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無垢な気持ちで似合う色を探す
大学に入学してすぐ、市販のブリーチで髪を脱色した。一人暮らしのアパートの風呂場で薬液と悪戦苦闘しながら色むらが出ないように注意した。
一度、染めてみたかった。女の子にモテたかったという動機もあったろう。しかし、親元を離れて遠くの大学に入ったので、親が近くにいればきっと反対するだろうと思うことをやってみたかったのだ。髪は相当痛んだが、黒髪以外になるという、生まれて初めての経験。興奮し、その日は眠れなかった。
夏休み、染めた髪で実家に帰ると、母は怒らなかったが、
「ムクみたいな色をして」
と、彼女独特の言い回しで、呆れている事を表現した。ムクとは、祖父母が飼っていた雄の雑種犬だった。私が幼児の頃に、祖父が知り合いから貰ってきて、私が大学受験をするまでおよそ十六年間生きていた、明るい茶色の毛色の犬だ。人懐こくて従順、人にも犬にも吠えたこともなければましてや噛んだこともないといった温厚な性質だった。頭も良くて、人の言葉や顔色を見て、逃げたり近づいたりしていた。
私は隣の市内に住む年老いた祖父母の代わりに、その茶色の犬を、よく散歩に連れて行って遊んだ。家出をしたときには探しに行った事もあった。ムクは時々家出をした。祖父母があまり散歩に連れて行ってやれなかったので、私が連れて行かなければ、彼は地面に穴を掘って外に出て、自分で勝手に散歩に行ってしまうのだ。私は近くの市場で「ムクちゃん昨日見ましたよ」といった近所の目撃談を基に探して歩いたが、結局、彼は私が見つける前に、自分で自宅に戻っていた。
祖父母はそんなムクを叱ったが、私にはムクが家出癖を含めて可愛くて仕方がなかった。だから、母にそう揶揄された時「ムクと同じ色にしてやろう」と思いついた。そこで、ブリーチ剤を頭につけ、たっぷりと時間をかけて、髪の色が抜けるのを待った。その結果、ムクの金色に近いような明るい茶色の毛が自分の頭の上に誕生することになった。
冬休みに入って、再び帰省した時には、母は
「ほとんどムクと一緒だわ」
と皮肉を言いながら渋い顔をした。この渋い顔を見るのが愉快な気分になっていることに気づいた。母が渋い顔をすればするほど、なぜか気分が良かった。
かといって、母の事を嫌いというわけではなかった。むしろ仲は良かった。彼女は女手一つで私と姉を育てるために朝から晩まで一生懸命働いていた。一緒にいられる短い時間の間には、頭の悪い私の勉強を見てくれた。おかげで、金銭面で不自由したことはないし、母の望む大学にも見事に合格する事ができた。母の教えを何一つ破らず守っていれば人生は安泰だということを実感した瞬間だった。
「寝ないで死んだ人間はいない」が口癖の強い母を尊敬していた。私にはとても真似のできない仕事量とバイタリティにはかなわないと思っていた。しかし、芯が強く、私と少しでも喧嘩になると、私が謝罪するまで喧嘩は治まらなかった。
「勉強ができないと、将来立派な仕事にはつけない」
彼女がいつも言って聞かせていた言葉だった。高学歴で努力家だった母の言うことなので説得力があった。しかし、出来の良くない私は、勉強ができないと母に見捨てられるのではないかと、いつも追い詰められた気分だった。勉強ができないと大変なことになる、その危機感から私は母の勧める学習塾に小三の頃から通い、いつも講師に些細なことで殴られていた。
私は、生活面でも母の勧めに素直に従った。服装は母の意見を基に選んでいたし、習い事も趣味も母の意向に反する選択はしていなかった。争うと面倒臭い上に、何一つ間違わずに人生を生きていた母を見習えば済むと思っていたのだ。
自分の実力以上の大学に入ると、彼女の十分満足した様子だった。距離が離れたこともあって、細々としたことで叱責を受けることは無くなった。そこでふと、何か母の意向に歯向かうようなことをやってみたいと思った。怒られても今なら見捨てられないだろう。そう思ったが、正しいことの積み重ねで生きてきた母と違うことをするのは気が引けた。そこで、思いついたのが、髪の色だった。これくらいなら変わった色にしても良いのではないか、そう思った。これが受験勉強を頑張った、自分へのご褒美のつもりだった。
髪の色を見ると、ムクを思い出した。いつも仲が良く、若い時には馬のように幼児の私を背中に乗せてくれ、彼が年老いると、私は彼を抱っこしながら近所を散歩していた。私のたった一人の友だちは、大学入試が押し迫った冬の朝、虹の橋を渡っていた。死に目に会いたいとも言い出せなかった。受験生が何を言っているのと叱られるのがオチだったから。
自分で選択した髪の色なのに、鏡を見ると、そこには地味な顔に派手な髪の男が映っていて、奇妙な感じがした。全く似合っていず、目をそむけた。しかし、色を戻したところで、母に別の嫌みを言われるに決まっている。そう思ったので結局、大学を卒業するまで派手な髪の色にし、社会人になっても、やや落ち着いた色でブリーチをし続けた。
卒業して何年か経った頃、母が亡くなった。晩年まで働きづめだった彼女の呆気ない死だった。その頃になると、社会の荒波にもまれた私は、母の教えが何もかも正しいとは思えなくなっていた。
そうなると、今度は自分の生きる道を見失ってしまった。人は、誰しも人生の指導者と従いつつも激しく対立して自己を形成していくものだと思うが、私は、母を恐れるばかりでそのような過程を経てこなかった。人との摩擦を避け、母の言う「優しい子」を演じ続けてきた罰だった。世間に、尊敬する友人もロールモデルも見出せず、ひたすら混乱する中で膝を抱えてうずくまっていた。髪を脱色するのもやめた。母に嫌味を言わせるという、ちょっとした楽しみも失くしてしまったからだ。残ったのは痛んだ髪だけだった。
人生の指針は無いのに、生きて行かなくてはならないのは、私にとって拷問だった。給料さえもらえればいいわけではない。人間には生きる核が必要なのだ。母に与えられたものではない、自己の価値観を構築する作業は、辛く苦しい闘いだった。
そんな私も、十数年が経ち、結婚して子どもができた。ある日、妻に髪を染めることを勧められ、美容室に行った。いつもはカットしかしていなかったから、美容師の女性も意外そうにしていた。彼女は、カウンセリングの際に尋ねてきた。
「吉村さんに似合う色は……、青かな? 何色が好きですか? これなら少々明るくしても変じゃないですよ」
美容師さんに提案されながら、色見本を眺める。その時、当たり前のことに気づいた。染色は、誰かのためにするのでも、誰かに反発してするものでもなく、自分に調和する色を求めて行うものだと。
「じゃあ、この青系の『サファリ』にして下さい」
私は、抽象的な色の名前を口にする。出来上がった髪は、野生の王国どころか、可愛がっていた犬からもかけ離れた色だった。しかし、彼女と二人で一生懸命に考えて出した結論は、心を軽やかにしてくれる。
明日、職場で誰か気づいてくれるかな? いや、気づかれなくてもいい。自分が似合うと思って、選んだ色なのだから、自分さえちゃんと見ていればいい。
仕上げの時、鏡を見て髪にそっと手を当ててみる。その時、そこに映る自分に笑いかけられることができた。