都市と激情 第七話
第七話
君は殺していた息を解放するように全力で吐き切って、大きく吸い込む。凜のマンションのピンクの鉄製ドアの前でしゃがみ込んで呼吸を整える。怒りの感情と共に、長らく感じてなかった恐怖を味わっていたことに気がつく。なぜ恐怖を感じていたのか、君は内省してみる。捕まったら、二度続けて逮捕されるから? 警備員を恐れているから? 凜が怯えた声で警告したから? 君は自分で編み出したいずれの理論もすぐに否定し、映像による脳への影響が残っているからだと自分を納得させようとする。
恐怖が去っても、教室の光景を思い出すと、君は再び苛立ちを感じる。あの映像の中の少年は隼人に似ていた様な気にもなっている。だが、結局なぜ自分が起こっているのか、脳に映像が影響を及ぼしているという教授の説明以外に納得できる理由がない。君は父親への憎しみが想像以上に大きかったことに困惑しながら、それを忘れようと、さっき凜が舐めた指を見て気を紛らわせようとする。すると、別の緊張に似たような感情が芽生え、押さえられないような気がしてくる。
その時、ガチャと玄関のドアが開き、凜が顔を出す。
「入っていいよ。でも、少し片づけたけど……、まだ散らかっていて……、ごめんね。来ると分かっていたら…… 」
君は、その言葉を待たずに、玄関に入る。そこは、何人もの人間がルームシェアをしているみたいに、藁で編んだように見えるサンダル、金色や黒のパンプス、白や黄色のスニーカーが散乱している。君のために開けられたわずかなスペースに足を踏み入れると、玄関から部屋の中に招き入れようとする彼女の手を引き止め、縦長の姿見用の鏡に彼女の体を押しつけるだろう。
「ヒ、ヒロ君? 落ち着いて……」
父親に言われた同じ言葉に反応し、君は自分の人差し指を彼女の口へ持っていく。すぐに彼女の顔は上気して、ためらうことなくそれを口に含む。その指で、彼女の下唇と顎を軽く押さえて口を開かせると、君は唇を彼女の唇に押し付け、舌を絡める。
「ん……ん、ちょっと……ちょっと待って……、キスはちゃんと付き合ってから……」
凜は指を含んだままキスの合間に息も絶え絶えに口にするが、その言葉に君を抑え込めるような力をもはや感じない。君は自分の苛立ちの眼差しを鏡越しに確認しながら、黙って頷き、唇で、彼女の上下の唇、舌を味わい尽くしてから、ニットについているマフラーの結び目を解(ほど)く。
「ヒロ君、散らかっているけどベッドに行きましょ」
君は靴を脱ぎ、凜に手を引かれながらワンルームマンションの台所を通り抜け、ベッドがある部屋へと入る。そこは、未開封の買い物袋や書類の入った段ボールが置いてあり、それらを踏まないよう、彼女が一瞬前に歩いた空想上の足跡を丁寧に辿って、同じ場所にそっと足を下ろしながら歩く。ベッドの上には、寝る場所をたった今作ったかのように、シーツがぐしゃぐしゃに丸められて枕元に寄せてあり、足元には洗濯前か後か分からない女性の下着類やパジャマが押し退けられている。
君は、先にベッドに入った彼女の柔らかいニットを後から引っ張って脱がせると、自分の方を向かせ教室の中でから気になっていた胸元に顔をうずめる。それを堪能してから、ブラジャーの後ろのホックを探していると、彼女は予想だにしない言葉を口にする。
「右眼を外して……。貸して欲しいの……。お願い……」
君はその申し出に戸惑うが、背中に回した手を自分の眼窩に差し込み、弾力のある視覚装置を取り出す。左眼と視野が異なり、気持ち悪くなるので、君は装置のスイッチを切ろうとするが、凜は、
「止(と)めないで……、左眼を瞑って」
と、恥ずかしそうに笑う。君は取り出した眼球からの視覚情報が激しく揺れて酔ってしまわないように、両手で右眼球を覆って真っ暗にした状態で、そろりそろりと腕を伸ばし、彼女に渡す。
「ありがとう」
彼女もまた、両手で籠を作って右眼球を受け取り、腕を縮める代わりに素足でベッド上の下着を落としてスペースを作り、ベッドサイドに屈んでいる君を目で招き寄せるだろう。君は彼女と密着するような姿勢になり、左眼を閉じたままでいるので何も見えていない。ただ、右眼からの情報で、暗闇の中でも彼女の手の微かな振動が揺れとして伝わってきて、落ち着かない気分になる。
「一度これをしてみたかったの。ヒロ君、素敵……」
凜は両手のカゴをそっと開くと、右眼を摘まんでゆっくりゆっくりと揺らさないように、それを自分の唇に持っていく。君は巨大な舌が目を覆う映像にグロテスクさを感じる。
「この機械には、痛覚や触角は無いのよね?」
彼女はそう言いながら、片手で摘まんだ眼球を唇に含み、もう片方の手で君のぽっかりと空いた眼球の指定席に、指をそうっと差し込んでみるだろう。
「片目の無いヒロ君って素敵……。ヒロ君はどう?」
君は、目の前で繰り広げられる巨大な赤い肉の抱擁にいささか辟易とする。凜が眼窩に差し込んだ優しい指先と相成って、生身の眼球を舐められているような錯覚に陥る。その錯覚は悪くはないが、視界の揺れに酔いが回ってくる。だが、君は「気持ちいいよ」と、嘘をつく。興奮している凜に気遣い、自分の気分の高ぶりも鎮めたくなかったのだ。嘘とついたのはいつぶりかと考えていると、凜は、君が彼女の趣味に付き合ってくれたことに満足したのか、自分のブラジャーのホックを外し、胸の先端にある敏感な部分を君の口元へと押し付ける……。
