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#177『ジム・ボタンの機関車大旅行』ミヒャエル・エンデ

 凄く好きだけれど、あれっきり読み返していない本、というのがある。この本はその一冊で、大学を出るか出ないかの頃に初めて読んで、これは凄い、面白い!と思って大好きになったものだった。絵本も童話も児童書もほとんどない幼少期を過ごした私にとって、ミヒャエル・エンデは名前だけ知っている人だった。大学生になって小説家を目指し始めた頃、ようやく色々な本を読み漁る中で児童書にも手を伸ばすようになり、そうして『モモ』『果てしない物語』にも出会ったのだった。『ゲド戦記』なんかもそうだ。別に児童書を馬鹿にしていたことはないのだけれど、「凄いなあ、こんな本があるんだ」と感銘を受けたのを覚えている。こういう本を読んで育ったか否かということは、後々きっと響いてくると思う。しかし後の祭りである。何歳であろうと、優れた物語に出会えることはありがたいことである。
 で、この本は市の図書館が書棚の整理で放出する時にもらってきたのだった。しかしその後紛失してしまったのでこの度、文庫版で買い求めた。この2ヶ月ほどレコーディングという創作活動に没頭する中で、だんだん私の中に温まってきた思いーーそれは美しいものに遠慮なく浸っていたい、という気持ちだった。政治や経済その他時事ついて学ぶのはもう思い切ってよしてしまって、芸術の本道を歩きたい気持ちになってきた。まあ、そう思っただけでどこまでその態度を貫くかは分からないが、「もういいじゃないの、人間同士の下らないことは。知っても結局下らないことが分かるだけだ。しかも自分にはどうしようもない」。そちらの方に意識を向けていると芸術に浸ることは難しい。
 芸術、と言って別にお高く止まって格好つける訳ではなく、生活の中のあらゆることやものが芸術的要素を秘めているのである。そういったものと共鳴共振しながら生きていきたい今日この頃、この本を思い出したのだ。それですぐに注文した次第。
 やはりとても面白い本だった。笑い、またほほえみながら読んだ。優しさと夢に満ちている。そこには危険はあっても必ず解決されることが暗黙裡に約束されている。人間は善良で、邪な感情で自分が勝とうとか相手を負かそうとかしないし、疑ったり依存したりしない。善は必ず最後に悪に勝つ。こういう世界に癒やされるのである。

 というその色褪せることのない素晴らしさを讃えた上で、ちょっと思うことを書く。
 この物語には異国が出てくるのだが、モデルは明らかにチャイナである。そしてそれがどんなに変わった風体の人々の、変わった習俗の国であるかということが描写される。著者の姿勢は友好的で愛情に満ちている。子供を楽しませようとして書いているのであって、チャイナを馬鹿にしようとして書いているのではない、ということは素直に読む人には誰にでも明らかだ。しかしこれを読んで育った白人の子どもたちは、アジアには妙ちきりんで愚かしくてずる賢い、そうかと思えば子供みたいに可愛い(つまり「子供みたいなもんだ」)人種が住んでいる、とまあ無意識の刷り込みを受けることだろう。これってどうかなと思う。
 例えば逆に我々日本人が書く物語に明らかにドイツをモデルにした異国を描き、かの国では人々は異様に体がでかく、筋肉隆々。血まみれの肉を喰らい、樽いっぱいの酒を飲む…と書けば、いかにも野蛮で節度のない人々だと子供たちは印象付けられることだろう。同時に、物語の登場人物として面白がることだろう。しかしドイツ人はこう言うだろう。「冗談じゃない、それは私たちの姿じゃない」と。
 白人には宿命的に有色人種への蔑視があるので、悪気なくこういう問題が出てくる。日本人には宿命的に「ガイジン」を異化する意識がある。それと同じことだ。ただ白人は自分が揶揄のモデルになるという経験量がその他の人種に比べて圧倒的に少ないので、この問題に関する自覚は乏しい。そのことはこの作品が証明している。ここまであからさまにチャイナをモデルにしなければ良かったものを、と正直私は思った。
 しかしこれに関しては「そんなこと言ったらジムは黒人じゃないか。そこには何も軽蔑的なものはなかったぞ」という反論があると思う。私はそこには贖罪と同化という2つの要素があると思う。エンデがこの本を書いた頃にはすでに、白人の中で一部の人は黒人に対する白人の悪辣な扱いを悔いていたし、大きな罪として反省してもいた。だからその埋め合わせに主人公にさせたいという思いは大いにあったに違いない。これは穿った見方などではなく、かなり正常な補償行為だと思う。
 逆に問うなら、じゃあなぜジムだけ黒人で、彼の育った国の他の人々は全員白人なんだ、という話になる。あくまでも基盤は白人文明で、そこに黒人の子供を主人公に据えることにした、ということなのだ。言うまでもなく、子供であるということは重要な条件の一つなので、大人の黒人であったらこういう設定にはならないだろう。ここには、白人があくまでも黒人の上に立っている、しかし場合によってはそれはとても友好的な関係である、という認識の暗示である。『ロビンソン・クルーソー』がそうであったように。逆は許されない。
 もう一つの「同化」というのは、結局黒人も白人と暮らしを共にする中で、同じものを食べ、同じように考えるようになったということだ。だからジムとルーカスの食の好みは一致している。サンドイッチなんかが好きである。つまり「肌の色は違うが同じ仲間」という括りになる。だから主人公にするハードルは低い。読者の少年少女と同じものを好き好んで食べているのだから。上述の異国の民はそうではない。食べるものが全くことなり、しかも全てグロテスクである。主人公にはなり得ない。ではそもそもなぜ黒人の坊やが白人と同じものを食べているのか?原点に立ち返ると、答えは一つしかないーーある時白人が黒人を奴隷化して「教育」したからだ。これはどんなに「今は友達」と言っても拭い去れない過去であり、その埋め合わせはいまだに為されていない。
 こうして改めて言葉にしてみると、ここには文明の対立や、同化と異化にまつわる毒が、とても無邪気な風景の中に潜んでいることが分かる。凄く興醒めなことを言う奴だと思われそうだが、これをただ楽しむには人類文明は複雑すぎる。

 しかしだからと言ってこの作品が悪いとか教育上良くない、ということを言いたいのではない。ただこうして私たちの無意識レベルの世界観というものは共有の物語として映し出され、それは私たちの無意識に再びフィードバックすることで、世界像を更に深め定着させていく。私たちがそこから逃れるためにはこの問題についての問答や議論を重ねていくしかないのだろう。結局、人は何かを見れば何かを思うし、何かを語る時には何らかのモデルを必要とするのだから。

 続刊を引き続き読んでいる。

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