都市と激情 第三話
第三話
君は、交番の前をぶらりとして、そのままゲームセンターへと向かう。どうせ遅刻だろうからと、エスカレーターを駆け上がることはもうしない。電話を一本かけ、店長に遅れる旨を詫びると心が軽くなり、あの詐欺師はまだ同じ駅で獲物を物色しているのだろうか、いつか捕まるのだろうかと夢想に耽(ふけ)る。自分が騙されやすいと思われている事に少し苛立ち、眼の横の筋肉がピクリと動く。今日の授業は何をしようか。遅刻のマイナスを取り返さないと。いつの間にショッピングモールの三階に着いたのかエスカレーターの終点で躓(つまづ)きかける。
授業の時間は始まっていたが、生徒達は講師が来るまでの間はいつもそうしている様に銘々でナインボールやエイトボールの実践的なゲームを始めていた。君が姿を現すと、全員が注目し、軽く頭を下げて、指示を待つ。
「遅くなっちゃって……。ちょっとトラブルがありましてね。みなさんゲームを始めていましたか。いや、集まらなくていいです。今日はゲームにしましょう。全テーブルナインボールで。いや、エイトボールをしていたテーブルは、今のゲームが終わってから……、いや、エイトボールを続けたければ、それでも……。僕が各テーブルを見て回りますから、質問があったらそこでお答えします」
君は、先程急いで装着したばかりの蝶ネクタイがずれていないか確認する。周囲一帯に鳴り響く打球音、球と球とが衝突する音、この音を聞くと落ち着いた気分になるだろう。会計カウンターから一番近いテーブルから見ていくことに決め、そこで自分が球を撞く番を待つ男性の袖を軽く引くことにする。
「プレーしている人の視界に入らないのがマナーですよ」
男性は狼狽して、自分の席に戻る。
その隣のテーブルでは、前髪をオールバックにした初老の男性が、ジャンプショットのつもりで白球の下にキューを入れるが、手球は無残にも飛ばすに転がる。君は、ゲームの中断を指示する。
「ボールを戻しますよ。一番に当てるためには、手前の三七八が邪魔をしてますよね。三浦さん。あなたの技量ではジャンプショットは無理ですよ。どうしてもやるなら、こう、キューを立てて……」
君は、老人が転がした白球を元の位置に戻し、自分の鞄から取り出したブレイクキューを構える。左手でブリッジを作り、台と平行にキューを振る普段のショットとは違って、右肘を耳の高さまで上げる。えいと力を込めると、白球はラシャに跳ね返されたように宙を低く舞い、三つの障害物を越えてラシャに着地し、そのまま少し転がって一番にコツンと当たって止まる。そのショットを見ていた何人かの生徒から「おお」と嘆息が漏れる。その声を聞くと君の自己顕示欲が満たされ、得意な気分になり、口が滑らかになる。
「ジャンプさせるには、下から救い上げるんじゃなくて、上から叩きつけるんです。そうしたらラシャとの反発でボールが飛びますから。でも、初心者にジャンプは勧めませんね。そこの長クッションを使って一番に当てにいった方が確率高いですよ。僕達プロでも、あまり選択しません。クッション選べるなら、そちらが定石です。では、その続きからどうぞ」
君は二番目のテーブルを離れ、三番目のテーブルを覗く。そこで、プレーをしている中年女性の後ろに立っている凜に気がつく。彼女はハーフを主張する薄い色素の眼に意味ありげな微笑をたたえている。しかし、彼女に何かのサインを送ることを良しとしない君は、それに気づかないふりをして、フォームを作って素振りしている中年女性の向かい側に立ったまま、少ししゃがんで、そのプレイヤーと目線の高さを合わせる。
「首が傾いてますよ。ボールが正しく見えませんね」
そう言われて、女性は顔を起こす。すると、首を傾けたような姿勢からキュー、顎先、鼻が一直線に並んだ美しいフォルムが出来上がる。
「ほら、手球の見え方が違うでしょ?」
そう言いながら、君は女性の後ろに、凛の真横に立つ。
「キューを持つ右手が堅過ぎます。軽く振ればいいんですから……」
君はその時、尻を撫でるように触ってくる手の存在に気づくだろう。横目で左方向を見ると、凜がさっきより澄ました顔で、女性が球を撞くのを待っている。君は素知らぬ顔で、凜から一歩離れ、自分が右手に持っているプレイキューの先端を見つめる。
「そろそろタップの交換時期かな……」
呟きながら凜を盗み見するが、彼女の表情に変化はない。
女性が強めにキューを振ると、キューは白球に当たったものの、弾かれた白球は的球には当たらず、真っ直ぐにコーナーポケットに向かう。コーナーに落ちるまでの軌道を、いつもの習慣でそれを目で追う君は、突然白球が消えたことに動揺するだろう。あれ? もうコーナーに落ちた? いやビリヤード台がない。目の前に現れたのは、エスカレーターと階段が並んだ風景だ。見覚えがある。さっき、君が通り抜けてきたトライアッドモール駅の改札を出た場所に間違いない。駅だよな? 君は、火事が見えた夜に試してみたように右眼を強く瞑り、左眼だけを開けてみるが、風景は君が毎日のように乗降している駅のままだ。改札から出たところにエスカレーターと階段があり、モールの一階へと伸びている。映像はそのエスカレーター全体をカメラのテスト撮影のように音もなく遠景から映し出す。
君の意志とは関係なく、映像は階段の上の方だけがズームアップされるだろう。そこには、杖をついて腰が曲がった老いた男と、若い男が言い争いをしている。老人は、気弱そうに何かを話しているようだが、その音声は君には聞こえない。君は浮遊性のめまいをおぼえて、手探りで近くにあった椅子に座り込み、下を向く。
「ヒロ……、先生! どうかしましたか?」
隣から凜だと思われる声。その声も君の中では時空を隔てている様に歪み、他にも何か言っている様だが聞き取れない。
「何でもないから。ちょっと体調が……すぐれないんだ。座っていればよくなるから……放っておいて」
君は下を向いたまま、声を届かせようと腹に力を入れてそう頼む。少しの沈黙のあと、再び打球音や球の衝突音が聞こえ始めるが、音の大きさは均一ではなく、ガチン! と耳元で聞かされているような強迫的なものもあれば、夜の静寂(しじま)の中を遠くの踏切音が聞こえるような、自分だけが拾い上げられると思えるような、コツンという微かな音もある。
これも幻覚か? 君は、今日口にした食べ物と飲み物とを理性を使ってリストアップしようとするが、どうしても階段上の老人の泣きそうな顔から逃れられない。彼は、階段の上から三段目の位置で立ち往生しながら、上を見上げる。映像が少し左上に向き、若い男のピントがぼやけた顔が、はっきりとしてくる。男は、赤や薄い紫の湿疹だらけの頬を震わせながら、神経質そうな目で、口先をパクパクさせながら老人を威圧しているようだ。映像は男が左手に掲げた壊れた眼鏡に焦点が合う。さっきの詐欺師だ。君はその光景を強制的に見せられたままでいる。
「こいつまだやっていたのか」
小さく呟いていると、君の肩を揺さぶる感覚がある。
