小説:Limit ~無限の彼方に~ 第一章 殺人は柚子の香り 第8話
~~あらすじ 第7話までの内容を忘れた方やココから読み始める方へ~~
~~本編~~
気まずい沈黙が流れたので、洋希に別の話を持ち出した。
「ねえ、明日の朝ごはん洋ちゃんが作ってくれるのよね? なに、なに?」
洋希の頭の中には、すぐにふわりとしたフレンチトーストが浮かび、それを提案する。
「今からパンをミルクに浸しておこうかな。その方が柔らかくなるんだよ。それともカリカリの方がいい?」
「柔らかい方、かな?」
それを聞くと、洋希はベッドの下から素早く起き上がり、目を輝かせながら冷蔵庫を開け、首を突っ込んだ。
「牛乳貰うよ……、何だよ低脂肪乳って……、コクがでないじゃん……、仕方ないなあ」
不満げな洋希に、藍雛はあきれ顔。この男、食材にうるさ過ぎる、そういうのはお店の中だけで発揮してよね。彼女は、そう思いながらも彼がよく作ってくれるフレンチトーストの甘さを想像し、胸が高鳴っている。
「ねえ、バニラエッセンスないの? あれがあると香りが引き立つんだけど」
手際よく切ったフランスパンを砂糖たっぷりの牛乳に浸しながら、彼はまたしてもベッドの方に声をかける。
「あのねえ、うちはお菓子屋さんじゃないの。そんなのあるわけないじゃない。洋ちゃん、先々週うちに泊まった時も、同じことを訊いてきたわよ」
「先々週……? あれ?」
その男はしばし額に手を当てて考え込むそぶりを見せた。
「そうだ!」
彼は思い出したように表情を明るくすると、今度はベッドルームに戻ってきて、藍雛のベッドの足元側にあるクローゼットを開けた。
「ちょっと! いくら幼馴染みでもやっていいことと悪いことがあるでしょ! 女の子のクローゼット無断で開けるなんて」
彼女は憤然とした表情で、洋希のパジャマの襟を背後から引っ張るが、彼はクローゼットの衣類には目もくれず、その奥に手を入れて探っていた。やがて、嬉しそうに高い声をあげた。
「これだよ、これ。この前、カスピ海ヨーグルトを仕込んだ時に、こっちも仕込んでおいたんだ」
振り返った洋希は、両手で大事そうに一本の細長い酒瓶を持っていた。瓶の赤いラベルには『VODKA』という白抜きの文字。藍雛の目の前に突き出された瓶の底には、草の茎のようなものが三本沈んでいた。
「洋ちゃん、それってあたしのウォッカじゃない。トニックで割って飲もうと思ってたら無くなってた。どうして隠したの? あたしそれ、あいつと喧嘩していた時に飲んでしまえと思ってたのに」
それは彼女の元彼が、家に置いてあった瓶だった。酒に強い藍雛が数日前に、彼への意趣返しとして空にしてやろうと思ったら、行方不明になっていることに気づいたのだ。
「これ、ほら、バニラの鞘を浸しておいたんだ。きっとバニラエクストラクトができているよ」
彼女は、呆気にとられた顔をする。「何、それ?」という問いに、洋希は待ってましたとばかりに口を開いた。
「バニラエッセンスの代わりだよ」
洋希は得意げに鼻の下を伸ばしながら、十分な量のウォッカにバニラの鞘を浸しておけば、酒にバニラの香りが移り、火で酒のアルコールを飛ばせば、バニラの香りのついたソースを作れると説明した。
感心して聞いていた藍雛であったが、『火』というキーワードを耳にすると、心の底に会った不安が頭をもたげてくるのを感じた。
「また洋ちゃん、フランベみたいな事をする気じゃないでしょうね。今回は火事にならなかったからいいものの、もう勘弁してよ」
彼は、女の子の頭をヨシヨシとなだめるように手のひらで撫でた。
「今日は、火力が強すぎて、アルコール量が多すぎただけだよ。今日使った方のガスコンロ、調子が悪かったのかも。心配しないで」
彼は無邪気な笑顔で、彼女の不安を溶かしていった。
「これで明日はバニラの香りつきのベリーソースフレンチトーストができるよ。楽しみにしていて」
この夜にできる仕込みを鼻歌交じりに済ませた洋希は、藍雛の待つベッドにもぐりこみ、その手から仄かに出ているバニラとミルクの香りで、彼女を眠りへといざない、自身も心地良い疲れによって、夢の世界へと入っていった。
翌朝、寝相の悪い洋希に何度も足で蹴られたので、眠気が強く残ったまま、ベッドの上で体を起こした藍雛は、バニラやコーヒーの香りが鼻腔を刺激するのを感じ、心が満ちるような思いだった。
キッチンには、慌ただしくカップや皿を並べる洋希の姿。それを見て彼女は、昨夜の洋希とのやり取りを思い出していた。きっと洋ちゃんは、この前あたしが彼氏と喧嘩した時に、ウォッカを飲み過ぎないようにクローゼットに酒瓶を隠してくれたんだ。彼女がそう想いを巡らせると、体の底から暖かいものが広がってくるような気分になった。
洋希は、そんな彼女の姿に気づくと、
「藍ちゃん。朝ごはんの支度ができたよ。フレンチトースト上出来だと思う。バニラベリーソースも試してみてよ」
と、赤紫色のソースの入った小皿を差し出して見せた。
コンロの真上にある天井には、昨夜の焦げ跡の隣に、もうひとつの新しい焦げ跡がついていた。
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