#152『小説 上杉鷹山』童門冬二
どうも根っからの読書家ではないようで、むらがある。何となく文字を受け付けない時があり、それが割に長めのサイクルで来るので、その間は本を読むことが出来ない。加えて近頃は音楽の方に没頭している関係で、本を読む時間がない。しかし夜になると布団の中で、眠りに落ちるまで本を読む。そんな訳で、読んでいたのがこの本だった。
上杉鷹山について童門冬二さんが書いた本はもしかしたらこれで全部読んだだろうか? 読むたびに目を啓かれ心を洗われるのが上杉鷹山である。私にとってこの人は人格の見本であり、また人の道を示してくれる人でもある。どのような人だったか…ということはここでは割愛するが。興味のある人は読んで下さい。
童門さんの他の著作に共通して、非常に読み易いので楽である。ただその話法はちょっと難ありである。この辺りはいわゆる歴史物の限界なのかなという気がするが。俗っぽいのである。まあそれは良いとして、脚色が充分にこなれていないため、明らかに「ここはあなたが空想で足したでしょう」という所が際立っている。こういう手法は下手な化粧に似て、問題だと思う。というのは読み手の方はそれなりに知識がないと、どこまでが史実でどこからが脚色か判断できないが、それでも何となく嘘っぽさとか演出過多、まあ言ってみれば「そんな上手い話ないでしょう」みたいなことは嗅ぎ取ってしまう。そのせいで、著者は上杉鷹山を割増評価しているのではないか、騙されないぞと読者は思ってしまいはしないだろうか。だとしたら大きな損失である。
上杉鷹山ほどの人になると「そんな聖人みたいな人いる訳ないでしょう」を地で行ってしまうので、下手な脚色はしない方が良いと思う。事実を淡々と描いて、「本当にいたんですよ、こういう人が。この本には一切盛り込みがないですから」という方がぐさぐさと入ってくる。そして奮起したいような気持ちになるのである。そういう効果の面では、童門さんが書いた他の上杉鷹山もの2冊の方がはっきり言って良い。歴史を題材にする物語の場合、完全に読者を騙し切らないといけないと思う。
あと上杉鷹山の改革に対する反対派についての説明がどうも釈然としなかった。これは私が史実に詳しくないせいで混乱している、まさに上述の弊害である。反対派の代表格を出し、彼らを心服させ味方に引き入れた後も、まだ反対派は残存していて妨害行為を続けた――とあるが一体誰なのか? 具体的にどういうことがあったのか? 杳として知れない。小説の後半にもなってこの消化不良感はちと厳しい。「なんかよく分からないんですけど邪魔する人がいたんです」では説明としてしっくり来ないし、「いや、そもそもあなたに問題があったんじゃないですか」と思うものである。で、私のその疑いは上杉鷹山に向かう。
別に私は上杉鷹山に完全無欠の聖人であってほしいと望んでいる訳ではないし、多分彼の欠点はここにあったのだろう、ゆえに反対派が絶えなかったのだろうという想像がついている。これが史実として証明されるのかどうかは分からないが。
私の考えでは上杉鷹山は正し過ぎたのである。しかしこの宇宙は「正と不正」で成り立っている。これは動かし難い。理念と強欲と言っても良いし、理性と感情と言っても良い。
上杉鷹山は潔癖だった。だから反動として、最良の腹心が道を外れ汚職にまみれるようになった。光ある所に必ず闇もある――これに尽きるのだと思う。
しかし上杉鷹山が正し過ぎたことが何か問題だったのかと言うと、そうは思わない。彼にはそうせざるを得なかったし、それに実際彼のおかげで米沢藩が救われたことは事実なのだから。それにもかかわらず人間は堕落の道をも同時に選び取るものである。上杉鷹山の信じた性善説と共に、強欲、怠惰、堕落を好む人間の性悪説は確かに存在する。その辺りを許容しつつ、性悪説的な人間(たち)との対話や対決をもっと生々しく描いていくと「人間って本当にそうだよなあ」というしみじみとした読後感の残る作品になったのではないかと思う。要するに視点の問題である。生意気なことを言うようだが。
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