「どうした? またこの前の……症状……な……の……か」
声は途切れ途切れに、時間が引き伸ばされたように聞こえる。君は下を向いたまま、
「橋本さん……ですね。この前と同じですから、病院行かなくてもいいです。放っておいてください。すぐ治ります」
と、顔を上げて、思い出せる限りの笑顔を作り、店長の声がする方向へと、顔が見えてもいないのに目を向けてみる。グワングワンと男の足音が鳴り響き、やがてそれが遠くになったことで、君は店長が去ったと確信するだろう。代わって君の前にしゃがみ込む人の気配を感じる。昔、化学実験で使ったアセトンを弱くしたような甘い香りの生温かい空気が、鼻先にやってくる。凜の顔ではないかと思い、再び顔を下に向け、手で彼女を押し退けようとする。
若い男は、階段の一番頂上から老人を見下ろしている。口から泡を飛ばし、それがムービーを見ている君の顔にかかってくるようで嫌悪と軽蔑を感じる。こいつは、僕をターゲットにするだけでなく、こんなヨボヨボの年金暮らしからも集(たか)るのか? 君は憤ると同時に、被害者は他人なのに、なぜか心を乱されている自分に違和感も生じている。落ち着け披薫。僕が被害に遭っているんじゃない。僕には関係のない話だ。この老人が、どうこの問題を解決するのかは、この人の課題であって、僕の課題じゃない。僕は何もしてあげられない。つまり、僕が苛立つ理由はないんだ。落ち着いて、深く息を吸って……。君は必死で自分に言い聞かせる。
君の意志に反して、自分の手が震えるのをどうしても止められない。老人は階段の途中に立ったまま、杖を小脇に抱えて首から下げたバッグからお金を取り出すのが見える。彼は頭を下げ、その手には一万円札が一枚握られている。若者は、怒りの表情を崩さず、口元を小馬鹿にしたように歪ませ、その手で老人が一万円札を握った手を強く払いのける。
手をはたかれて、上半身をぐらつかせた老人は、杖をつく暇もなく、倒れ込み、頭を階段の角に打ち付けられ、そのまま胴体がゆっくりと転がって下の段、下の段へと確実にコンクリートの強打を浴びながら落ちていく……。
君は、階段の一番下で頭の周りから表面張力で盛り上がっている血液を見て吐気をもよおす。一番上では、若者が獲物を逃した時のような、悔しそうなそれでいて侮蔑するような半笑いの顔を浮かべている。男の首がズームアップして君の目の前にある。アトピーで赤くかさかさしてかさぶたのある首が……。
「ギャー!」
断末魔のような声に、思わず君は両手の力を緩めるだろう。その手をかけた首は、詐欺師のそれではなく、白鳥を思わせるような細くて長く、優美な白さを持つものだった。青くて細い血管が透けて見える。
「何すんのよ……」
凜は泣きじゃくりながら、君の肩を力なく何度も殴りつける。
他の生徒達、凛の近くにいた女性や、オールバックの老人などが君を取り囲んでいるものの、皆怯えた顔をして、君が動いたら一斉に後ろに下がって逃げてしまいそうに見える。
君は、風景がトライアッドモール駅からビリヤード教室へと戻ってきたことを徐々に理解し始める。じゃあ、僕が手にかけていた首は……。君はそう考えながら首にかかっていた手を引き、美しい首には手の跡が橙(だいだい)色を浮かべて残っている。目の前には涙ながらに君を睨(ね)ねつける彼女。
「あたしの事が嫌いなら、もう会わなきゃいいでしょ! こんな事しなくったって……」
君を囲む生徒達を後方からかき分けて、店長がやって来る。彼は、彼女の肩に手を置き、そっと立ち上がらせるだろう。君は、椅子に座ったまま、ビリヤードテーブルの上にある明かりに焦点を合わせ、左右の見え方が一致すると、少し視線を動かして怒りの表情のまま動かないでいる彼女に力なく伝える。
「ごめん。人違い……。犯人だと思って……。いや……、理由はなんであれ、僕が引き起こした事だから、責任取るよ。ご……めん」
下を向き、興奮が残る心と格闘する。確かにあいつを絞め上げようと思った。でも、関係ないのに血液が沸騰したみたいだった。爺さんが落ちた。救急車は誰か呼んだだろうか? あいつを止めないと、他にも被害者が出てしまう。通報しなければ。あの時、しておけばよかった。
君が立ち上がろうとすると、その肩をそっと押さえる手がある。その手の持ち主を見上げると、紺の制服制帽を身につけた警察官だ。店長が君の傍らにやって来て、そっと耳打ちする。
「悪いけど騒ぎになったから、一応通報した。誤解だと私は信じているからね。例の幻覚だろ?」
君は「すみません」と小さく呟く。
「いや、この前と今日と二回続けて怒ったね。こんな敷島君見たことないからさ。幻覚で感情的になった? 心配になって」
「すみません。ご迷惑かけて」
君は、店長の炯(けい)眼(がん)に驚きながら、軽く頭を下げ、肩を叩いて立ち上がることを促す警官の指示に従うだろう。
凜は許してくれないだろうな、首を絞められて恐かったろう。でも恐がるのはあの子の課題……。いや、原因を作ったのは僕だ。君は、固い畳が敷き詰められた部屋で、うずくまっている。椅子も机もなく、所持品はすべて取り上げられていた。付き添った警官によると、警察署で最大四十八時間過ごすことになるらしい。その後、勾留が決定されれば、検察に送られると説明をしていた。
何年も洗ってなさそうな血液の染みついた畳、君はそこに座るのを嫌がり、かといって嘔吐物か糞便なのか黄土色をした染みがついた畳に寝転がる気にもなれず、隅にある一番染みの少ない畳に乗る。鉄製の鉛色の扉は、いつか行ったラブホテルを思い起こさせるが、窓に嵌められた鉄格子は、外界からの隔絶を強く感じさせる。扉の真向かいには大きな窓があり、朝日が射しこんでくるのが意外だと感心する。君は扉に背を向け、暑いアクリル板の向こうの曇りガラスをじっと見つめる。光は入ってくるが外の状態は全く分からない。これが留置所かと感慨にふける。硬い畳の上で座るのは案外耐えられないものだ。だからといって寝ているのも怠け者に見られそうで嫌だと思っている。君は、イチローだったらそうするはずだと考え、架空のキューを持ってイメージのボールを撞いてみる。だが、それも虚しい行為だとすぐに止めてしまうだろう。
上の階の取調室に呼ばれたのは御昼前だ。君は起きた出来事を正直に話す。クリーム色のテーブル。君は半年も座っていなかったかのように背もたれ椅子の感触を喜び、幸福な気分に浸る。鼻が高く彫りが深い顔の警官を相手に、君は自分の経験を時系列で話すだろう。
「頭の中に動画が見えて……。そこで若い湿疹だらけの男と……老人が……。若い方は、昼間僕にも絡んできて……。そこで老人が突き飛ばされて。その人亡くなったかも……。怒ったら、そいつの首がそこにあったので……、はい、絞めたら、凛だったんです」
警官は表情一つ変えず、君の話を口述している。
「繰り返しに聞くけれど、君がその光景を見たのは何時かな?」