下に落ちたピンクのシーツ。隣には胎児のように体を丸めて眠る凜。君は横になったまま、彼女の背中に驚くほど浮かび上がっている脊椎や骨盤からはみ出ている腸骨をそっと撫でる。手探りで拾い上げたシーツを彼女に被せる。その横顔は、満足して疲れ切ったあどけない子どものように、小さく口を開けてスース―と寝息を立てている。
夜の帳が下りて、君は凜からも散らかった部屋からも切り離されて一人になっていると自覚する。夕方、君を支配していた熱情、熱情を引き起こした怒りの感情はもはや消え去り、ただの倦怠感とぼんやりした思考だけが残っている……。
君は骨の構造以外には無関心であるかのように、背中を向けている彼女の鎖骨を骨のラインに沿って触る。彼女は、びくっと体を震わせ、しばらくぼんやりと動かないでいたが、やがて体を反転させて君の方を向き薄く目を開ける。
「少し寝ちゃった……」
彼女は、恥ずかしそうに笑って、君の顔を覗き込む。その時初めて君は、右眼が失われたままでいる事に気づくだろう。
「えへへ……。これなあんだ?」
彼女は、シーツの中から手を出して茶色の瞳が描かれた人工視覚装置の球を取り出す。
「酔っちゃうと思ってスイッチは切っておいたの。強く長押しすればいいんでしょ?」
彼女は、軽くそれにキスをしてから君に返す。慣れた手つきで眼窩に嵌めてスイッチを入れる。数秒で、暗闇の中でも凜の顔に奥行きができて、安心する。彼女は、君の顔をじっと覗き込み、少し落胆した様に呟く。
「なあんだ。また感情が消えちゃって、元のヒロ君に戻っちゃったね……」
「感情がないんじゃないよ。穏やかなだけだよ」
君は、映像とその映像による記憶が頭の中をループしている時だけ感情が高ぶるという仮説を説明する。
「ふうん、映像で怒ったから、あたしが欲しくなったんだ。ふうん……」
君は黙っている。すると、
「いいの、気にしないで。時々怒っているヒロ君が見られたらそれでいいの……。いつも怒っていればDV彼氏になっちゃうもんね。クールで知的なヒロ君がベースで全然いいんだから」
凜は、笑顔を作る。
「ねえ、もしかして右眼を舐めてもあんまり良くなかった?」
君は黙ったまま、彼女の顔を見る。
「そう……。ヒロ君は幻覚じゃないと燃えないのね……」
彼女は、うんうんと一人合点がいったように頷く。
「幻覚……ねえ。いや、風景は実際にあった所だし、誰かが僕に動画を造って送ってきたんだよ」
君は、彼女の膝蓋骨に手をやりながら話す。
「誰か……って。お父さん……とか?」
「いや、僕の頭の受信機のパスコードを突破できる人だ。例えば、市長や、国の権力者や……」
「ハッカーかもよ」
凜は、撫でていた君の手を取って、その指を愛おしそうに唇に当てる。
「さっき、教室にいた時、変なメールが来たんだ」
君はメールの内容を、彼女に説明する。指先に濡れた感触があるが、もう何の感慨も生じないことに気づく。
「ふうん……。あたし達がそこにいるのを知っている人間よね。しかも、そんなに監視してたのなら、あたし達を捕まえるのは簡単だったのにね。その人ってヒロ君の友だちか何か?」
彼女は、そう言いながら、君の指を胸、太腿へと導いて触らせようとする。君は、指を義務感に駆られて動かしながら返事をする。
「友達……と言われても、そんな権力者やハッカーに知り合いはいないし……。ねえ凛、『オッカムの剃刀』の法則知っているかい?」
「オッカム? 誰? ヒロ君が名前を出してくるくらいの人だから……、心理学者?」
凜は、とろんとした目で気怠そうに訊ねる。
「いや、イングランドにいた哲学者なんだけど、その人が言うには、物事を説明する時には、多くの原因があると考えるよりも、原因を少なくシンプルだと考えたほうが正しいことが多いっていう話なんだ」
「それとメールが関係あるの?」
「僕の脳に動画が何度も送られてくる事と、メールが突然スマホに送られてきた事は、同じ原因じゃないかと思うんだ」
「ふう……ん。じゃあ、逃がしてくれたという事は、その人はヒロ君の事を、好きなの……かもね」
凜はとろんとした目に少しだけ嫉妬の色を込める。君は、彼女の嫉妬に慣れているので、触れている指先に少し力を入れて、彼女の機嫌を取ろうとする。
「敵ではないと思うけど……。僕を怒らせてどうするつもりなんだろう?」
「怒らせて……、あたし好みのヒロ君にしてくれているのかも。それとも……、ビリヤード以外の事で何か行動して欲しいのかもよ」
「行動? 何を行動して欲しいんだろう?」
「分からない……。でも、ほら、幽霊が供養して欲しくて、地縛霊として姿を現すようなもんじゃないの? ヒロ君の、……オッカムさんの話だと、その人、ヒロ君に鳥の鳴き声聞かせているし、……犯人は鳥じゃない?」
凜は笑うが、君は笑わず怪訝そうに訊ねる。
「鳥の鳴き声? 何の事?」
「覚えてないの? ムクドリ除けの、あのうるさい装置。ヒロ君が近づいた途端にウグイスの声に変ったじゃない」
「偶然だろ? 時間を知らせたんじゃないの?」
「あたし、あそこをよく通るけど、ウグイスの声なんて初めてよ。歓迎されてるんじゃない? その誰か偉い人に」
「でも、人は何か目的を持って僕に働きかけをしているとしても、一体何を行動させようと……」
「ねえ、話が迷子になっちゃうよ。そろそろ、あたしがヒロ君に行動して欲しい事を察してよ」
凜はとろんとした目のまま、君の指を取り、自分の太腿の間に挟み込む。君は、面倒臭そうに、片手で凜を抱き寄せ、温もりに挟まれた指を、凛の行いに任せることにする……。
カーテンから漏れて射し込んでくる黄色の光。外から聞こえてくる犬の鳴き声。
君は、疲労と凜の要望で練習も帰宅も叶わなかった事を後悔しながら、上半身をベッドの中で起こす。
