オメラスという都市と、ある一人の男
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とある物語をご存じだろうか。
美しく豊かな街、オメラス。この街の人々はみな幸せだ。笑い声が絶えず、争いもない。しかし、この理想郷にはひとつの秘密がある。街のどこか、暗く湿った地下室に、一人の子供が閉じ込められている。その子供はひどく痩せ細り、苦痛に喘ぎながら暮らしている。オメラスの幸福は、この子供の苦しみの上に成り立っているのだ。
街の住人はこの事実を知っている。しかし多くの人々はこう考える。
「子供を助ければ街全体が崩壊する。それなら仕方がない。目を背けよう」
しかし、一部の人々はその選択に耐えきれず、オメラスを出て行く。彼らがどこへ向かうのかは誰も知らない。
そんな寓話を、現代日本のある一人の男の姿と重ね合わせたらどうだろう。
男の名は山上徹也。ある罪を犯し、逮捕された彼は、もう900日以上も拘留されている。そして奇妙なことに、いまだ裁判が始まらない。彼が抱える苦しみは、果たしてどこへ向かうのだろう。
誰もが知っているけれど、誰も触れようとしないこと
山上徹也という名を聞けば、多くの人々が「彼は仕方ない」と思うかもしれない。彼の行動は許されない。だから、その扱いも当然なのだ、と。だが、その扱いが「正当」なのか、「仕方がない」からなのか、誰も深く考えようとしない。
暗い地下室に閉じ込められたオメラスの子供のように、彼の拘留生活は、司法制度や社会秩序の安定を支える「必要悪」として扱われているのではないか。
だが本当にそれでいいのだろうか。
裁判の始まらない拘留期間の長さが、日本の司法制度に根深い問題を抱えていることを示しているとしたら?
あるいは、彼の生死が国家や社会にとって「都合のよい結果」を求められているとしたら?
昔から言われているように、人間は同じ日の繰り返しで発狂する。
永遠に積み木を組まされる人々、シーシュポスの神話…
オメラスを出て行くという選択
オメラスの物語で語られる「出て行く人々」。彼らは、街の幸福と子供の苦痛が天秤にかけられることに耐えきれず、何もない荒野に足を踏み出す。
では、現代日本でオメラスを出て行くというのは、どういうことだろうか。
それは、山上徹也の拘留問題を問い直し、司法の在り方に声を上げることかもしれない。
「仕方ない」で片づけず、「それでいいのか」と考え続けること。
誰もが出て行く必要はない。ただ、この物語のように、出て行く人々がいることで社会に問いが生まれる。そしてその問いは、やがて変化を生み出すかもしれないのだ。
オメラスという寓話を通して、現代の日本社会を眺めてみると、不思議なほどに重なる部分がある。地下室の子供も、拘留される一人の男も、その存在をどう捉えるかで社会全体の在り方が見えてくる。
私たちがオメラスを出て行くか、それとも目を背けて住み続けるか。それを選ぶのは、あなた自身の手の中にあるのだ。