「十九時……過ぎだったと思います。いや、若い奴に絡まれたのが十九時ごろで……、その後授業が十九時開始の所を何分か遅れて……、しばらくテーブルをひとつずつ見て回っていたから、十九時はかなり過ぎていて、十九時半だったかも」
君は、できるだけ時間を正確に思い出そうとするが、あの時はトラブルの後だったのであまり時計を見ていなかったと思い起こす。
「ふうん。十九時過ぎから十九時半の間、ね」
「あの……、僕が見ていたそのお爺さんが転落した光景は、僕の幻覚なんでしょうか? 他にも、北埼玉銀座商店街の火事も」
「火事の方は消防の管轄だから何とも……。お爺さんの転落はあったんだよ。病院で死亡確認されてね」
男は、苦々しい顔をする。
「やっぱり……」
「お爺さんはどんな格好だった? 君がビリヤード場で見えたというのは」
君は、思い出せる限り、眼に焼き付いていた杖や頭髪、服装について話す。ただ顔は、怯えた表情以外には、皺が多くて髭がなかったことしか思い出せない。
「この人?」警官は一枚の写真を取り出す。
「似ていると思います。多分……」
「で、君の言う若い詐欺師はこっち?」
彼は、別の写真を提示する。君は、覚えのある顔つきに気色ばむ。
「こ、こいつです。こいつが殺人犯です」
彼は写真を懐にしまい、困ったような表情を浮かべている。
「この人は殺人犯じゃないよ。亡くなったお爺さんの近くにはいなかったし、大勢の人がいる中で、誰もこの人とお爺さんの言い争いを目撃した人はいない」
「僕が嘘をついていると? いや、僕が見たのは幻覚で、存在しないものを見たのかも知れない」
君は頭を抱え込む。視覚装置があの映像を映したのか? それとも脳の病気なのか? しかし、幻覚だとすると、妙にリアルでまるでテレビを見ていたみたいだった。写実的過ぎる。幻覚ってもっと色や形が歪んでいるものじゃないのか? 視覚装置の故障なら、あの光景はどこから? もしかして僕が過去に見たものを録画しているとか? いや、僕はあの二人が一緒にいる所を見ていないし、タトゥの不良にも見た覚えがない。でも、僕が注意を払っていないだけで視覚装置が勝手に録画していたと……、いや録画装置なんてないはず。
君が机をコツコツ叩きながら思案しているのを見て、男が口を開く。
「もう一度、尿検査をしてもいいかい? 簡易の検査は昨日させてもらってそれは陰性だったし、所持品にも変な物はなかったけれど。悪いね」
「いいですよ。実は、僕も誰かに薬を飲まされたのでは? と、考えた事があるんです」
君は同意を示す。
検査を終え、下にある再び椅子のない部屋に戻された君は、退屈を感じる間もなく階段を昇らされる羽目になる。取り調べの時とは別の警官が扉を開け、
「弁護士との接見だ」
と、ぼそっと告げたので、君はその指示に従う。
彼の開けた白いドアの向こうにはテーブルと椅子があり、部屋の中央に設置された厚いアクリル板の向こうには、にこやかな笑みをたたえる中年のぽっちゃりした女性が先に座って待っていた。
「敷島披薫さんね? 弁護士の河田です。お父さんから依頼がありまして、あなたの力になりに来ました。よろしくね」
女性は、自分の名前『河田佳子』と書かれた名刺を、君の目の前の透明な板に示す。
君は事件の事、目の前に駅の階段が見えた事など警官に洗いざらい話した内容をもう一度繰り返す。
「そう。では首を絞めた事実は争わないのね?」
その問いに黙って頷く。
「では、誤って恋人の首を絞めたという事でいいのね?」
君は、懸命にメモを取る彼女を制する。
「いえ、僕は彼女の首を絞めたことには変わりないので、罪は償います。それはいいんです。今、知りたいのは、なぜ僕にあの言い争いや殺人の現場が見えたのか? それだけなんです。世の中の真理を知らずに生きていくことは、自分でも許せないんです。先生、僕は別に有罪でも罰金でも懲役でも構わないので、真実を知る方法を一緒に考えて頂けませんか?」
君の訴えに、彼女はしばらく黙り込み、しばらくしてゆっくりと口を開く。
「でもね。まずはあなたの恋人に謝罪することが先じゃないかしら? 私、彼女に今朝会ってきたけど『怒ってません』って言っていたわよ。いい子じゃない。でも、かなりショックを受けていたと思う。もう少し女の子の気持ちを考えて大事にしなさい」
君は、凜から何度も聞いたことのある台詞をここでも耳にする。以前は、他人の気持ちは簡単に理解でき、影響を及ぼせると思っていた。それなのにいつもその台詞を言われる。今でも、その言葉に軽い反発心はあるものの、凛には被害に遭った理由を知る権利があると考える。
「ええ。許してもらわなくてもいいです。そう伝えて下さい。手紙を書きます。僕がなぜあの子の首を絞めたのか。嫌いだから絞めたわけじゃないと、僕の文章力を尽くして説明します」
君の返答に彼女は苦い顔をする。
「正直に書けばいいのよ。彼女は被害届を出すつもりがないと言っていたから、暴行での勾留はないし、暴行の容疑によっては検察へ送致されることはないの」
君は、彼女の言葉に続きがあることを読み取る。
「暴行というか手を伸ばしたら、そこに彼女の首があっただけなんです。まあ、信じてもらえないでしょうけど」
「そこは争わないといけないかもね。暴行ならすぐ釈放されそうだった。あなたはプロのビリヤード選手で逃亡の恐れもないし、住所ははっきりしているし、現行犯逮捕で証人もいるから証拠隠滅の恐れもない。被害者が被害届出さなければ、釈放後も不起訴になるのは予想できたの。でもね、警察はあなたの事、検察が殺人未遂で立件できるようにしようとしているみたいなの。そうなると簡単には釈放してくれないだろうし、ここから検察に送致されたら二十日間くらいは出てこられないことになるわね。叩いただけだったら、暴行で済んだのに。あなたが絞めた跡、彼女の首にまだ残っていたわよ」
彼女は咎めるような目で君を見る。
「そうですか。今回ばかりは真実を知るという自分の都合を優先させるわけにはいきませんからね。畜生、あの詐欺師め、殺人までやるなんて」
弁護士は不思議そうな目をする。
「あなたが言っていた『眼鏡を弁償しろ』と絡んできた若い人、殺人はしていないわよ。お爺さんが転倒した時、彼を駅構内で職務質問していた警察官がいたの。お爺さんとは関係ないわよ。ここで聞かなかった?」
君は驚いて、言葉に詰まる。お爺さんは亡くなったという警官の言葉を思い出す。
「でも、お爺さんは亡くなったんですよね? 僕はその方の写真を見せてもらったんですが……」
「そう、聞いてないのね。あなたが暴行事件を起こした時かその直前にお爺さんは転倒しているの」
「一番下の段まで落ちて、そこに血だまりができていませんでしたか?」
「その通りよ。しかし、あなたの言う若者は関係していないの。亡くなった方は、階段を降りている途中で、どうやら脳卒中を――医学的には脳血管障害というらしいけど――起こしたらしいわよ。それで、階段から落ちたのではと、検死の報告には書いてあるそうよ」
「でも、僕が河田さんにこの話をする前に、どうして駅の転落事故のことを調べてくれていたんですか?」