枕元には、ちらしの裏に雑に書かれた文字と、持ち手が赤で先端が鈍(にび)色(いろ)の鍵。チラシに目を通すと、君は凜が仕事に行くために先に出かけて行った事を理解するだろう。ちらしの指示に従って、君は重い体を引き摺り、ユニットバスへ向かう。ドアを開けると、プラスチックの扉の縁には赤い黴が模様のようになっていて、扉が乗っているレールの中には黒い黴と埃が溜まっている。
バスルームの鏡の自分を見て、昨日一日で痩せてしまったように思うだろう。鏡の前にある、やはり赤黴の染みがあるコップ。その中に立てられてある歯ブラシやT字カミソリ、眉毛用のカミソリ、ヘアゴムに混ざって、ちらしの指示通りにビニールの封がされた新品の歯ブラシを見つける。封を破って傍にあるゴミ箱の山盛りになっている抜け毛の束にそっとゴミを乗せる。歯ブラシを水で濡らし、疲労が抜けないまま、機械的に歯を擦る。ひたすら擦りながら、君は虚空を見つめ、練習にいつ行こうかとぼんやり考える。警察にはこちらから連絡する必要はないが、弁護士には電話を入れたほうがいい。精神科の予約は取っていないが、もう一度訪問して、自分の身にあの後起きた出来事を説明しよう。君はそんな泡のように次々と浮かぶ考えを処理している。
お腹が空いて、少しいらいらしていることにも気づく。彼女の手紙には、何も食べる物を用意していなくてごめんと書いてあった。君は、凛の汚い文字を思い起こしながら、近くに食べ物屋がないか逡巡する。ぼんやりと鏡の左脇にある緑の浴槽を見つめる。何日も、いや何週間も洗っていないのか、やはりその周囲の壁にも赤黴が見えて、君は不愉快に思うだろう。
汚(きたね)え風呂場だよな。昨日の凜が着こなしていたニットのセーター、ジーンズの清潔さを思い起こし、バスルームとのギャップに戸惑いを感じる。無意識のうちに歯を磨いていたので、君は舌で奥歯の近辺にザラザラした磨き残しを感じて、歯ブラシを口の奥へと差し込む。そうしながら、嫌悪すべき対象を見つめるように浴室の壁の赤い黴から目を離さないでいる。いや、正確には赤い黴が君を捉えてそこに視線を縛りつけている。
魅入られたようにそれを見つめていると、赤い黴――よく右眼を凝らすと濃いピンク色――はその赤みを段々と増していき、やがて真っ赤な色彩を帯び始める。それはどこかで見た色のようだと考えるうちに、黴の大きさはみるみるうちに拡大し、やがて大きな一枚のシートのような四辺形になる。色もさらに変化し不均一な染みから統一された濃い赤に変わり、君は嫌な予感に包まれる。まさか、と君が予想した通りに、続いて薄い緑のバスタブの色も少しずつ濃厚な色へと変色していき、やがて統一された原色の緑色へと変わってくだろう。形も、バスタブの厚みがあって中に窪みのある形が崩れていき、やがて平板な四辺形を形成するようになる。
赤と緑の四辺形のシート。それは君が見覚えのある――あの公園でホームレスが作っていた――シートが目の前に現れるだろう。君は、無駄だと予想しながらも、右眼球を瞼の上から長押しし、スイッチを切って左眼だけでバスルームから鏡の方向に顔を向け、自分を落ち着かせようとする。だが、鏡は見えず目に入るのは赤と緑の簡易テントだけだ。
覚悟を決めて、君はその映像を見届けようと考える。手探りでバスタブの淵の位置を確認し、そこに腰かけて、両眼を瞑って下を向く。テントの映像以外は何も見えず、何の感情も引き起こされていない。蛇口からポタッポタっと滴が落ちる音が気になって映像に集中できないので、君は手を伸ばして、蛇口の栓を探し、強く捻って水を止める。するとテントの画像は引きの光景をもたらし、テントから伸びたビニール紐、それが結わえられた灌木が見えてくる。
テントの入り口の赤いシートが開いて、誰かが出てくる。君が以前に会った、赤褐色の肌のホームレス。前よりも白い髭は伸び、前も着ていたカーキ色のジャンパーには、汚れが前よりも目立っているように見える。彼は、両手を高く伸ばして大きな欠伸をし、テントの向こう側へと消え去る。映像がこれで終わるかもと淡い期待を抱いた君は、男が大きなリアカーを引いて戻ってきた事に再び緊張した気分で画像に向き合う。これから何が始まる? ただの仕事ではないのか? 君の頭の中では、これまでのパターンであれば必ず生じる事件とそれによる感情の揺れを予期して不安になる。だが、この事件が起こるほど、君は動画の送信者へと近づけるような気もしている。もし事件が起こったら、すぐに現場に駆けつけてやる。いや、起こる前に行った方がいいのでは? そう考えると、君はバスルームに腰かけるのを止め、部屋の中に散乱する紙袋を誤って踏み潰しながら、自分が昨日脱いだシャツやズボンを探し始めるだろう。
君は服を着替え、やはりゴミの山を踏みつけたり、ローテーブルの角に脛をぶつけたりしながら玄関に辿り着き、数々の靴を踏んで足裏で確認しながら、ようやく君の足のサイズにピッタリのスニーカーを履き、玄関を出る。何秒か何分かに一度、元の風景であるコンクリートのマンションの廊下が見えるものの、すぐに公園のテントの映像に切り替わる。テントの映像の時間が長く、君はマンションの廊下を一人で歩くことにストレスを感じるだろう。それでも、いつか迷路の脱出法について学んだことを思い出し、左手を壁に触ったまま段差やつまずきの元になる物がないか、爪先を慎重に動かしながら、ゆっくりと確実に歩く。廊下の端に着いた君は、手探りでエレベーターのボタンを出鱈目に押し、ガコンという音と共に、その鉄の箱に飛び込んで、ふうとため息をつく。
