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マイルドヤンキーの星。そんな「うちら」はズッ友で最強だと良いのだけど・・・

こんにちは。お字書き道TALKSです。
このnoteでは、字にまつわるあれこれ様々をざっくばらんに記録していきます。YouTubePodcastもよろしくお願いいたします。


「マイルドヤンキー考」
9/9公開のYouTube動画、丸文字編最終回の最後でマイルドヤンキーについて触れました。もし良かったら動画を貼っておくので該当箇所(47:08~)を再生して聞きながら以下をお読みいただけると補足になるかなと思います。チャンネル登録などなどよろしくお願いいたします。

47:08 マイルドヤンキーの話

マイルドヤンキーの星 / 変体少女文字の研究2022④

「うちら」はズッ友で最強

マイルドヤンキーとは、従来のヤンキー程の攻撃性違法性はなく、マイルドの名が示す通り本物の不良にもなり切れない層[1]のことで、マーケティングアナリスト原田曜平博報堂 ブランドデザイン 若者研究所)が、2014年1月に定義した概念。 地元指向が強く、内向的、上昇志向が低い、などの特徴が見られる。

Wikipedia

提唱者の原田は2014年5月12日放送のNHK「NHKニュースおはよう日本」にVTR出演した際、マイルドヤンキーに多い傾向として以下を挙げた[2]

「絆」「仲間」「家族」という言葉が好き
“地元”(家から半径5km)から出たくない
(特にミニバン)が好きショッピングモールが好き

—原田曜平、「NHKニュースおはよう日本」2014年5月12日出演時フリップボード


マイルドヤンキーとは、(中略/wiki)の経緯で生まれた言葉ですが、お字書き道TALKSではこのマイルドヤンキー的な世界とは「うちら」的世界と言い換えられるのではないかと考えました。

つまり。

同じ町に生まれたり、同じ小中高に通おうと、書く文字が互いに丸文字であったりしてもだけど、そこに「絆」「仲間」なんなら「家族(ファミリー※必ずしも血縁、婚姻関係に寄らず)」である根拠なんかないはずなんだけど、何故だか「うちら」はズッ友で最強なのである。

ズッ友:ずっと友達
最強:最強


例えば。

同じ〇〇思想を持っているだとか、あるいは理念を共有し、理想を共に追う同志であると言った関係性について「絆」を持った「仲間」や「家族(ファミリー)」である

と言うならそれはわかる。

けれど、

同じ町に生まれたり、同じ小中高に通おうと、書く文字が互いに丸文字だから、必ずそこに「絆」があって、必ず「仲間」で、なんなら「家族(ファミリー)」だ

と言うのはいささか乱暴過ぎると感じる。

もちろん、血縁、婚姻関係などによって、主に養育義務などから生じる同居の状態を指す「家族」については、絆の有無や、家族の内部で常に揉めていて仲間ではなくとも「家族」なんだろうけど。

「うちら」とは、「うちら」と「うちら以外」を分ける言葉だ。


話は戻って。同じ町に生まれたり、同じ小中高に通った過去があったり、書く文字が互いに丸文字だったり、そんな間柄を「うちら」と表すことは何だかわかる。

この「うちら」という言葉、ある人にとってはとても都合が良く、そうでない人には何だか居心地が悪い。


「うちら」とは、「うちら」と「うちら以外」を分ける言葉だ。

同じ町に生まれたことを指して、同じ小中高に通ったことを指して、書く文字が互いに丸文字であることを指して、その関係性を「うちら」と呼ぶことはわかる。

けれど、

その「うちら」には、同じ町に生まれたことや、同じ小中高に通ったことや、書く文字が互いに丸文字であること以外の共通点「絆」と呼べるかもしれないものは必ずしも存在しない。


にも関わらず、

「うちら」には人として共通点がある!「絆」があって「仲間」なのだ!なんならもう「家族」だ!と言ってしまうことに抵抗のない人々。それがマイルドヤンキーなのではないかと考えている。

「うちら」であることが価値のほぼ頂点にある。あるいはそう言うことにしてしまうことで成り立っている集団。

またはその集団の織り成す世界。『マイルドヤンキー的世界。』

「うちら」である前に、「うち」


筆者などは、

仮に何らかの共通点がある程度のことをもって、
(何なら同じ地球人だ!だから)
絆があって、仲間で家族なんだ。

と言われたらとても違和感があって居心地が悪い。「うちら」であるよりも、まず俺・私、「うち」であることが居心地が良い。

そのうえで、同じ〇〇思想を持っているだとか、あるいは理念を共有し、理想を共に追う同志であると言った関係性を築くことが出来た人たちと「絆」を持った「仲間」や「家族(ファミリー)」であれるならば、嬉しい。