君は怪訝に思って、穏やかな表情を浮かべた相手に問いかける。僕の思考が電波となって飛んでいるのだろうか? まさか、そんな妄想を持つ病気ってあったよな。病名を思い出せないうちに彼女が口を挟む。
「橋本さんが心配していたのよ。あなたいい上司持ったわね。あなたの言葉を信じて話してくれたのよ。今朝、凜さんに会う前に彼に話を聞いてきたの」
「僕、あの人に映像の事言いましたっけ?」
彼女はふうっと息をつく。
「憶えてないの? あなたが逮捕される前、その話をしていたって。『若い男がそこの駅で老人をたった今突き落としていたから通報してくれ』って言っていたそうよ。店長さん、あなたは幻覚を見ているかもしれないが、事件は本当かもと思ってあなたが連行された後、駅の方へ足を運んでくれたそうよ。びっくりしたって言っていたわよ」
君は、自分の見たムービーが、半分だけ正しかったことに困惑している。彼女も腕を組んで指先を顎に当て、次に発する言葉を選ぶ。
「警察は……、基本的には……、あなたの見たという映像を作り話か幻覚として扱うと思うの。転落事故はたまたま同じ時刻に生じただけだと。詐欺師は関係していなかったし。あなたが、暴行の意図はなかったと言い逃れするための作り話として扱うでしょう。でも、そのストーリーには無理がある。ねえ、店長さんから聞いたけど、火災の映像をその二三日前にも見ているのよね? その前には、何か変わった映像を見たりしなかった?」
君は静かに首を横に振る。
「商店街の火災もなかったみたいですね」
そう言いながら、日曜の火災映像が見えた日、病院の帰りに商店街を見て回ったことをつけ加える。
「そうね。火災も落書きもなかったみたいよ、あなたの見た映像は、どこまで信用していいか私にも分からないの。敷島さんが嘘をついているなんて思ってないけど」
その映像はただの根拠のない幻覚なのか、それとも本物の映像と脳内で造られたコンテンツのキメラなのか? 君は、できることならもう一度何かの動画がやって来ないかと願ってみる。
「ねえ、一度お医者さんに診てもらったら? その、君の右眼に機械を取り付けた先生に。機械の故障で変な映像が見えたのなら、事件は映像の首に手を伸ばしただけという話になる。殺人未遂の成立要件は『殺意の有無』と『行為の危険性』で、機械の故障なら、殺意を検察が立証するのは困難になる。これから診てもらわない?」
彼女はアクリル板に空いた小さな孔に向かって顔を近づける。
「ええ。それは診てもらいたいですが、何しろ僕は囚われの身ですし……。裁判が終わったら……診てもらえるんですかね?」
弁護士は自信に満ちた表情をして言う。
「今すぐによ。あなた、明日の夜までしかここにはいられないの。検察に送致されてからでもいいけど、診察を受けてその結果勾留が決定されず、釈放となった方がいいでしょ?」
「そ、そりゃあ。でも大学病院は神田ですよ、東京の。神田の田浦教授がわざわざ熊谷の郊外まで来てくれますかね?」
「大丈夫。あなたが神田に行くの。医療目的なら、出られると思う。いい? 刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律五十六条にはあるの。被収容者、つまりあなたは必要な医療処置を受けることができる、と。あなたは手術で埋め込まれた人工の眼の調子が悪くて事件に関与したかも知れないわけだし、その機械の眼について詳しく知っているのはおそらく田浦教授だけでしょう? 警察も、あなたの言っている話に少し困惑しているみたいだったから、診察を受けることには反対しないわよ」
君はその話を聞いて緊張する。もし眼に欠陥があれば、もうビリヤードはできないかもしれない。しかし、視覚装置に欠陥がなければ自分はここから出られないかも。どちらにしろ、診察を受けなければこの状況は打破できないんだ。そう考えをまとめた君は、弁護士に手続きを依頼することにする。
その日のまだ日が高いうちに、君は警察署から出て、駐車場にある銀色のセダンの後部座席に座るよう指示される。隣の座席には君を取り調べた彫の深い顔の警察官。運転は若い警察官に任せて、それとなく見張ってくる。君は、人工視覚装置が故障をしないか、するとしたらどの条件で故障するのかを見極めようと、窓を流れる風景を次々と目で追っていく。ファミレスの看板、鉄道のパンタグラフ、前方を走る車のナンバープレート。しかし、何も変わった映像は見えない。隣の警官と運転手は、病院への最短ルートについて話し合うことは時折あるものの、君と話をしてはいけないと指示されているのか、直接目が合っても、ルームミラー越しに見つめてきても、黙ったままだ。君も彼らとどう接するべきか分からなかったので、都内に入ってもひたすらビルやそのテナントの店を目で追ったまま、無言で過ごす。
目的地である『脳神経科学先端医療センター』は、それが所属している大学病院の敷地に、本館、新館とは別の見捨てられたような場所に建っていた。窓から見えるカーテンは元の色とは思えない黄色みがかかっていて、ビルのコンクリートはひび割れ、そこから灰色の濃い染みが見える。車を降りると若い警官は君を先導し、その入り口の曇ったドアノブをガチャリと開けて、中に入って行く。内部の薄汚れた壁とそのそばに立つ古いスチール製の本棚、その間を抜けて『教授室』の前に到着する。若い警官がドアをノックし、中から入室の許可を示す懐かしい声が聞こえ、やっと君は真実への扉が開かれたと安堵する。
部屋の中では、君と教授だけが差し向かいで座り、二人の警官は君の後ろで立っている。取り調べた警官が事件の概要を教授に説明し、あとは君が直接話すように求める。君は日曜の火災、前日の転落事故について三度目の同じ内容の話をする。
「映像を見たとたんにカッとなってしまって……。僕、あんなに怒ったのは、人生で初めてだと思います」
その時、コツコツとドアをノックする音がする。教授が「どうぞ」と声をかけると、黒のスーツ姿の眼鏡をかけた営業マンのような男が入ってくる。
「失礼します。オプティカルテクノロジー社の中川と申します」
男は警官二人と君に名刺を渡す。君は、彼が人工視覚装置のメーカー側の人間だと認識する。
「では、オプティカル社の方も来てくれたところで診察を始めますか。敷島君、眼球を外してくれないか」
その依頼に右手で右眼の眼窩に指を入れる。それを見た若い警官は汚物のように嫌悪感丸出しで君を見るだろう。彫の深い方は、初めから君の方を見もせず、万一に備えて、部屋の唯一の出入り口であるドアを固めている。中川と名乗る男は、アタッシュケースからノートパソコンのような機械を取り出し、それを教授の方に向けて机の上に置く。
「敷島君、悪いけど視覚装置のパスコード教えてくれるかい? 君の右眼が見た情報を、こっちの機械で確認してみるから」