一瞬だけ、公園の映像からエレベーター内のそれに切り替わった時、君は自分が一階に着いたことを自覚する。ここから工業団地にある公園まで行くには、LRTを乗って行かなければならない。十分ほど歩いて学校近くからそれに乗り、工業団地前で降りて、さらに十五分程歩かねばならない。いつ、目の前に風景が見える状態が戻るか分からない。今までのパターンで行くと、何かしらの事件が起きて、自分がそれに介入しなければ、この映像は解除されない。君はそう考える。となると、タクシーで数キロ走って、直接公園に行った方がいい。君は、ポケットの財布を探り、札が三枚入っている事を確認する。それ以外にスマホの中の電子マネーの額を思い出し、タクシーに無賃乗車しないで済みそうだと考える。
相変わらず、ホームレスは何もトラブルを起こさず、タオルを取り出している。それで誰かの首を絞めるのか? いや違う。君は、男の行動が気になって仕方がないが、自分の感情を冷静に確認することも怠らず、緊張はしているが怒ってはいないと自分に言い聞かせる。タクシーを呼ぶために、ブルゾンに入っていたスマホを取り出す。これまでの教訓から、音声入力装置をオンしてあるスマホに向かい、
「タクシー配車アプリ起動。タクシー一台、現在地へ」
と、大きな声で告げる。だが、スマホからは何の応答もない。君は、画面を見ようとホームレスの画像が終わるのを待つが、見えているのは褐色の男が水道で頭を洗う映像で、それが延々と続くので、君は早々にそれを諦める。凜に電話をして助けを求めようか? いや、仕事中だし彼女を君のトラブルに巻き込むことになると、その考えを消し去る。とにかく外へ出ようと、コンクリートのざらざらした感触を味わいながら手探りで歩くと、マンションの外へ出たらしい、急に周囲の音が建物内のくぐもった反響から、さわやかに大気を突き抜けるそれに変化したのが分かる。君は、周囲に自転車や歩行者、車の音がないか慎重に確認する。そうしていると、近くから「ホーホケキョ」という優しい人工音が聞こえるだろう。
「凜の嘘つき……」
君はそう呟きながら、その優しい音の方へとゆっくりと歩きだす。そこで通りがかりの人に助けを求めようと計画する。
硬い樹皮の感触が手に伝わって、ホトトギスの声が無くなった瞬間、突然遠くから「ブオー」という車の小さなエンジン音が聞こえて、君はびくっとしてそこから動けなくなる。エンジン音は近づき、大きな車が近づいてくるときに感じる風を浴びせて、君の前で静かな心地良い音に変わる。
君は、ドアの開く音と共に誰かが降りてくる音を聞く。一瞬だけ、ホームレスの映像が途切れ、君はつばつき帽子を被った男の姿を見て、警察官だと思う。すぐにホームレスが缶を潰す作業をしている映像に戻り、そのホームレスが、似合わない話し方で君を幻惑させてくる。
「お待たせ致しました。『トライアッド交通』です」
君は、それがタクシーだと理解するが、先ほどの音声入力が上手くいったとは思えないので不安に思う。
「え……と。予約ちゃんと伝わりました? スマホから反応が無くて……」
男は、君の腕を取って静かにこう告げる。
「はい、承っております。敷島様でよろしかったでしょうか?」
君は、黙って頷く。
「では、こちらへどうぞ」
「今、ちょっと目が……」
「ほとんど見えてらっしゃらないということですね。大丈夫です。全て、承っておりますから……。そうそう、そこから足を上げて頂ければ……」
君はタクシーに乗って行き先を告げ、目を閉じる。
赤褐色の男が缶を踏んでいると、周囲に人だかりができてくる。何か始まるな、君はそう思って意識を映像に集中する。濃紺のジャンパーを着た何人かの男が、ホームレスを囲んでいる。そのうちの一人は、眼鏡をかけていて、君が以前会ったあの時のまちづくり整備課の人間だ。また、あの人を公園から排除しようとしているんだ、そう君は考えるだろう。公園課の眼鏡の男は、他の同じジャンパーを着た男達にあれこれと指示を出している。その口が開くと、運転手の声が聞こえてくる。
「お客さん。具合悪そうですが、大丈夫ですか? 公園はもうすぐですが……」
君は、その時初めて緊張して手に汗をかいていることに気づく。それと同時に、疑問も湧いてくる。
「あの、僕の眼が見えていないって、どうして知っているんです?」
眼鏡をかけた職員が、詰め寄るホームレスに強い調子でまくし立てる。その声は穏やかに、
「いや、配車アプリの備考欄に書いてありましたけど……」
怒った顔とミスマッチの台詞を告げる。
君はそこで、自分以外の何者かが、配車アプリを使用してタクシーを送って寄越したのだと推論する。映像、逃走を促すメール、配車、ホトトギスだけは偶然かも知れないが、これらのAIが必要になるような操作を含む手配ができるのは誰なんだ? そう考えているうちに、映像がいったん消え、タクシーの車内の狭い空間が見える。君が座っている後部座席から見えるフロントガラスの上方に映っているヘッドアップディスプレイ。そこには、
『到着まで残り3分15秒 現在の料金2100円』
と、表記されている。君は隣の窓から、空に流れる雲を眺めて気分を鎮めようとする。大きく息を吸い、このまま映像が終わるはずがないと腹を括り、流れる雲と工場の煙突から出る煙が交差したのを見て、目を瞑る。
