スエズ運河考
スエズ運河でコンテナ船エバーギブン号が座礁し、通せんぼ状態。欧アジア航路を寸断して物流に大きな影響を与えています。先回、バルチック艦隊のことを書きましたが、それより以前に渋沢栄一が開通前のスエズ運河を見聞しています。
1867年(慶応3年)、江戸幕府最後の使節団が徳川照武(徳川慶喜の異母弟)を正史としてパリ万博に派遣されました。その会計・書記として随行したのが渋沢栄一です。
横浜港を2月に出発して、上海、香港、柴棍(サイゴン)、新嘉埠(シンガポール)と寄港しながらインド洋を通過して紅海入口の亜丁(アデン)、そして蘇士(スエズ)までは約40日の航海でした。以下「航西日記 巻2」(※1)より意訳。
『スエズには3月26日着、紅海は行き止まりでそのまま船では欧州に行けない(船なら喜望峰回り)。港は蒸気機関を使って浚渫している。小船で上陸し、昼飯を食べて汽車を待つ。鉄道は英国通商会社が東洋貿易を目的に建設し、いずれ地元政府に返還予定。あたりは砂漠で、地元民の肌は黒く、白い衣服をきている。家は燕の巣のように土でできた粗末なもの。運河はフランス会社がスエズから地中海まで掘割するという広大な計画と土木工事である。運河が出来れば東西洋直行の航路となり、商貨の運輸に対してどれほどの益があろうか。西洋人の遠大な目論見に感心するばかりだ。砂漠は草木が生えず、牛馬は水がないので使えない。駱駝で荷物を運んでいる。線路際の茫漠たる荒野にタント(テント)という移動式の便利な人家があり、そこで汽車の食事を賄う。夕食は7時。パンと干し肉、果物、それに葡萄酒。』
鴎外は1884年、「ミチクサ先生」の漱石は1900年の渡欧、すでに運河は開通していました。渋沢栄一の「工事中の運河」は貴重な記録でしょうね。文語調で読みやすくはありませんが、見聞の驚きと気概が伝わってきます。
機会があれば現地に行って、当時のスエズ運河と比較してみたいものです。
※1;https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761062
渋沢(青淵)栄一、杉浦靄人
「航西日記 巻2」(明治4年)