君は、口頭で八桁のパスコードを小声で告げる。額がMの字の禿げ、顎が自信ありげにしゃくれている田浦教授は、白衣の下に着たワイシャツの一番上のボタンを外し、ネクタイを緩めると、手袋を履き、君から受け取った眼球にペンライトで光を当てるだろう。君の頭の中ではチカッ、チカッ、チカッと不快な白い眩しい物がフラッシュしている。
「ごめんね。眩しすぎたね。これならどうかね」
君の頭には、白い紙がスクリーンのように映っている。白い紙越しにぼんやりした光が何度もフラッシュする。教授はライトを右手で点けたり消したりしながら、パソコンのような機械をじっと見つめている。
「視覚装置そのものは異常なさそうだ。情報は発信されている。念のために、君の頭の中にある受信機の具合も見てみよう」
中川は、アタッシュケースから、先端が穴の開いたドーナツ状で全体が布団たたきのような形状をした器具を取り出す。教授はそれを受け取り、君の後頭部にそれをかざしながら動かす。動く度に「キュイーン」という音が、大きくなったり少し小さくなったりする。教授は、それがハウリングのような一番大きな音がする場所で止めると、中川が教授に代わって人工視覚装置を持ってそれを窓の外へ向けたり、時計の方に向けたりする。君は左眼からの情報と、あちこちを見せられている右眼からの情報が混在し、気持ち悪くなる。それに慌てて左眼を瞑るが、中川が色々な方向へ視覚装置を向けるので、目まぐるしく風景が変わり、浮遊感と吐き気まで催してくる。
「もうちょっとゆっくり動かして下さい」
君の訴えに男は、
「すみません。受信機の脳波見るのに夢中になっていたもので……」と、恐縮する。
「受信機も異常はなさそうだ」
教授は、人工右眼をアルコール綿で丁重に吹き、君に渡しながら言う。
「紹介状を書こう。精神科だね。妄想性の障害じゃないかなあ? そこは私の専門ではないのでね」
彼は自分の仕事ぶりに満足したように君に告げる。同時に、後ろにある席に座り、パソコンの電源を入れ、タイピングを始める。
「つまり人工視覚装置にも受信機にも異常は……、ないと?」
君は怪訝そうな顔を教授の穏やかな顔に向ける。
「うん。この装置が架空の映像を見せることはありえないと思う」
「あの……、教授。確か視覚装置と受信機は5Gで通信されているんですよね? 他の接続方法はなかったのですか?」
若くない方の警官が訊ねる。その表情からは職務上というよりは興味本位といった動機が君には透けて見える。
「従来の有線という方法で装置と受信機を繋ぐという案はありましたよ。ただ、見た目は悪いし、頭蓋の表面に沿ってコードを入れなければならない。それが腐食することだってあります。これは敷島君と話し合って決めたことです。他にも、海外ではBluetoothを使う通信方法もありますが、動画のような、しかも長時間途切れる事のない大容量の情報を瞬時に送るには、少し荷が重いですよ。シミュレーションでは彼がビリヤード……でしたっけ? ボールが転がってから八秒から十五秒経ってから、彼の頭の中にその光景が見えることになったでしょう。そうなると、音や空気の触覚などの他の感覚器官からの情報との整合性が取れず、役に立たない視覚情報になる上、強いストレスになったと思われます」
「整合性が取れないって、どういうことですか?」
警官は不思議そうな顔をする。
「例えば、私がこうやって手を叩く」
教授はいきなりパンと手のひらを打つ。
「パンと音が聞こえると同時に、お巡りさんには私の手が合わさる光景が見えますよね?実は、脳での視覚情報の処理と聴覚情報の処理に必要な時間はちょっとずれているんです。目の前で手を叩くと音の処理の方が光の処理よりも少し早い。視覚情報の方が情報量多いですから、本当は音の方が早く脳内を駆け巡ります。しかし、多少の違いなら、脳が融通を効かせてくれるので、我々は音と映像が同時に矛盾なく生じたと感じるわけです」
教授は一呼吸おいて話を続ける。
「音と映像のタイミングがずれている例は――脳の問題ではありませんが――遠くの雷です。本当は雷鳴と雷光は同時に生じています。しかし、音の空気中を伝わる速さと光の速さは圧倒的に違う。だから、雷光の何秒か後に雷鳴が聞こえてきたりします。こちらは視覚の方が早く脳に届きますね。私達は、この二つが違うタイミングで感じられても――さすがに脳内で同時に生じたことにはできませんが――幼少の頃から学習しているから何とも思わない。ところでお巡りさん、動画サイトに違法にアップロードしているテレビ番組ってありますよね?」
「え、ええ……」
警官はプライベートで見ていると言ってはいけないと思ったのか、複雑な顔をしている。
「違法であることを逃れようとしているのか――私にはそれで違法でなくなるかは分かりませんが――恐らく故意に映像と音声のタイミングを変えている動画ってありますよね。ナレーションが五分前の映像内容を喋っているドキュメンタリー番組とか。そういうものを見させられていて、いらいらしません?」
「ま、まあ、確かに不快にはなるでしょうね」
「野球でも、バッターがボールを打つ『カキン』という音が聞こえて、何秒か後にバッターが打つ映像が見えるようなものです。Bluetoothだと、それが日常的に起こるのですよ」
「それって、先に音で結果が分かっちゃって、ネタバレしているようなものですよね」
若い警官が、話に入ってきて笑う。君は、今後の事を知りたくてうずうずしてくる。
「僕は、どうしたらいいんですか? 警察には殺意をもって女の子を手にかけたと誤解されているようですし、視覚装置などに異常がないなら、僕の脳に問題があるとでも?」
君は二人の警官をちらと見てから教授に向き直る。
「まあ、機械に異常はないと思う。でも、君が見たという映像は、妄想にしては妙にリアルなところもあるからねえ」
「妄想で、怒りを感じるなんてこと、あるんですか? 今まで僕はあまり怒ったことないんですよ。それなのに、人工視覚装置になってから二回も。これって、妄想によるものだとしても、それだけではなくて人工視覚装置の何らかの影響はあるんじゃないですか?」
教授は腕組みをして、やがて、彼のパソコンのモニターをくるっと君の方へ向け、口を開く。
「鋭い所をつくね。実は、君の話を警察から聞いた時、少し変だと思ったんだ。これは君の脳のMRI画像、脳の断面図で、君が視覚装置と受信機を入れる手術前の物だ。この丸い部分なんだけど」
教授は、脳の画像の中央にある、灰色の領域を指差す。君には何の画像かさっぱり理解できないが、とりあえず頷いて、話を先に進めさせようとする。
「ここは扁桃体といってね。クルミのような形をしているからそんな名前がついたのだけれども、恐怖や怒りを感じる場所、というと語弊があるかな。恐怖は怒りを感じる時には、ここの血流が増えて活性化して、脳の様々な場所に信号を送るんだ。警報ですよって」
「はあ……、そんなものが人間に必要なんですか? 恐怖なんてない方が、人生上手く行きそうですよね」