数秒経つと、工事現場が現れて君は驚く。さっきと違う風景だと思うだろう。よく観察すると、工事現場にありがちな伸縮自在のアコーデオン型の門扉があり、他に工事現場を思わせるような物はない。門扉の一部に隙間があり、その前には濃紺のトライアッドのロゴ入りジャンパーを着た二三人の職員と、白髪の伸びた男性ホームレスらしき男性と、ぼさぼさ頭の老婆がいる。彼女もまたホームレスだろうと君は考える。アコーディオンゲートの隙間から警官が何名か出て来る。君に背中を向けたまま、手前にやって来る警官は薄い青のシャツに紺色のベストを着ている。彼は背中を丸めたまま、足を引き摺るように、後ずさりしている。二三の同じ格好をした警官は背中を向けている警官と一緒に、何か重い物を持つように手を下に降ろしたまま、顔を下に向けたり、時おり前を向いて君と目を合わせるような方向を見たりしている。大勢で何かを運んでいるんだ。君はそう判断すると、警官たちが囲んだ中から一本の褐色の手が見える。あのホームレスだ、と君は確信する。
背中を向けていた警官がくるっと君の方を向いた途端、持っていた手を大きく振り、それと同時に褐色の男は、歩道に投げ出される。君はそれを見て、烈火の如く怒り、声を荒げる。
「まだ着かないですか!」
ホームレスを捨てた警官は、嘲りの表情を浮かべ、
「もうすぐそこですよ。すみませんねえ、時間がかかっちゃって」
と、媚びるようなサービス業特有の声を出す。
「い、いや。急がせているつもりではないので……」
君は、自制しなければと自分に言い聞かせる。市の職員だけがアコーディオンゲートの向こう側へと走り抜けると、それは完全に閉じられ、三人のホームレスは皆、君に背中を向けて職員の後を追いかけようとする。その前には、ホームレスを投げ捨てた警官らが立ちはだかる。顔を歪めて、同じ空気を吸いたくないと言わんばかりに、ホームレス達の顔から目を逸らし、両手を後ろで組んで、何としてもゲートの中には入れさせまいとしている。
君はその警官の態度を見て義憤を感じる。一刻も早くタクシーが着かないかと焦りも感じ、財布を手探りで取り出しつつ、心を平静に保とうと、深呼吸をするが、国家権力を執行している傲慢な立ち姿を見ると、怒りの炎は大きくなるばかりだ。
「お待たせして申し訳ありません。今着きましたが、警察の方がいて、その公園で何か騒動になっているみたいですが、お客さん、どうします?」
タクシーが停止した途端に、映像が消え、君を不安そうに振り返って見ている運転手の白っぽい顔が目に入る。君は黙ったまま、タクシーの窓から外を見つめる。予想通り、白銀色の金属が網状になっているアコーディオンゲート。それは公園の左右に立っていた左右の柱にぴったりとつくように設置されている。その前には警官数名と、ホームレスが三名。君は国家の暴力を目の当たりにして、怒りに震える。
「お、降ります!」
自分でも思わぬ大きな声を出し、それから声に抑制をかけながら告げる。
「ええと、二千七百四十円ですか? トライアッドの住民票があります……」
君は、スマホの画面を開いて、割引の資格を示すため電子住民票を呈示しようとする。運転手は、周囲の警官達を落ち着きなく見回してから、君の方を振り返る。
「本当に大丈夫ですか? ホームレスのような人と何やら揉めていますよ。お金は結構です。すでに、電子決済で頂いていますので……」
君は怪訝に思うも、運転手に礼を述べると、開いたドアから足を伸ばす。
タクシーが走り去った後、君はその歩道に立って騒乱の方向を眺め、誰かが、ここへ導いてきたんだ。しかし、その意図に従うことは正しいのか? と、迷いながら公園の入り口に近づく。
ゲート前にいた背筋をピンと張った警官達の一人と目が合う。彼は隣の警官に肘で突かれて、君の方に向かって、姿勢を正したまま歩いてくる。タクシーを降りて歩き出した君と、ゲートの十メートルほど手前で、その若い警官は立ち止まり、君に通告する。
「すみません、公園へは入れません。向こうに行くなら、あちらの歩道を使ってください」
彼は、生真面目に口を真一文字に結び、細い目で君を見据える。眉は整えられているが、不格好で、田舎から出てきたばかりのような雰囲気を醸し出している。
「まさか、ホームレスを退去させようとしているのではないでしょうね」
「あなた、支援団体の人ですか?」
君は黙って彼を睨む。警官は、警戒しているのか顔を硬直させるが、すぐに自分一人では対処できないと感じたらしく、仲間の所まで戻って行く。君は、彼のすぐ後を追うように小走りで移動し、赤褐色のホームレスを見つけると、
「おじさん。怪我しなかったですか? さっき警官に引き摺られてましたよね?」
と、声をかける。彼は最初、振り返って猜疑心を持った目で君を見つめていたが、しばらくすると顔をほころばせ、
「おお、いつぞやの兄ちゃん。聞いてくれよお。あいつらが俺の家を壊すらしいんだ。壊してトラックで持って行っちまうんだ」
と、公園の奥を、それから近くのトラックを次々と指差し、むっとする臭気と共に無念さを君に吐き出す。君は頷きながら、近くの歩道に寄せて停まっているトラックに目をやる。トラックは、ハザードランプを点滅させ、荷台の観音開きのドアを開けたままにしている。
「兄ちゃん。俺の荷物を取り戻してくれよ。今日の分の缶が、まだ沢山あるんだよ。リアカーだって貴重だしよお。お、あと、ラジオもコンロもあん中なんだよ。お巡りにいくら言っても聞いちゃくれねえんだよ」
男は恨めしそうに警官達を見る。彼らの中で一番年長らしい男は、がっしりとした体躯で、顔は丸く日に焼けており、小さな丸い眼鏡の奥には小さな目が鋭く光っている。その男は小さな口を尖らせて、
「何の用だ。公務の邪魔だ。さがれ」
