという女心を歌ったものとされます。

歌棄うたすつや磯谷の先、岩内から先の奥地へは、女性が立ち入ることは一切できませんでした。

(現在の寿都町歌棄)


しかし、実際にこの「女人禁制」は
和人が積丹半島の神威岬を越え、西蝦夷地の奥地へ定住することで、ニシン漁を始めとした権益を損なうことを恐れた松前藩による規制ではないかと考えられています。

実際、寛政5年(1793年)に石狩までの追い鰊が解禁された際も、男衆の出稼ぎは1年間という期間限定でした。

この「女人禁制」が解かれたのは安政2年(1855年)、蝦夷地一帯が幕府の直轄下に置かれた年です。
蝦夷地では、ロシアなど迫り来る外国の侵攻に備えるため、奥地への定住化政策が進んでいったのです。


▶ 商品経済の発達とニシン漁

江戸時代後期の19世紀(1800年代)になると
国内各地では、米や藍、綿花、菜種など、商品作物の栽培が活発化していきます。

当初、食用として用いられていたニシンですが、
これらの作物の「肥料」としても使われるようになっていき、ニシン粕が活用されるようになります。

なんと水揚げされたニシンの90%が魚粉にすりつぶされ、肥料として使用、残りの10%が食材として利用されたそうです。

ニシン粕で作った魚肥を使うと、作物の成長が格段に向上するため、代金を支払って購入する肥料「金肥きんぴ」として、大いに求められたと言います。


ニシンの需要が大きく拡大したことから、多数の「北前船」が、日本海側の航路を頻繁に行き来し、大量のニシンを本州に運んでいくようになりました。

北前船は、3月頃に大阪を出発し、4~5月に蝦夷地に到着。
ニシンや昆布など北海道の産物を買い入れ、再び大阪を目指して出航します。
この往復に約1年。
1度の航海で、約千両(およそ1億円)の利益が出たと言われています。

北前船の日本海航路


まさにこの時から、小樽はニシン漁の中心となり、明治以降も続く「ニシンのゴールドラッシュ」が始まったのです。


一方、「天明の大飢饉」からおよそ50年後の天保4年(1833年)に発生した「天保の大飢饉」以降は、多くの流民が蝦夷地の「場所」に出稼ぎに来るようになり、やがて彼らは蝦夷地に定住するようになります。

天保11年(1840年)には、浜益区の雄冬岬以北への出稼ぎも解禁され、西蝦夷地の奥地の多くの「場所」がニシン漁に開放されます。

安政元年(1854年)になると、日本海側の沿岸にはニシン小屋が点々と建ち並び、その先端は、天塩のウエンベツ場所(現在の遠別町)に達するほどでした。


現在の小平町
現在の遠別町

ニシンの漁獲高が少なかった時代には、アイヌの労働力だけで間に合っていたニシン漁ですが、漁が大型化するにつれて多数の人手が必要となります。

ニシン漁で使う網も、それまで数人で曳けたものから、20〜30人で曳く大型の網を使用するようになり、大量のニシンを捕獲するために、場所請負人は、労働力の確保が課題となっていました。

このため、飢饉で蝦夷地に逃れてきた大勢の和人が漁業従事者として働くようになります。
更に春先のニシン漁の時期には、全国からたくさんの出稼ぎ漁師が加わり、小樽には労働者が寝泊まりした大きな「番屋」がいくつも建てられたそうです。

番屋「小樽市鰊御殿」
(建物自体は明治30年に泊村で建築されたもの)


西蝦夷地への定住を許可されたことで、それまで道南の「和人地」にいた人々は、ニシンを追って次々に北上。小樽や日本海沿岸の場所にやって来るようになります。

それまで、季節労働者を客とした食べ物屋ぐらいしか店がなかった小樽にも、衣服や米、味噌、雑貨など日用品を扱う商店が出現。
ニシン漁の好景気で、活気ある町並が作られていきます。

幕末の慶応元年(1865年)、
「村並」となった小樽内場所の人口は314戸、
1,143人が暮らす、西蝦夷地最大の集落になっていました。

興味深いのはその内訳。
男性が322人に対し、女性が521人と女性の方が多い。
かつて「女人禁制」の出稼ぎのための土地であった小樽が
生活するための町に発展していったことが良く分かります。


また場所請負制度が廃止された小樽には、
それまでの場所請負人だった商人に代わり、
網元となった親方衆や、新たに小樽にやって来た新興勢力の大商人たちが、ニシンの漁場において栄華を極めるような時代がやって来ます。

江戸時代の小樽は、明治に繁栄する小樽の基礎が築き上げられた時代だったのです。



札幌の隣にありながら、知っているようで知らない「小樽」という港街。

断片的に知っていた小樽の歴史の糸が一本に繋がっていきます。
知らないことばかりで、なかなか興味深い話が見つかりました。

かつて「関西の出汁文化」の話を書きましたが、
食で結ばれた関西と北海道との関係も、より一層理解することができました。
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小樽を観光する際の予備知識として参考になれば幸いです。

今回もかなり長くなり恐縮です🙇

最後までお読みいただき、ありがとうございました
m(_ _)m


【参考】


小樽観光全体はコチラ
 ▼▼▼

「おたる水族館」はコチラ
 ▼▼▼

「小樽の海鮮グルメ」はコチラ
 ▼▼▼



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それでは、また👋

(2024年11月13日投稿)



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