小説:Limit ~無限の彼方に~ 第一章 殺人は柚子の香り 第12話
~~あらすじ 第11話までの内容を忘れた、ココから読み始める方へ~~
藍雛は敵組織『ソドム復活委員会』のメンバーであるレイカを追跡する任務に就いていた。レイカ達は、他の時代や空間への行き来ができる『時の回廊』を飛んでいた。藍雛の予想に反して、レイカは4歳児の姿になって藍雛の幼馴染みである洋希が2歳である22年前の世界に降り立ち、彼を譲アレルギーに見せかけて暗殺しようとする。藍雛は他の時間軸の世界に降りることはタブーだと聞いていたので、レイカの行動に驚くも、時の回廊内から、新型ブラスターで、レイカを始末しようと考える。だが、洋希を巻き添えにすることにためらう藍雛。彼女の脳裏には、洋希と過ごした夜の出来事が思い浮かぶ。思い出から我にかえった藍雛は、今度は、狙いを洋希の治療へと切り替え、二発の薬剤混入ブラスター弾を発射する。浴室内は発煙し、浴室から脱出して拳銃を構えるレイカ。洋希は症状が改善して立ち上がり、浴室の向こうから誰かが助けに来ることを予感する。その時洋希の幼稚園の同級生、一ノ関耀馬エリオットが洋希の家に向かっていた。向かう途中、その日幼稚園で起きた出来事を思い出しながら。
~~本編~~
閑静な住宅街がある急な坂道を登った先にある広大な敷地。耀馬は母親メアリーが息を切らしながら押すベビーカーに乗って、キンモクセイが両脇で見守る遊歩道を揺られながら、浮き立つような気持ちでシマトリネコやオリーブの木々を眺め、母親にもっと速くベビーカーを押すよう促す。
日射しが弱められた緑を抜けると、急峻な崖で囲まれた窪地に運動場が広がり、その奥には木造の園舎が横長に建てられていた。
崖の間に作られたスロープをマリアは慎重にブレーキをかけながら降りてゆく。スロープの手前でベビーカーを降りて、近くの階段を使ってくれたらいいのに、彼女はため息をつくが、反抗期真っ盛りの耀馬とは、幼稚園に着くまで争いたくないと諦め、両腕に力を込める。
教室の前にベビーカーが着いたので、耀馬は窮屈に折り畳まれた体を起こす。立ち上がると、身長110センチと、同年代の子どもの中では頭一つ分以上大きい体であった。事実、彼の金色のマッシュルームカットされた頭は、遠くから見ても目立っていた。
彼は青い眼を輝かせて、教室の入り口に用意された名札を取って自分でつけ、木製のドアを開けると「おはよう」と、中で待ち受ける紫に髪を染めた老齢の先生に挨拶し、早速教具の一つであるハンマーと箱を手に取った。
彼の通う幼稚園は、マリア・モンテソーリが開発した教育法を元にした指導を行っている。その教育法では、全ての子どもは、自己教育力があり、子どもが自分で自然に歩けるようになるように、他の様々な事も自分でできるようになるという。その理念に従う幼稚園では、先生たちは子どもの行動を無理強いせず、彼らが自分で選び取る教具を使って自己学習――これは『仕事』と呼ばれている――するのを見守り、困ったり、誤った教具の使い方をしたときのみ、導くことになっている。子どもの自発性を尊重し、教具を手にすることで、自発性を育み、体の微細運動、粗大運動、言語能力、感覚刺激を受ける力を伸ばしていくことを手伝う。
耀馬は、太鼓や木琴、ペグと呼ばれる棒を穴に差し込む仕事のどれも得意ではあったが、いつもまず一番に手にする教具がプラスチックのトイハンマーを使って箱の中にボールを叩いて押し込む仕事だった。彼の母親が教室の一角で見守る中――この園では二歳児のクラスのみ、保護者が同伴することになっている――ハンマーを力強く振り下ろし、赤、黄、青の木製の球を次々と箱の中へと押し込んでいった。
何度も球を箱の中に叩き込むと、耀馬は園で使用するハンマーの軽さが手に馴染んできたことに気を良くした。園には自宅からのおもちゃや教具を持ち込むことは禁止されていたし、園から教具を持ち出すこともできない。マリアのような、子どもの成長に必要なものは何でも与えようと考える慈愛に満ちた母親は、園で子どもが触った教具と似たものを自宅にすべて買い揃えていた。そのため、彼は自宅でも思う存分『自己学習』に耽ることができたが、自宅と園では教具の触覚が異なる物もあり、自宅のハンマーは少し重めだった。
気分がすっかり高揚したところで耀馬は、教室内に藍雛以外の見覚えのある園児たちが全員登園しているのに気づいた。
園児たちは銘々、母親に名札をつけてもらい教室に散らばって、お気に入りの教具に熱中していたが、その中で一人だけ、ぐずぐずと、指をくわえて、教室の入り口から動こうとしない子どもがいた。耀馬は、その背の小さな子どもの動きを見て、先週も先々週も同じような園内での振る舞いをしていたことを思いだした。肩についた名札をみると『よもぎざわ ようき』。
やっぱりようちゃんだ。耀馬ぐらいの子どもは――特に週に一度しか実施されない二歳児のクラスでは――他の園児の顔を詳細に覚えているわけではないだろう。だが、二歳児の中でもとりわけ背が低く、どの教具にも大して興味を惹かれていない、他の子とは相当異なる様子を、耀馬はずっと気にしていたのだ。