しかし、兎にも角にも自分が大きい集団に属していることに何らかの安心感を感じる人々、理由や根拠はさておきマジョリティであることを優先したい人にとっては少しでも共通点を発見した他人がいたら「うちら」に取り込みたいし、それを拒むような態度や、共通点についての微妙な認識のずれなんかがあったりすれば、自分たちのマジョリティであることが揺らぐなどして、不安になったりする。だから、「うちら」の基準に合わせろ!のような話が始まって、時にはこじれたりする。レスバ。

そもそも、

誰しも個別の「うち」「うち」「うち」なのであって、仮に血縁があろうと、ただ単にそれだけのことである。血縁のある「うち」と「うち」。

何でもかんでも「うちら」化しようとすることについては、筆者としては違和感を感じるし、そんなことがあれば居心地の悪さが先に立つことが多い。

SNSで地球規模に拡大する「うちら」


しかし、このことについて特別なこだわりが無かったりして「まあ"うちら"でもいいか。共通点はあるっちゃあるし、こだわりも無いから、そう呼びたいならそう呼ばせておこう。」とか、「うちら」であることに異を唱えたら村八分になるような暗黙の脅しを感じて「うちらのルール」に従ってしまうタイプの人々を、「うちら」に取り込んでいくこと、「うちら」の勢力拡大、そこへ取り込んでいこうとする人にとっては、この「うちら」という言葉はとても都合が良い。

そうやって拡大していく「うちら」的世界。マイルドヤンキー的な世界は、SNSの発展・広がりなどの力でブーストされるようにして、もはや地球規模の話になっているように感じる。

多様化の世界


多様化の世界だなんてことが言われます。そこにも触れてみる。

何でもかんでも「うちら」に取り込んだ、取り込まれてしまったと言う体で話が進められて行くならば、その中にはもともとは別々に暮らしていたコミュニティの人たちが含まれてしまうことになる。

書道家・タケウチ

書道家・タケウチ♀

はバレーボールもやっていたので、仮にバレーボールと書道を例にしてみれば。

バレーボールをやっているグループと、書道をやっているグループはまず基本的に言って別々なのだ。


もちろんバレーボールも書道もどちらもやっている人はたまたまいるかもしれないけれど、「バレーボールをやっている女性は書道もやっている!」とか「書道をやっている女性はバレーボールもやっている!」とか、さらに言えば。

「女性はバレーボールと書道をやっている!」
「そんなうちらから言わせてもらうと。」

そんな話をし始める人がいたならば、まずは「えっ!?いつ女性ってキーワードが出てきたの!?」って驚く。主語がおっきくなってる!

この場合、全女性を「うちら」に取り込んだかのようにして「そんなうちらから言わせてもらうと!」と言う話になっていて、さらに。


「男性でもバレーボールと書道をやっている人が増えてきていますよ。」
「そんなうちらから言わせてもらうと!」

うおお。全男性も巻き込まれた!
全女性と全男性の代表者としての意見が聞ける!
気が付いたら(ほぼ)地球を代表する人が目の前にいた。

すげえ。

こんな形式の発言をSNS上でよく見かけるし、急に現れたもの凄く主語がデカい人の側につけば自分もマジョリティ側になれるかも!と言う気分になって、気が付いたら巻き込まれていた「うちら」の一員であることを何だか受け入れたり、あるいは積極的に受け入れたりにする人も現れるだろう。

こうして、

バレーボールをやっている
書道をやっている
女性です
男性です

のいずれかに該当すると言うだけの「うちら」が誕生した。


もともとは、バレーボールと書道の話だったのだけど、全女性と全男性が巻き込まれて主語が肥大化したせいで、話は以下のようになってしまったりする。

「うちら」つまり、全女性と全男性の中には書道をやっている人もいるんですよ!ここでバレーボールをされたら落ち着いて書道が出来ない!