と、君達に威圧的な声を出す。君は我慢ができなくなり、ゲートへと歩み寄る。
「いきなりこの人達を追い出すことはないでしょう?」
「何だ、お前は。支援団体だろうが関係ないぞ。あいつらは公園を不法に占拠したから強制執行で出て行ってもらうだけだ」
丸眼鏡の警官は不機嫌そうに口を尖らせる。君がなおも食い下がると、
「お前には関係ないだろ。これ以上邪魔立てするなら、こっちにも考えがあるぞ」
警官は君を手で押し退けようとする。
「この人達に行く場所を用意しているんでしょうね」
「お前に教える義務はない。さあ、どいたどいた」
その時だ。
「あ、あいつがフェンスを乗り越えたぞ」
警官の一人が、少し離れた場所にあるフェンスを指差す。丸い眼鏡の警官は、すぐアコーディオンゲートを小さく開き、そこから部下達全員が中へと走って行く。
「こらぁ、勝手に入るんじゃねえ!」
遠くで怒声が響き渡る。君が振り返ると、さっきの赤褐色のホームレスが見当たらない。警官達が去ってしまった後、少し開いたゲートを前に君は奥に入ってよいものか、しばし黙考していたが、警官に捕まるホームレスが心配になり、入ることに決める。
ゲートを通り抜けると、前から大きな台車が連なってやって来るのが見える。先頭の台車を押しているのは、君が以前話をした市の職員で、彼の押している台車には、折り畳まれた赤や緑のシート、寝袋や段ボール、そしてオレンジ色のリュックなどが山のように積まれている。君は、彼の前に立ちはだかり、咎めるように言う。
「その荷物は、ここに住んでいたおじさんの家から持ち出したものですよね?」
職員は、冷淡そのものといった顔をして、反論する。
「強制撤去です。この日までに荷物を撤去しないと、撤去の上廃棄すると通告していますよ。そもそも君には関係のない事でしょう」
彼は、君を見て「またか」といったような顔をし、台車を押そうとする。君は両手を広げ、行かせない意思を示す。
「いや、あのトラックで運ぶつもりなんでしょ? 生活必需品もあるので返してあげて下さい」
「どきなさい!」
君が立ち塞いでいるのも構わず、職員は台車を前に進めようとする。その時、公園の奥から、警官達に背中を小突かれながらとぼとぼと男が歩いて来るのが見える。さっきの赤褐色のホームレスだ。彼は、両脇を二人の警官に押さえつけられて無念そうに下を向いて歩いていたが、台車の横を通り過ぎる時、「あ、俺の荷物だ!」と言うと、君の側にある台者に飛びつこうとする。警官達は、彼を引き倒して、
「こらあ! いい加減にせえ!」
そう怒鳴ると、無理矢理に彼をうつ伏せに倒したまま引き摺って行く。台車を押していた職員は、一瞬男の動きに驚いて台車の前進を止めたものの、すぐに落ち着きを取り戻し、その憐れな男に冷笑を浮かべ、休んだ手を再び動かそうとする。
君は逆上して、ホームレスの持ち物だったリュックに手を伸ばし、その中に右手を差し入れるだろう。職員は、
「これ、そんな汚いものに手を入れちゃいかん。それも廃棄するのだから。乞食みたいな事をしちゃいけない」
と、厳しく窘める。
君はリュックの中に木製の細長い棒の手触りを確かめる。思っていた通りだ、と君の鼓動は早くなる。それをギュッと握り締め、リュックに左手を添え、宙に浮かせた状態で、職員の方に近寄る。
「さあ、それも廃棄するんだから台車に戻しなさい」
ドン! と、君はリュックを男の胸に当てる。
「うう……」
彼の顔色はみるみるうちに青ざめ、君はリュックから右手を抜き、添えていた左手も放す。職員は台車に両手をかけたまま、少しの間恨めしそうに君を睨んでいたが、やがて下を向く。その後ろで二台目の台車を押していた別の職員が、不審そうに歩いて来る。君は、無愛想な顔を作って、元来た道を通って、アコーディオンゲートを抜け、ホームレスを取り押さえている警官達の脇を、震えながらできるだけゆっくりと歩く。
君は、恐怖で警官の顔も、ホームレス達の顔もまともに見ることができず、ひたすらトラックの荷台を見つめながら無目的に近づき、樹木から「ガガガ」という騒音が聞こえてはっと正気に戻り、すぐ右に曲がってそのまま公園から遠ざかる方向へと歩く。
怯懦の気持ちは消えず、走り出したい衝動を抑えたまま歩くと、次の街路樹が目に入ってくる。無言の樹から「ホーホケキョ」と微かに音が聞こえる。突然公園の奥から、
「人殺し!」
と大きな声がする。君は後ろを振り返り、入り口にいた眼鏡の警官と目が合う。
「お、おい、お前。待つんだ!」
その言葉に弾かれたように君は、全速力で走りだす。後ろから大きな足音が聞こえ、息を大きく吸い込んで走る。公園の前を抜け、食品工場の前にさしかかる。排水溝のドブ臭い臭いが鼻を突く。突然、街路樹が「ガガガ!」と、予想もつかないほどの不快な大音量で鳴り響いたので、君はびっくりして反射的にその音から逃れようと、工場の開け放してある門の中に入る。
あの音から逃れたい一心で、手入れされずに雑草が覆い茂っている工場の駐車場の中を時々後ろを振り返りながら、赤や黄色の軽自動車や白のワゴン車の間に身を隠すようにして進んで行く。
駐車場の奥にある乗用車の一台がライトを何度もパッシングしている。君はそこに誰かがいると思い、恐るゝ近づいて行きながら、ここに侵入した言い訳を考える。
