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水深800メートルのシューベルト|第889話
「おかえりなさい。ごめんなさいね、あなたの愛しい奥さんが迎えに来なくて。誘ったんだけど」
彼女は歳よりも若く見える皺の少ない顔に、切れ長の目を更に細くしていた。紙は頂上で丸く結び、顔の肉を引っ張っている。
「いえ、フェリックスに熱が出たって、さっきメッセージを受け取っていますから」
そう言いながらも、彼女が迎えに出て来ないことは残念に思った。息子が生まれて以来、僕にはどうしても、自分がこの家に居ても居なくても良いんじゃないかという虚無の風が吹いているような気がしていた。そんな僕を見透かしたように彼女は
「熱は下がったのよ。だからいけないわね。折角のご帰還なのに」
と言った。