#119『最後の授業』ランディ・パウシュ
余命数か月の大学教授が、最後の講義で人生にまつわる話をする――となればこれは心を籠めて傾聴せねばなるまい、まして批判することなどおこがましく感じる。
しかしあえて言おう、この本は微妙である。
最後の方は読み飛ばしもしたので、感想文を書く基準は満たしていない。が、ちょっと立ち止まって考えてみたいことがあるので、書くことにする。
前提として、人間的感情として大いに心打たれるものがある。
著者は三人の子供を遺して逝かざるを得なかったが下の子は1歳、上の子でも6歳くらいである。もっと子供を見ていたい、その成長を見ていたいのに、それが出来ない。そして子供たちは後に必ず父親を必要とするだろうに、自分はその時生きていない。
伴侶とも勿論、別れないといけない。こちらの方は、自分が死にゆくこと、それからのことを対等に話し合うことが出来き、それゆえに辛いこともあるだろう。しかし子供にはまだ言っても分からない! 「お父さんはもうすぐ死ぬよ、二度と会えなくなる」と伝えることが出来ぬまま、残りの日々を過ごす…考えるだけで心が千々に乱れる。本の冒頭、涙腺が震え続けていた。
著者は一方で大学教授であるので、若き学生たちに伝えたいこともあった。それで妻の反対をどうにか説き伏せて最後の壇上に立った。その講義の録画はYouTubeで600万回再生(当時)とのことで、本書はその補完という所だろうか。書き起こしではない。
その上で、なのだが、私はこの最後の講義の内容自体に全然感心することが出来なかった、という辛口の評価を敢えてさせて頂く。それと共に、人がここから受け取るものとか、我々は何を受け取る生きものなのかとか、そういうことをちょっと考えてみたいのだ。
最近、私の中には一つのアイデアが固まりつつある。それはヒーラー・カウンセラーとして生きる私が、自分の人生から抽出できるメッセージの中核は何か、という自問から生まれたのだが、「親に愛されなかった子供たちへの幸福論」というものである。ちなみにこの「子供たち」は、過去において子供だった、現在の大人を指している。
#117『ダイアー博士のスピリチュアル・ライフ』の感想において批判的に書いたことでもあるが、私の目には、私たちは現代社会において、幸せを追求し、幸せに価値を見出そうとし過ぎているように見える。
勿論、幸せは重要な価値である。しかし私は世の中には決して最後まで幸せを感じられない人種がいると思う。それは親に愛されなかった子供たちである。
というのは非常に簡単な図式なのだが「親に愛される」という体験が「幸せを感じる」という体験の種になるので、種がなければ芽は出ない、というだけの話。「いや、それでも芽は出る」と主張する人もいるだろうが、私は無理筋だと思う。
で、私はそれはそれで良いと思う。仕方がないことだし、それに幸せを感じるか否かを別として、自分らしく生きることや他人に貢献することや他人に愛を届けることは出来る。つまり、私の理論では、「主観的な幸不幸」と「有意義な在り方」は必ずしも直接的な関係をもっていない。だから幸せでないことや、幸せになろうとすることや、幸せになれないことにこだわることはやめて、今日できる良いことを人に世にしていくのが良いと思う。
私はこのような考えを持っているので、「夢は叶う」「夢を叶える」「誰もが幸せになれる」という方にひた走る言説にどうも拒否感というか、一歩も二歩も引いた姿勢を取りがちである。決して、妬みや羨望ではない。単純に「そうかな?」と思うのである。
で、本書なのだが、大きな盲点が二つあると思う。
1.メッセージとして普遍化するには著者の体験が個人的すぎる
2.著者が自分の人生の成果と思っているものは、実は親の恩恵である
かなり辛口だが。
著者の語り口としては「僕はこれこれのことを願った。そしてこうした。それが叶った。だから皆も願いを叶えるべきだ。願いは叶う」というものである。しかし著者自身が明言しているのだが、それを可能にした人格傾向や物理的環境を用意したのは彼の両親なのである。とても人格に秀でた男女だと感じた。
私がイメージするのは次のようなものだ。真っ直ぐに生きた両親が真っ直ぐな軌道のボールを投げた。そのボールが彼だったのである。彼はボールを投げた人ではなく、投げられたボールだったである。
だからいけないとか、だから本当の苦労をしていないとかそういうことを言っているのではない。この人も勿論、大変苦労し、努力したと思う。しかし実際、力を持っていたのは彼自身ではなく、彼が乗っていた軌道だったから、彼が自分の人生に起きたことを万人向けの処方箋として語るとするならば「親に恵まれるということはこんなに幸せなことです。皆さんも親の恵みに気付いて下さい。そして親は子を愛して下さい」となるべきであろう。しかし著者の理解力は充分でなかったために、「自分は自分の夢を叶えた。だから皆も夢を叶えて下さい」という似て非なる答えを、取り出してしまったのである。
この決定的な取り違えが土台としてあるために、何と言うか、環境に恵まれて生きた人が、「聴衆のため」と言いながら聴衆を利用することによって自分の人生を半ば酔いながら振り返っているようにしか思えなかった。
その表れとして、甚だしく公私混同している。自分の人生にとって最後の妻の誕生日に講義が当たり、妻の反対と悲しみを押し切って講義に出る。「皆のために」と。そして「皆のため」の講義の中で、子供と妻宛ての個人的メッセージを伝えるなど、ちょっと人間としての未熟さが際立っているように思う。死を目前に控えた人特有の一種のハイテンションということで、許容することは勿論できるだろうが。
アメリカ人はこういうのが好きなのだろうが、日本人の――と言っても今のではなく戦中戦前までのだが――、秘めたる思いによってもっと深く濃く密かに伝える、という心の作法からすると、あまりにもあからさまに立てる狼煙は、人の一生を天秤にかけてもなお軽佻浮薄の感を否めない。
こういう本があるのは構わないが、メッセージの内容から客観的に評価すれば、これは自費出版の書籍にふさわしいレベルの出来であって、世界15か国で売れるほどのものではないと思う。
大丈夫かな、この世の中、と思ってしまった。