「まあ聞きなさい。君の扁桃体は、生まれつきのものなのか、それとも何らかの原因で後天的なのかは不明だが、少し小さいという印象だったんだ。恐怖や怒りって嫌な感情だよね。でも、古代の人、いや歴史以前の人達は、この扁桃体からの情報がなければ、ライオンに食べられそうになったり、他の部族の人達に襲われたりしても、それに対応できなくなるかもしれない」
「でも、今はそんな目に遭うこともないから、理性でそういった感情を抑え込んだ方がいいのでは?」
「敷島君は誤解をしている。理性と感情は対立をするものではないんだよ。確かに、恐怖や怒りは合理的な行動を阻害することもある。しかし、現代でも人生の選択に優先順位をつけたり、危険を察知するには、快の感情――喜びだね――だけでなく、不快な感情が必要なのだよ」
「そんな感情なんて必要なんですか? そもそも感情なんて人間の贅沢品だと思いますが。僕は、選択肢が沢山あれば全てメリットとデメリットをノートに記載して、考えをまとめていますよ。ノートは言わば、外部記憶装置なんです。危険なんて、自分を客観視できる『メタ認知能力』があれば必要ないと思いますが」
君は、あえて挑発的に笑みを浮かべて教授を見つめる。
「では、君にちょっとゲームをしてもらおう。今から二枚一組の人物写真を見比べて、どちらがより魅力的に、つまり美男や美女に見えるかを答えてもらおう。お巡りさんも一緒にどうです?」
後ろにいる二人は前のめりになり、教授はパソコンの画面を君に向けたまま、ファイルを開こうとする。
「美男美女なんて、その人の主観じゃないですか? まあ、あきらかに世界の共通認識というものはあって、それを利用した研究もあるみたいですが」
「そう思うだろう? ところが人類が共通に持つ『好ましい顔』の傾向ってあるのだよ。視覚装置のスイッチを切ってくれるかい?」
君は右瞼の上を強く押し、スイッチをオフにする。左眼も閉じると闇の世界だ。それから、ゆっくりと左眼だけを開けてみる。
「お巡りさん二人は、敷島君の跡に答えて下さい。さあ、どちらが美人かな?」
君は、二人の黒人女性の写真をじっと見つめる。
「うそ……。ええ? 僕を試してます? いや……何かあるのですよね? この中に違いが」
君は、二人の女性の写真を交互に見比べる。その二人の髪型、眉の形、瞳の色、鼻、唇の厚さ、口角の上がり具合、順に心の中でリストアップしながら比べる。
「メモを取るのは禁止だからね。印象だよ。ぱっと見た印象」
君は、一卵性双生児か、全く同一人物ではないかと思える程、似ている二人を見て戸惑うだろう。これはもしかして、同じ写真を見せて同じだと判断させないようにする、引っかけ問題なのかもしれない。二分ほど考えてみたが、どうしてもどちらが好みか決められず、とうとう音を上げる。
「まったく同じに見えます。答ってあるんですか?」
教授は深く頷いて二人の警察官に訊ねる。
「あなた達はどう思います?」
「何となく……、Aですかね」と、若い方。
「Aの方が少し美人のような……、黒人の美人の尺度はよく分かりませんが」と、年長の警官。
「実は、七割以上の男性がAを支持するらしいです。では、二組目の写真を……」
そう言って、次々と君には同一人物にしか見えない二人の画像を見比べさせられる。同じような問題が三回も続くと、ついにはルールが分からず諦念の気分になる。
「参りました。そのからくりを教えてください」
教授はにっこりと笑う。
「瞳孔だよ。お巡りさん達が好みだと言っていた方は、瞳孔が一回り大きく開いた写真なんだよ」
「ええ? どれどれ……」
君が声を上げる前に、若い方の警官が後ろからやって来て、パソコンのモニターの画面をじっと見つめる。しばらくして、人差し指と親指で隙間を作り、それを画像の眼の場所にかざして、ようやく言葉を続ける。
「本当ですね。一組目はA、二組目と三組目はBの方が確かに目がでかいです」
年長の方も、一緒になって画面を見て手品の種明かしを教えてもらった子供のように嬉しそうにしている。
「全然気づかなかったよ」と、年長の警官。
「それなら、どうして分かったんですか? 僕には全く意味不明な問題でしたよ」
君は、左右の肩越しに首を伸ばしている二人に訊ねる。
「何となく……だよ……なあ」と、一人が答える。
「その何となくが、感情から来る判断なのだよ」
教授は、君を見つめたまま続ける。
「感情というものは、脳の中で勝手に発生しているものではない、という事は理解できるかな? 体が外の環境から影響を受ける。すると、体には必ず何らかの反応がある。その反応が、神経や内分泌――ホルモンの事だが――他にも血液を通じて脳に伝えられる。その反応は脳の中に何かのイメージを作り上げる。イメージと言っても映像とは限らんよ。風景というか印象、と言った方が分かりやすいかもね。そのイメージとなったものを脳が評価している状態、これが感情だ。今話したことは、ほとんど無意識のプロセスで進行して、我々は最後に現れる感情だけに気づくから、理由もないのに心の中に勝手に生じたもののように見えるがね 」
「この美人かどうかの判定も、眼の変化が脳に伝わることによって生じる感情で判断できるということですか?」
「敷島君は頭が良いね。そう、君の眼に何かが映る。その時、眼に何らかの変化が起きる。網膜の神経細胞が活性化されるだけでなく、瞳孔の大きさ、レンズの厚みも変わる。それらの情報が脳に行き、イメージが提示される。そして、脳から全身に信号を送り、例えば顔が紅潮したり、心臓の鼓動が早くなったりする。その情報は再び脳に戻ってくる。そして、新しいイメージができる。こんなにドキドキするのだから美人じゃないかってね。さらに脳のイメージそのものも、脳内を回りまわって、イメージを再提示する。トラウマが、周囲の環境が何も変化していない時に起きることもあるようにね」
「つまり僕は、怒りや恐怖の感情イメージが脳の中で作られていない? しかし、美人を見分けるための感情など必要でしょうか?」
君は、口では不貞腐れたように装ってはいるが、内心自分が特別な人間だったのではなかろうか、という気持ちになっている。他の人は、もっと恐怖や怒りを感じているものなのか? あの父親は、感情をコントロールできない異常者なのではなかったのか? 父親だけではなく周囲の人間も感情を頼りに、それを亀甲占いのように信じて人生を生きているのか? だとしたら、そんな物に振り回されていて自分の主人公は自分だとどうして言えるだろうか? そう考える。
教授は、君に分かりやすく説明しようと、少し上を向いて沈思黙考する。君の疑問に対して丁寧に答えようとするかのように。
「美人を選ぶという意味では必要ないかもしれないね。でも、もし誰かが君を騙そうとするのを見抜いたり、凶悪犯に近づかないようにするために身体反応から生じる感情のサイン――ソマティックマーカーと呼ばれているが――平たく言うと直観だね、そのようなものに頼らないといけないとしたら?」
君はそれを聞いて考えこむ。そんな危険な人物を見た目や声、空気の振動だけで感知できるというのか?
