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☆#179『モモ』ミヒャエル・エンデ

 言わずと知れた名作。20年ほどぶりに読み返す。素晴らしい傑作である。深く静かな語り出し。児童文学とは思えないほどの静謐に満ちている。児童文学を軽んじている訳では毛頭ないが、この水準の静謐はなかなか無い。大人向けでも滅多にあるものではない。この種の静けさは、およそ全ての芸術分野の作家が、完全に内界に引きこもってそこで真実を見つけようとしている時だけ可能となるものだ。
 勿論、この作品が素晴らしい。そして作者の卓抜した能力も素晴らしい。が、この荘重な語り口を世界が歓迎することの出来た時代を羨ましく感じる。これに比べるとハリー・ポッターなんかは最初の巻しか読んでいないのだが、大人がべったりと子供に迎合していて読めたものではなかった。子供が「子供化」してしまっているのである。
 この作品では、エンデの、子供たちの知性に対する信頼が目覚ましい。子供が分かるようにレベルを落としている所や、軽く流して処理してしまうような所、また表層的な興味を引かんがために面白おかしく書くような所が一つもない。ある意味で極めて禁欲的である。お菓子を与えずひたすら主食で育てるような感じである。しかし地味溢れる主食こそは生命の源であるし、自然と人の心を落ち着かせるように(そういう食事を供する者として、経験的にそれは間違いない)、この物語もまた読む者の心を深くいざなうのである。
 テーマは深刻で、現代でもまったく変わっていない。いやむしろますますそのテーマは現代において顕著になっている。エンデの理想は確かにユートピア的すぎるかもしれない。物語の結末では、所詮決して人間が到達し得ないであろう平和と喜びが描かれている。しかしそれを単なる楽観的な空想とは思わせない力がこの物語にはある。現実に人々の群れが織りなす都市生活がそうなる見込みはないかもしれないーーしかし誰の心の中にもその静けさと安らぎに至る道が必ずある、このように、ということを全編通して説き明かした作者にだからこそ描き得た理想郷であると思う。エンデは間違いなく、その方法も示した。
 登場人物にもエピソードにも無駄がない。無駄はないが、必要な寄り道は充分にしているので、重要なキャラクターについてはすっかり人肌を感じられるほど生き生きと描かれている。そしてどの人物の描写にも無理がない。まさしくこの物語は「そこにあった」物語であろうと思う。それを著者は見つけ、その技量によって正確に書き取ったのだ。
 ちょっと驚くばかりの作品である。昔読んで良かった本を今になって読み返すと「ふーむ」みたいなことが多いのだが、この作品は全く違って更に美しく鮮明に心に体験される。
 それと訳も素晴らしい。でぶとかびっことか、今じゃすっかり許されなくなった言葉や使われなくなった言葉が自然と(勿論、「差別的意図」ではなく)使われていて、こんな時代があったのだということを思い出す。
 本書は素晴らしく、そして時代は更に灰色を濃くしていることを思わされた。

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