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うにっき帳 vol.48|自分史編|伝説の伯父さん(7)


はじめに

こんにちは。吉村うにうにです。「うにっき帳」のvol.48を掲載します。
「うにっき帳」は日記と銘打っていますが、①日記編 ②語彙増量編 ③自分史編の三部のいずれかを取り上げます。

今回は、自分史編です。「伝説の伯父さん」の続きです。前回読んでいらっしゃらない方、(1)~(6)はこちらです。

では、始めます

ちなみに、本文は常体で書いております。また、日付は自分史編では、エピソードが生じたと思われる日です。

   恐らく一九八二年 伝説の伯父さん(7)


 オットセイとは離婚していなかった。ただ、何も言わず突然出て行ったらしい。これは、長男と長女に傷を残しただろう。特に伯父は長女を溺愛していて、大きくなるまで自分の膝にのせて食事をしていた。その伯父が突然いなくなるのは子どもにはつらい経験だったと思う。

 そのオットセイ一家に祖父母は毎月二十万円の仕送りをしていた。というのは、祖父母の考えによると、出て行った当時は別居中という形なので、婚姻費用を払っていないと、今後の離婚裁判で伯父が不利になる恐れがあるという事で生活費を送り続けたらしい。親心と言えば、それまでだが、そういった行為が、伯父をスポイルしていたように思う。

 母はその事にずっと怒っていた。 その母の怒りに拍車をかけたのが、祖父の発言だった。
「母子三人で暮らすには、月二十万は必要だ」そうこぼしたのである。

彼女は診療所で働き、受付から調剤、会計、そしてレセプトと呼ばれる診療報酬明細書の作成を一手に引き受けていた。その母の給与が交通費なし(当時明石市や神戸市の自宅から診療所のある加古川市へ電車通勤)の月十二万円で同じ母子三人暮らしだった。それなのに働いてもいないオットセイが、夫が負担すべき生活費を祖父母から二十万も受け取っている。それが許せなかったらしい。

 当時、私はなぜ母が伯父や祖父母に不満を持っていたにも関わらず、あの一家から距離を置かなかったのかが、疑問だった。今、記憶を辿りながらこうして考えてみると、絡まった見え辛い糸が少しは解けてくるのを感じる。
                  (つづく)

さいごに

今回も自分史で、伯父さんの話を書きました。母は、自分では面倒見が良いからみんなを見捨てられないと言って、色々な問題に首を突っ込んでは怒っていましたが、空回りしていたのでは? とも思います。でも、当時は母のそんな姿を立派だと思い込んでいました。

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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