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小説:Limit ~無限の彼方に~  第一章 殺人は柚子の香り 第8話

~~あらすじ 第7話までの内容を忘れた方やココから読み始める方へ~~

藍雛らんじゅは敵組織『ソドム復活委員会』のメンバーであるレイカを追跡する任務に就いていた。レイカ達は、他の時代や空間への行き来ができる『時の回廊』を飛んでいた。藍雛の予想に反して、レイカは4歳児の姿になって藍綬の幼馴染みである洋希ようきが2歳である22年前の世界に降り立ち、彼を暗殺しようとする。藍雛は他の時間軸の世界に降りることはタブーだと聞いていたので、レイカの行動に驚くも、時の回廊内から、新型ブラスターで、レイカを始末しようと考える。だが、洋希を巻き添えにすることにためらう藍雛。彼女の脳裏には、洋希と過ごした夜の出来事が思い浮かぶ。その夜は失恋した藍雛を洋希が得意の料理を作って慰めていたのだ。洋希に恋心にも似た思いを抱く彼女。だが、彼はその気にはなれない。

     ~~本編~~

 気まずい沈黙が流れたので、洋希ようきに別の話を持ち出した。
「ねえ、明日の朝ごはん洋ちゃんが作ってくれるのよね? なに、なに?」
 洋希の頭の中には、すぐにふわりとしたフレンチトーストが浮かび、それを提案する。
「今からパンをミルクに浸しておこうかな。その方が柔らかくなるんだよ。それともカリカリの方がいい?」
「柔らかい方、かな?」
 それを聞くと、洋希はベッドの下から素早く起き上がり、目を輝かせながら冷蔵庫を開け、首を突っ込んだ。


「牛乳貰うよ……、何だよ低脂肪乳って……、コクがでないじゃん……、仕方ないなあ」
 不満げな洋希に、藍雛らんじゅはあきれ顔。この男、食材にうるさ過ぎる、そういうのはお店の中だけで発揮してよね。彼女は、そう思いながらも彼がよく作ってくれるフレンチトーストの甘さを想像し、胸が高鳴っている。
「ねえ、バニラエッセンスないの? あれがあると香りが引き立つんだけど」


 手際よく切ったフランスパンを砂糖たっぷりの牛乳に浸しながら、彼はまたしてもベッドの方に声をかける。
「あのねえ、うちはお菓子屋さんじゃないの。そんなのあるわけないじゃない。洋ちゃん、先々週うちに泊まった時も、同じことを訊いてきたわよ」
「先々週……? あれ?」
 その男はしばし額に手を当てて考え込むそぶりを見せた。
「そうだ!」


 彼は思い出したように表情を明るくすると、今度はベッドルームに戻ってきて、藍雛のベッドの足元側にあるクローゼットを開けた。
「ちょっと! いくら幼馴染みでもやっていいことと悪いことがあるでしょ! 女の子のクローゼット無断で開けるなんて」
 彼女は憤然とした表情で、洋希のパジャマの襟を背後から引っ張るが、彼はクローゼットの衣類には目もくれず、その奥に手を入れて探っていた。やがて、嬉しそうに高い声をあげた。
「これだよ、これ。この前、カスピ海ヨーグルトを仕込んだ時に、こっちも仕込んでおいたんだ」


 振り返った洋希は、両手で大事そうに一本の細長い酒瓶を持っていた。瓶の赤いラベルには『VODKAウォッカ』という白抜きの文字。藍雛の目の前に突き出された瓶の底には、草の茎のようなものが三本沈んでいた。
「洋ちゃん、それってあたしのウォッカじゃない。トニックで割って飲もうと思ってたら無くなってた。どうして隠したの? あたしそれ、あいつと喧嘩していた時に飲んでしまえと思ってたのに」


 それは彼女の元彼が、家に置いてあった瓶だった。酒に強い藍雛が数日前に、彼への意趣返しとして空にしてやろうと思ったら、行方不明になっていることに気づいたのだ。
「これ、ほら、バニラの鞘を浸しておいたんだ。きっとバニラエクストラクトができているよ」
 彼女は、呆気にとられた顔をする。「何、それ?」という問いに、洋希は待ってましたとばかりに口を開いた。
「バニラエッセンスの代わりだよ」


 洋希は得意げに鼻の下を伸ばしながら、十分な量のウォッカにバニラの鞘を浸しておけば、酒にバニラの香りが移り、火で酒のアルコールを飛ばせば、バニラの香りのついたソースを作れると説明した。
 感心して聞いていた藍雛であったが、『火』というキーワードを耳にすると、心の底に会った不安が頭をもたげてくるのを感じた。
「また洋ちゃん、フランベみたいな事をする気じゃないでしょうね。今回は火事にならなかったからいいものの、もう勘弁してよ」


 彼は、女の子の頭をヨシヨシとなだめるように手のひらで撫でた。
「今日は、火力が強すぎて、アルコール量が多すぎただけだよ。今日使った方のガスコンロ、調子が悪かったのかも。心配しないで」
 彼は無邪気な笑顔で、彼女の不安を溶かしていった。
「これで明日はバニラの香りつきのベリーソースフレンチトーストができるよ。楽しみにしていて」


 この夜にできる仕込みを鼻歌交じりに済ませた洋希は、藍雛の待つベッドにもぐりこみ、その手から仄かに出ているバニラとミルクの香りで、彼女を眠りへといざない、自身も心地良い疲れによって、夢の世界へと入っていった。


 翌朝、寝相の悪い洋希に何度も足で蹴られたので、眠気が強く残ったまま、ベッドの上で体を起こした藍雛は、バニラやコーヒーの香りが鼻腔を刺激するのを感じ、心が満ちるような思いだった。


 キッチンには、慌ただしくカップや皿を並べる洋希の姿。それを見て彼女は、昨夜の洋希とのやり取りを思い出していた。きっと洋ちゃんは、この前あたしが彼氏と喧嘩した時に、ウォッカを飲み過ぎないようにクローゼットに酒瓶を隠してくれたんだ。彼女がそう想いを巡らせると、体の底から暖かいものが広がってくるような気分になった。


 洋希は、そんな彼女の姿に気づくと、
「藍ちゃん。朝ごはんの支度ができたよ。フレンチトースト上出来だと思う。バニラベリーソースも試してみてよ」
 と、赤紫色のソースの入った小皿を差し出して見せた。


 コンロの真上にある天井には、昨夜の焦げ跡の隣に、もうひとつの新しい焦げ跡がついていた。

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