「じゃあ、お巡りさんに聞きますけど、不審者に職務質問しますよね? あれってマニュアルがあって、こういう人に声をかけるって決まっているんじゃないですか? 感情に任せて声をかけたりしているんですか?」
君が不意に右を見て、年長の警官と目が合い、彼は少し驚く。
「あ……ああ。マニュアル通りに話を聞くことが多いけれども、遠くから見ていて何となく怪しいなっていう人にも声をかけるよ。経験と勘で」
「それは当たります? 声をかけたら必ず犯罪者だったりします?」
「そんな筈はないだろう。良く外れるよ。念の……ために声をかけるだけだ」
警官は歯切れが悪くなる。君は無言で教授の方へ向き直る。君と目が合うのを待って教授は話を再開する。
「感情による判断は不要だと言いたいのだね。分かるよ、君の考えが。敷島君は、常に論理的に考えてきた。二つの物を比較する時、常に頭の中をクリアにまとめてきたことで選択をしてきたと思う。それは正しい。ただし、イメージを頭の中に浮かべてなんとなくで物事を選ぶ、という方法は精度は低いが論理的組み立てで考える事に比べて判断スピードが圧倒的に速いんだ。精度は低いと言ったが、その欠点も経験によってある程度までは改善できる。お巡りさん達よりもっと年上のベテラン刑事さんなら、もっと正しく不審者を見つけ出すだろうね」
「僕って、感情の一部が欠けているから欠陥人間だと?」
「君は結論を急ぐ性質があるね。競技ビリヤードの道を選んだのも、球を撞いてすぐ結果が見えるからかな? 君の入院していた時の言動と、扁桃体か少し小さいという所見から推測した話だよ。異常ではない。只の温厚な性格だと言えるだろう。しかし、世の中の多くの温厚な性格の人は、怒りを感じていても表に出さない、もしくは後の結果を気にして表に出せないのだよ。怒りを脳内に浮かばせにくい君とは違う。それに、君は全く感情を認識できないという類の人間だとは思っていない。もし……そうなら、社会生活に破綻を来たしているはずだ。それほどまでに人間社会はリスクに満ちているし、感情は自分の人生を守る上で大切な物だからね。君は、その反応が少し弱いだけだよ。個性のうちだよ」
教授は笑い、君は安堵するがまだ聞けていない事があることをすぐに思い出す。
「それで、視覚装置をつけたことで、怒りっぽくなったという原因は何ですか?」
「私にも正確な事は分からない。これはまだ臨床試験中だからね。ただ、視覚装置が5G回線で受信機に情報を送り、それが後頭葉の視覚野を刺激するという信号の流れは、生体の眼が脳に情報を送るやり方とはかなり異なるんだよ」
「以前、手術前に先生が説明してくれましたよね。5Gの受信機と直結した後頭葉の一次視覚野が頭頂葉の体性運動感覚野や前頭葉の腹(ふく)内側(ないそく)皮質(ひしつ)にはいって、頭の中に画像が再構成されるって」
君は、医師に受けていた説明をメモに取り、何度も読み返していたので、頭の中を映像データが駆け巡るところを想像することもできる。
「ところが生体の網膜で受けた光は、一次視覚野に入る前に外側(がいそく)膝状体(しつじょうたい)というところにある視(し)床(しょう)という場所を通過する」
「人工視覚装置からの情報は、そこを通らないのですね。情報が早く通っていいじゃないですか」
「君は本来の眼をカメラと同じだと思っていないかな? 網膜に見えた風景をただ神経(ニュー)細胞(ロン)で電気信号に変換し、脳内を通過して、その電気信号のパターンを解釈して画像を再構成するような?」
君は少し混乱してくる。
「後半の話はよく理解できませんが、カメラのフィルムに相当するのが網膜ですよね? そこからニューロンが海底ケーブルみたいに伸びていて情報を送るんでしょ?」
考えながら後ろを振り向くと、若い方の警官は欠伸を堪えて目にうっすらと涙を浮かべている。それを判断するには左眼だけで十分で立体視は必要なかった。君は、右眼のスイッチを入れてもいいだろうと思い、瞼の上を押して電源を入れようとする。教授が早口で言う。
「ちょっと待って! そこから左眼だけであれを見て。あれ、ぱっと見て何に見える?」
教授は自分が座っている席の後ろの本棚にある黒い毛の塊を指差す。君はよく目を凝らして左眼の焦点を合わせる。
「黒いぬいぐるみ……」
「何の?」
「猫……ですかね」
「それならば、もう少し近づいて見てみたまえ」
君は中央の椅子から立ち上がり、二三歩近寄る。よく見ると、猫のようではあるが、口が大きく開き、小さな牙を模したものがその中に見える。全身が黒に見えていたが、胸の下の部分が白い。耳は、猫にしては少し尖っている。
「あれ? 猫だと思っていましたが、これ、見たことない動物ですね。犬……、いや、イタチ?」
君はそれを手に取って見つめる。
「これは何かのキャラクターですか? それとも実在の動物?」
「それは、タスマニアデビルのぬいぐるみだよ。秘書さんがオーストラリアに旅行した時に買ってきてくれたんだよ。可愛いだろう?」
「まあ、これとそっくりな動物が実在するならオーストラリアに行ってみたい気もします。その国の動物なんですか?」
教授は、静かに頷く。
「ところで、君は最初猫と見間違えたよね?」
「ええ、その何とかデビルという動物を知らなかったものですから」
「では、どうして猫だと思った? 他にも黒い動物はいるだろうに」
教授の質問はシンプルだが、君は慎重に答えを探す。
「形や大きさが猫に似ているから……ですかね? 僕が猫を好きだから、というのは理由にならないですよね? そう言えば、この前トライアッドでお腹を空かせていた猫にミルクをあげたんですが、その猫が黒猫で一見したところ、そのぬいぐるみと似ていた……では理由にならないですよね……」
