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#178『ジム・ボタンと13人の海賊』ミヒャエル・エンデ

 #177の続編にして予定されていた第二部である。前巻で解決されなかった問題が解決される。
 早速感想なのだが、あまり良い点数は与えられない。というのは話に散漫な印象があり、全体が上手く統合されていない。読後に思い返した時に、エピソードごとにばらばらの印象がある。それが淀みのない場面展開のおかげでそうなっているのなら良いのだが、的を絞りきれなかったような印象が拭えない。また説明的な箇所や、無理のある辻褄合わせなど、作者の手品に付き合わされている感がある。
 総じて言うと、この作品は著者の作為が目立つように思う。前編#177の方は著者自身が物語世界の中で遊んでいたと思う。しかしこの作品では著者は物語世界を外側から作る立場になってしまっている。これは小説作品には起こりがちな失敗例と言えるだろう。偉そうな意見だが、そういうものだ。
 物語世界の中に浸って書く、という書き方の場合、物語世界は天然の産物、自然世界、造形物として既にそこにある。イメージ界に存在しているのだ。だから作者がちゃんとした力量や平衡感覚や才覚を生かして挑めば必ず傑作が生まれるようになっている。これはもうそういう決まりなのだ。例えて言うなら、絶景では誰がどう写真を撮ろうと絶景になるようなものだ。
 しかしもう一つの書き方は作者が自ら物語を創造するというもので、こちらの方が文学作品に占める割合として圧倒的に多いのだが、対比的に言えば、作者が建物を建てる感じである。しかし前者とパターンと比べれば違いは自ずと明らかになる。人間個人がその趣味や経験や理想に従って創造したものというのは、常に天然の造形に遠く及ばないし、場合によってはとても脆く、虚偽と破綻に満ちているものである。
 そしてこれもまた一つの法則なのだが、天然のイメージによって自ずと生まれた作品を原点として第二作、第三作、と続けていくと、いずれ必ずエネルギーが劣化していく。これはガンダムなんかがそうだ。全部観た訳ではないが、結局最初のガンダムを超えるガンダムは出なかった。その理由は明らかで、最初のガンダムだけが天然のイメージから生み出されていたものだったがほかはそうではなかったからだ。
 ジム・ボタンは最初から前編後編が出来ていたらしい。だから売れたので後編も新たに書いた、という訳ではないようだ。しかし原稿の段階で既に第一部が終わった時にはエネルギーを放出しきっていたのだろうと思う。
 そういう訳で、まあそれなりに楽しく読めはするものの、再び読むことはないだろうと感じた作品だった。

 どうすれば天然のエネルギーを枯らすことなくこの物語を完成させられたのかと勝手ながら考えてみた。私の考えでは、後編を思い切って8割ほど削ってしまうことだ。伏線回収のために絶対必用なエピソードは最後の海賊討伐の件と他少々だけである。その流れに直接絡まないものや不問に処しても構わないものは思い切って割愛する(皆をハッピーエンドにすることに固執しない)。そしてあくまでも機関車という主題から離れず(実際には後編では機関車は後半ほとんど置き去り)、力強く頼り甲斐のある機関士ルーカスと純真で勇敢なジムというコンビで貫くことかな、と思う。
 などと考えた。
 

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