話がめちゃくちゃだ(笑)

もともとはバレーボールや書道を別々にやっていたのに、主語と声がデカい人によって生まれた「うちら」に巻き込まれ、このことについて特別なこだわりが無かったりして「まあ"うちら"でもいいか。共通点はあるっちゃあるし、こだわりも無いから、そう呼びたいならそう呼ばせておこう。」とか、「うちら」であることに異を唱えたら村八分になるような暗黙の脅しを感じて「うちらのルール」に従ってしまうタイプの人々がいたり。

あるいは巨大なSNSの世界の片隅でこんなことが起こっていたら、いちいち発見して自分はその「うちら」には参加しません!と言ってまわることは現実的でない。


いつしか拡大した「うちら」の存在が耳に入るころには、薄っすらとワタシも周囲もこの「うちら」に囲まれていて、異を唱えようものならそれが周囲への攻撃かのような空気が醸成されてしまったりする。

「うちら」つまり、全女性と全男性の中には書道をやっている人もいるんですよ!ここでバレーボールをされたら落ち着いて書道が出来ない!

ワタシはただ好きでバレーボールをやっていただけなのに、気が付いたら悪者になっていたりするかもしれない・・・

それは萌え絵かもしれないし、煙草かもしれない。いつ何が悪者につるし上げられるかもしれないのだ・・・それを気に入らない「うちら」が、ある属性を持つ人たちを対立する「うちら」として仕立てて攻撃してくる世界。


すごいことになってきた。

気が付いたら薄っすらと悪者になっていたり、それに異を唱えたり、異を唱えない判断をしたり、ほら。

バレーボールをやっている
書道をやっている
女性です
男性です
のいずれかに該当すると言うだけの薄っぺらなつながりで存在すらも怪しかった「うちら」は、どんどんその姿をクッキリとさせて行くことになる。


そして乱立していく「うちらA」「うちらB」「うちらC」・・・は互いに干渉しあって、「うちら的世界」がカオティックに拡大する。

そんな「うちら」の中にはサッカーが好きな人も、お菓子作りが好きな人も、多様な人たちがいる。

筆者はこう思うのだ。

『世界は多様化したのではない。』

マイルドヤンキーの星。


この記事の冒頭に書いたけど、マイルドヤンキー的な世界とは「うちら」的世界だと考えている。

そして

世界はマイルドヤンキー化していると考える。


拡大する「うちら的世界」すなわち
「マイルドヤンキー的世界」は全てを飲み込んでいく。

すっぽりと飲み込まれた世界の中には多様な人々がいる。

当然のことだ、世界は多様化なんかしなくたって、そもそも多様な人々がいて、それぞれ別々に暮らしていた。それを「うちら」と言う膜で一緒くたに包んでしまった。そしたらそこに多様な人々がいた。と言うことだ。


この「うちら的世界」
「マイルドヤンキー的世界」から逃げ切ることは難しく、日々変化しまた新しく生まれアップデートされて行く「うちら」の概念の全てに一切関わずに済むことはおよそ不可能と言っていいだろう。

カオティックに乱立、変化、拡大していくいずれかの「うちら」に必ず巻き込まれて該当者となるし(女性は!とかオタクは!とか人間は!とか、そんなデカい主語が乱立したら必ず該当してしまうのだ)、その全てに対して「非参加」の表明をし続けていたらその作業だけで一生が終わってしまう。

どんなに個であろうとしても、誰かが私を取り込もうとして来ることから逃げ切れない。参加しますと言わなくても、非参加の表明をしないかぎり、誰かにとって都合の良い「うちら」の一員として、私のあずかり知らぬところでそう扱われてしまう・・・

そして非参加の表明は、例えば「○○の被害者を無くそう!」とか、「世界平和を目指そう!」言う大義名分を掲げる「うちら」がいた場合、何故そこへ参加しないのかを説明してまわるのはやっかいだ。しかも、そこを丁寧に「私はこういう理由でアナタたちには賛同しません」と説明する程、攻撃とみなされて報復を受けたりする可能性が高まる。そのうえ「うちらA」「うちらB」「うちらC」と数が多い。もう無理ゲーだよ。こんな世界。


主語がデカく、正しそうな大義名分を掲げる「うちら」がいる限り。ここまでインターネットで繋がった世界だ。地球だから。この流れは止めようが無い。・・・だから、なし崩し的に。

いまや地球は総「うちら」時代へと突入しようとしているのかもしれない。

地球はマイルドヤンキーの星になろうとしているのかもしれない。

そんな「うちら」はズッ友で最強だと良いのだけど・・・


※毎週木曜19時更新

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