近づいてみると、車の運転席は無人であることが分かる。ライトの消し忘れ? それとも何かの故障? 君は訝しむ。ライトの照らす方向を見てみると、樫の木の陰で背の高い草むらが密生している。そこに身を隠せないかと考えて、かき分けて入って行くと、工場の緑色のメッシュ状のフェンスが見え、行き止まりだと落胆する。しかし、目を凝らしてみると、フェンスとフェンスの切れ目にフェンスと同じ緑のメッシュ状になった錆びた扉が見つかるだろう。
君はその扉に鍵がかかっていない事を確認して、そっと扉を押す。「キイ」と小さな音を立てて、それは脱出路を開いてくれる。君はそうっと扉から細い路地に出ると、開けた扉をゆっくり押し戻し、左右を見渡してから食品工場の入り口とは反対側の道路を目指して歩き出す。
広い道路に出ると、シンナーのような塗料の臭いがつんと君の鼻を刺激する。左右どちらの方に行こうかと逡巡していると、左側の街路樹から「チュンチュン」と優しい音が聞こえてきたので、それに従うことにする。
君は、この心地良い音は罠かも知れないと考えるが、すぐにその考えを打ち消す。もし罠であればこれまでのあいだにとっくに掴まっているか、何かひどい目に遭っているはずだ。なぜか、発せられるシグナルに従っていると上手く行く気がしている。心地良いシグナルには引き寄せられ、不快なシグナルからは遠ざかろうとしてしまう。君は、塗料工場の前を、路上駐車中のトラックの陰に隠れるようにしながら進み、隣の廃工場の前に差しかかる。門柱には『プレスト食品』の文字。町のニュースになっていた大型工場の跡だ。その門の前を通り抜けようとすると、「キーキー」という蚊が大声で喚き立てるような音が、門の前にある樹のムクドリ撃退スピーカーから聞こえてくる。それを聞くと不快になるが、それが正しいシグナルなのか一度試してみたくなる。何かに操られるだけの人生なんてごめんだ。君はそう考える。その樹の前を敢えて通り過ぎようとすると、音はますます大きくなり、君は耐えがたい気分になってくる。これが先生の言っていたソマティックマーカーかもしれない、通れば悪いことが起きそうな気がする。君が、そこで動けないでいると、スマホのメール着信振動がポケットの中で響く。こんな時に、と思いながらもそれを取り出す。ショートメッセージの送り主は、やはり以前と同じトライアッド市となっている。だが、君はもはやその送り主のアドレスなど信用していない。君を監視し、なおかつ、逃走を手助けしようとする何者かに違いない。君は路上駐車をしているトラックと樹木との間に身を隠しながらメッセージを読む。
『目の前の廃工場にある、守衛室に入りなさい。そこから道路を見て、パトカーが二台通過するのを見たら、道路に戻り、その先にある踏切を渡りなさい』
君は、スマホをポケットにしまう。樹木の「キーキー」という嫌な音は、先ほどよりは音量が下がっている。右手を見ると、プレスト食品工場の敷地に小さなコンクリート製の建物が見える。大きな窓ガラスが一面を覆い、ブラインドが下ろされている。おそらく横にドアがあるのだろう。
君は、目の前にもう一つ選択肢があることにも気づく。左手にあるトラックを見上げる。銀色に赤色で会社のロゴが記載された荷台。その前には運転席のある白いキャビン。君はキャビンのステップをそっとよじ登って、あれ? と思うだろう。
その運転席にはハンドルが無かった。君は、これが今流行の無人隊列走行のトラックの無人車だと気づく。ステップから降りて、そのトラックの前を見ると、何台もの同じ形状、色彩のトラックが並んでいる。先頭の一台だけが有人で、後ろのトラックは全て無人で先頭車からの5G電波で操作するに違いない。無人トラックには、盗難を防ぐため、無人走行時には手動操作用のハンドルを外している会社もあると聞いたことがあった。
君は、ニュースでしか知らなかった最新テクノロジーを目の当たりにして、頬が緩む。このトラックに忍び込めば街を脱出できるのでは、そんな考えが頭をよぎる。
すぐにポケットの中で振動が生じる。偉大な何者かは、その考えに賛同してくれるだろうか? そっと画面を開く。
『トラックには乗らないで。あと十五秒以内に、守衛室のボックスに隠れるように。走りなさい』
高圧的な文面に負けて、君はトラックから離れて真っ直ぐに守衛室に向かって走る。近づいて行くと、そのコンクリートの建物は表面にざらざらした白い素材が吹き付けられている。雨ざらしになっていたせいか、緑色の黴のような汚れた染みがあちこちにある。
その横手に回ると、窓のないスチールドアがある。そっと冷たいドアノブに手をかけると、鍵はかかっておらず、ガチャリと小さな音を立てて開く。君はメッセージを信用しているので、中に誰かがいるとは考えもしない。中に入り、ドアをそっと閉めると、道路を見据えた正面にあるスチール製のデスクに手をついて、閉じたブラインドの壊れて折れ曲がった隙間から、そっと道路の方を窺う。
君が部屋にはいって数秒もしないうちに、パトカーが一台現れて、トラックの陰へと吸い込まれていく。二三秒以内にもう一台。君は、啓示がその通りになったことにもはや驚かなくなっている。パトカーを二台数えると、守衛室のドアをやはりそっと開いて、「ピチュピチュ」とヒバリの声で呼び寄せてくる路上の樹木へと歩いて行く。
指示通りに道路に出ると、すでにそこに駐車していた数台のトラックは全て走り去っている。君は、初めて刺した人の肉の感触を思い出す度に怖くなり、広い道路に身を隠すものがほとんどない事に不安をおぼえる。これが、みんなが言っていた感情か。動画が見えていなくても、その残骸で生じる感情に、君の平穏だった世界はもう楽園などではなく、奈落の底が無限に広がるのが見える硝子板の歩いているような気分になる。忘れろ、忘れるんだ。君は、自分にそう言い聞かせながら、廃工場のフェンス沿いをなるべく速く歩く。
