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うにっき帳 vol.33 |自分史編|家族崩壊のその後(6)


はじめに

こんにちは。吉村うにうにです。「うにっき帳」のvol.33を掲載します。
「うにっき帳」は日記と銘打っていますが、①日記編 ②語彙増量編 ③自分史編の三部のいずれかを取り上げます。

今回は、自分史編です。自分史をエッセイのような形式でまとめています。
以前、掲載した「アッチッチ、帰ろ!――茶碗蒸し一杯で家族崩壊」のその後の話の続きです。「アッチッチ~」はこちら

「家族崩壊のその後(1)~(5)」はこちら

では、始めます

ちなみに、本文は常体で書いております。また、日付は自分史編では、エピソードが生じたと思われる日です。

   二〇〇四年~二〇〇六年ごろ 家族崩壊のその後(6)


 その優秀さは、小学校の時から発揮された。兵庫県内の国立大学付属の小中学校に通学し、そこから大阪教育大の付属高校へと進学した。そこは、わたしなどは決して手が届かない世界である。ちなみに、高校の入学する際の条件として、通学時間が一時間半という規定があったため、それまで住んでいた兵庫県明石市から、より大阪に近い神戸市須磨区へと引越しした。そこにも、教育に賭ける母の執念が感じられる。

 その時までは医学部志望で、しかも京大医学部を狙っていたという。どこかの時点での作文では「夢はお医者さんになって、一日も長く小児科医のお爺ちゃんと一緒に働くことです」などと書いて、母を感激させていた。彼女の優秀さと熱意をもってすれば、京大はともかく、どこかの医学部には間違いなく入るだろう。そんな雰囲気だった。

 その夢を無残にも打ち砕いたのは、高三で受験した共通一次試験だった。国語で大きく失敗したらしい。当時は試験翌朝の新聞で自己採点を行い、その結果をもとに志望校を決めるのだが、母によると、姉は自己採点の途中で、ポロポロと涙をこぼしていたという。 

 私が知る限り、優秀な姉の初めての挫折だった。それでも、母は強気だった。浪人も覚悟したに違いない。弱気になった姉が、
「京大の農学部でも良いか?」と尋ねた時、𠮟りつけていたのだ。
「あんた、医学部に行きたかったんとちゃうの? お爺ちゃんと一緒に仕事するんやろ!」

 だが、そのような激励も姉には届かなかった。炭素を入れすぎた鉄のように、ポキッと折れてしまったのだ。姉は京大も医学部も諦め、地元の神戸大の理学部を受験した。成績に余裕があったのか、合格発表を見ても、「番号あるわ」と呟いただけで、何の感慨もなかったという。その大学も十分レベルは高いのだが。もしかしたら、仮面浪人をして、医学部を再受験させたいという母の意向を聞いたのかもしれない。結局そこを卒業するのだが。
                     (つづく)

さいごに

いかがだったでしょうか。挫折しらずの姉が挫折した時、浪人を選択しなかったのは意外でした。当時は、浪人生はざらにいたので、別に恥ずべきことでもないとは思うのですが、幼少時から勉強漬けで疲れたのかもしれません。負けた事のない人が負けるというのは危険なのだなと、中学生ながらに思いました。

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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