さらに思考を重ねようとする君に、教授は目を輝かせて口を挟む。
「理由になるよ! 君は目をカメラだと思っている。もし、眼がカメラなら、そのような見間違いが生じるだろうか?」
君は頭(かぶり)を振る。
「起きないですね。人間は不完全な機械だからですか?」
「そのような見方もできるが、そもそもコンピューターの画像処理と人間の脳が情報を処理するやり方は違うのだよ。君の左眼が物を見る時、見た情報をまずは視床に送る。ところが、一次視覚野からも視床に沢山の情報が送られてくるのだよ。網膜から視床に来るより沢山」
「視床から一次視覚野に流れるのではなくて?」
「そう、逆向きの流れ」
「その情報はどこから? 左眼の見た光景が他のルートを通っているとでも?」
「もちろんそれもあるかもしれない。身体信号が巡り巡っている話はさっきしたよね。だが、それよりも大事なのは、君は網膜で捉えた物全てを処理しているのではなくて、一次視覚野が『だいたいこのような絵が見えるだろうね』と頭の中で予想した画像を視床に送っているんだ。その画像をどうやって作ったかというと、以前の君の経験――黒猫に餌をやった――に基づいていたり、願望――猫だったらいいのに――を基にしている。勿論、身体反応から生じた感情もそれに関与しているだろう」
「つまり、僕が見ている左眼からの画像は、全てが左眼からの情報ではなくて、先に後頭葉から提示された予想図に少し修正をかけて、後頭葉に差し戻して……いる?」
「敷島君は察しがいいね。そう、さっきの例で言うと、後頭葉は『黒い毛玉らしいものがある』という情報を得て、とりあえず『猫』と予想したのだよ。君の過去の経験や願望を元にね」
「先生、ちょっと待ってください。では、人工視覚装置が視床を刺激しないで直接後頭葉を刺激しているとなると……」
「そうだね。後頭葉から視床への逆向きの情報の提示がなくなってしまうか無駄になるね。予想が何の意味もなさない。恐らく人工視覚装置を使ってから、君が見間違いをする頻度は減っていると思うよ」
「あの、それと僕が映像で怒りを感じることと何か関係がありますか?」
君は、なかなか知りたい核心に到達しないので少し焦りや苛立ちを持っていることに気づく。これも人工視覚の影響なのか? いや、あの激情は幻覚を見た時だけ。小さな苛立ちくらいは以前からもあったに違いないと思い直す。
「直接の関係は不明だ。ただ、君がインプットした情報の脳内での流れ方が変化したことで、ニューロンの発火パターンも変化して、それが脳内の風景の見え方が変わる、つまり特定の感情が惹起される、という可能性はある」
「先生、どういう意味でしょうか?」
君は、抽象的な話に音を上げそうになる。
「敷島君のような一般の人は、脳のある部分が発火したら怒りを感じる、と誤解するかもしれないね。確かに扁桃体のように、特定の感情に関わりやすいキーマンはある。しかし、扁桃体だけで怒りの感情が生じたり、それを意識するわけではない。脳の複数の部位でニューロンが発火して、その発火の仕方で感情が生じるのだよ。『あれ』と『これ』と『それ』の三か所が発火したら喜びだというようにね。絵画で例えると、オレンジの丸い玉だけでは何も現わさないが、茶色のべた塗りと組み合わせると『日の出』として力強い印象を盛ったりするようにね。今までと違うニューロンが刺激され、異なる電気の流れが生じることで、今まではうっすらとした感情しか認識できなかったのが、激しく反応してしまうようになったのかもしれない」
それを聞いても理解できたような気にはなれなかったが、人工視覚装置が君の感情に影響を及ぼし得ることだけは理解する。少し安堵したところで、もう一つだけ確認しておきたい事を思い出す。
「先生、それと僕の後頭葉の受信機にディープフェイク画像を送ることは可能ですか? 例えば、僕の敵がこの前の、お爺さんが階段から転ぶシーンに、眼鏡の詐欺師が突き落そうとする仕草に見えるシーンをコラージュして、あたかも詐欺師が老人を突き落とすように見せかける動画を僕の後頭葉に送り込めば、僕はその偽の映像を見ることになりますよね?」
教授は君の話をじっと聞いて「ディープフェイクか……」と呟き、しばらくの間黙り込む。やがて、小さく首を横に振る。
「理論的にはあり得る。だが、実際的じゃない。お爺さんが落ちた瞬間と、君が暴力を振るった時間はほぼ同じだと聞いているよ。その短時間に、いくらAIを使ってディープフェイク動画を作ったとしても、きわめて短時間で動画を編集し、それを君の後頭葉に送信しなければならない。非常に難しいよ。それに、そうする動機は? その目的は?」
「現に、僕はこうして捕まっているじゃありませんか。もっとも、僕を逮捕させたいと思う人間に心当たりはありませんが」
「君のこの画像をみせると、怒りが爆発して警察沙汰になるって? そんなニューロンの発火パターンとその結果生じる感情まで先読みできるAIなんてあるかねえ。それに受信機にはパスコードがある。さっきのテストで、私とお巡りさん二人にはそれが知られたから、後で変えておくのだよ。パスコードを破って受信機にアクセスできるのは5Gシステムの管理者だけだよ。君が誰かにコードを洩らしたりしていなければ、不可能だ」
君は自分の仮説が否定されたことに失望するが、感情が変化した理由が分かっただけでも、この来訪は無駄ではなかったと考える。あの映像はやはり妄想なのか? 左右の眼でじっと教授を見つめる。彼は、パソコンに左右一本ずつの人差し指で不器用にタイプしながら告げるだろう。
「さあ、熊谷のクリニックが君の住所から近いかな? 紹介状は出来上がったよ」