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うにっき帳 vol.50|自分史編|伝説の伯父さん(9)
はじめに
こんにちは。吉村うにうにです。「うにっき帳」のvol.50を掲載します。
「うにっき帳」は日記と銘打っていますが、①日記編 ②語彙増量編 ③自分史編の三部のいずれかを取り上げます。
今回は、自分史編です。(9)で「伝説の伯父さん」は一旦終了します。続編は掲載する意思はありますが、一旦区切ります。
前回読んでいらっしゃらない方、(1)~(8)はこちらです。
では、始めます
ちなみに、本文は常体で書いております。また、日付は自分史編では、エピソードが生じたと思われる日です。
恐らく一九八二年 伝説の伯父さん(9)
クリニックは潰れたが、伯父は自己破産をしなかったらしい。祖父が借金を全て自ら払うと、金融機関と話をつけたからだった。この借金は二十年以上も祖父にのしかかり、利息を含めると三億円程度だったという。伯父は結局祖父にも金融機関にも一円たりとも借金を支払わなかった。祖母は
「自分の息子が金を返さんとは思わなかった。一千万円だけでも返してくれたらなあ」
と嘆いていたという。しかし、私は母から伯父がお金に対してルーズである事を何百回と訊かされていたので、
「泥棒にお金を差し出したようなもの」
と、醒めた見方をしていた。私は物事の表層しか見えていなかった。
伯父は、整形外科クリニックを潰した後に、入水自殺を図っていた。祖母はそれを繰り返させないために、資金の返金を敢えて求めず、彼の自主性に任せたらしい。しかし、それは言い訳だろう。伯父の借金癖は、それを尻拭いする祖父母、そしてそれを非難しながらも、祖父母の言う通りに祖父のクリニックを手伝い、伯父の様子を調べに行く母、この人達は皆、互いに寄りかかっている事で生を保っていた。そうしなければ生きる目的がないかのように。そんな気がする。
伯父が死の数年前にこぼしていた言葉がある。
「金を残したってしょうがない。使い切らなきゃ」
恐らく、将来への蓄えなどを考えず、蕩尽する事にのみを目指していたのだろう。そこには、常に自己破壊を望む姿を感じる。それは今の私にも多少通じるところがあるので、理解できないものではない。ただ、彼は性的に、消費的に、権力的に、大きなものを得ようとあがいていて、どこまでも追い続けていたのだろう。そこが、厭世的で回避的な生き方をする私とは対照的なところであった。
その後、伯父は愛媛大学とは距離を置いた。どうやら、そこでは金銭や女性問題で教授になる芽が無くなったからだろうと思う。次の舞台は、祖父母が引越しをした後に空いた、兵庫県加古川市にある元小児科診療所兼自宅だった。そこは、祖父母が新しく家を建てたために住まわせることにしたのだ。以前述べたように、敷地は三百坪あり、横に広い土地だった。この土地が後にトラブルに発展するのだった。
(おわり)
さいごに
いかがだったでしょうか? 正にも負にも大きなエネルギーを持った伯父でした。昔は、軽蔑していましたが、今は軽蔑も嫌悪の気持ちも持っていません。これは私の心が広くなったというのではなく、伯父の生き方の底流にあったものが見えてきたように思えるからです。伯父に対しての私の今の気持ちは、感嘆と憐憫が近いかなと思います。感嘆は、やはり、本を出版し、地元ラジオに出られるくらいの知名度を持ち、医師としての腕も素晴らしく、最終的には大学教授になったそのエネルギーに対してで、憐憫と言ったのは、それが教育虐待からのできた空虚さを依存によって埋め合わせようともがいていた事に対してです。その莫大なエネルギーの使い方は私にはとても真似のできないものでした。ただ、私も、もがきながら生きていくしかないなと思っています。誰かと比較しても仕方がないので、自分なりの生き方を模索していくしかないのだなと、伯父を見て感じました。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。