あのパトカーはもう行ってしまっただろうか? 不安になりながら廃工場の前を抜けると、交差点の信号が見える。君は逃げるのに夢中で、踏切がどの方向にあるのか、混乱して分からなくなるだろう。深呼吸をして、地図アプリを見ようとポケットに手を入れると、信号機の右折を示す矢印が、激しく点滅していることに気づく。見たこともない表示方法に、これもシグナルに違いないと判断する。
右手の方を見て警官がいない事を確認し、君は電柱の陰から身を晒して、信号機の指示に従って歩を進める。すると、後ろから「ピピピ」という音が聞こえ、反射的に振り返る。音源である樹木の向こうに、君を尾行するかのように赤色灯だけ回転させて、サイレンを鳴らさず近づいて来るパトカーが目に入る。
君は弾かれたように踏切に向かって走り出す。もう一度ちらと後ろを見ると、赤信号でパトカーが止まっており、スピーカーで「そこの君、立ち止まりなさい」と、大きな音量だが曇って聞き取り辛い声が聞こえてくる。君は、踏切まで逃げ切れば助かると思い、再び前を向く。その瞬間、パトカーが緊急車両になったことを示すサイレン音が鳴り響く。まだ踏切まで百メートルはある。自分の体力不足を嘆きながら、あのメッセージを信じていいのか、猜疑心が芽生えだす。
「止まりなさい」
パトカーからの声は、君の予想に反して少し遠くなっている様に感じる。続いて
「緊急車両です。そこのトラック。交差点で止まらないで!」
という、怒気を含んだ声。君は息切れで走れなくなり、それでも乱れた呼吸のまま一生懸命速く歩きながら振り返ると、パトカーの姿は、さっきの右折信号があった場所に立ち往生したトラックに隠されて見えなくなっている。君は、車輛の銀色の荷台に赤い文字を見て、それがほんの数分前まで路上駐車していたトラックだと気づく。
無人走行車の故障、ツキはまだある。君は、それが意図した助力であることを認識するのが怖くなってくる。
「今日は、ツイているんだ……」
敢えて声に出して自分の心を静めようとする。
呼吸が乱れ過ぎない程度に、小走りで踏切を渡ろうとする。それを指示されたものの、その後はどうするべきか……。どこかに身を潜めてスマホを見てみよう。君はそう考える。
線路に侵入する前に、君はいつもと何かが違うと感じる。周囲を見回すと、黄色と黒の縞模様の長いしなやかな竹のような素材でできた遮断桿(しゃだんかん)は、上を向いている。そのすぐ左にある踏切警報機に視線を移す。二つの赤い目玉から成る警告灯の、なぜか左側だけが点滅し続けている。
列車の接近か? だが、左右には列車の影は見当たらず、遮断桿も上がったまま。赤い目玉の一つだけが瞬きをするように点滅し、その点滅間隔が、目に異物が入った人のように早くなっている。目玉の上の警音器は無音のままだ。
これまでの経験から、これは『踏切を渡ったら左に曲がれ』というシグナルだと君は考える。急いで渡り終え左に曲がる道を探してみたが見つからない。君はため息をつく。左側は人の侵入を阻む背の高い生垣になっており、その向こうには薄いピンクの外面と黒い三角屋根の住宅。生垣の奥はあの家の庭だろうか? 君は生垣の隙間から、奥にもう一つ行く手を阻む塀があるのを見て、その考えを打ち消す。
まさかここに隠れろと? ちらと来た道を見て、トラックが微かに動いたように見えたので、君は自分の幸運と直感を信じて、背丈ほどの生け垣の隙間に――植物を傷つけないように、音を立てないように――体を横向きに入れ、その内側に潜りこむ。
生け垣の中は荒れ果てていて、君はくすんだ黄金色のススキに囲まれた所でしゃがみ込む。パトカーが通り過ぎればしばらくは時間を稼げる。その間に次の指示を……。いや、それくらい自分で思考して動かないでどうするんだ。君は、動かされることに嫌悪感を持ち、自分を厳しく戒める。しかし、手から体性感覚野に記録された肉の感触、目から視覚野に焼き付いた職員の表情、それらを思い出すと、再び君は怖くなり、財布の少ない現金、スマホの充電の残りを考えて不安に陥る。
その不安を誰かに相談したい。今まで他人に相談をしようと思ったこともない君は、その心理の変化に困惑する。しかし、凜だけでも……、いやあの弁護士の先生に……、迷いながらスマホを手にすると、残り少ない充電のランプと共に、市の名前で送られてきたメッセージが目に入る。
『そこでしばらく音を立てないで待っていて下さい。その後で脱出する方法を教えますから。まずは私たちの敵に天誅をくだしましょう』
君はそのメッセージを見て、別の種類の不安に駆られる。もしかして、この何かは、予想を超える権力者なのか? 私たちの敵。その言葉に反応し、鼓動が早くなるのを感じる。
君は、これまでに生じた幸運をオッカムの剃刀の法則通り、一人の人物が起こした出来事と仮定してみる。樹木からの誘導音、信号機、立ち往生したトラック、そして君を見張っていなければ成功しないタイミングで何度も送られてくるメッセージ、それらを全て可能にできるとしたら、単なる企業や政治家での権力では不可能だ。もっと、テクノロジーに詳しく、そう、後頭葉にさえ介入できる人物……、そう考えを勧めると、君は精神科の武藤医師との会話を思い出すだろう。そうだ、街だ。しかも、このトライアッドの。
そう結論づけていると、パトカーの近づくサイレン音が耳に入ってくる。どうか、この生け垣を通り過ぎますように。祈るような気持ちで、ススキの群生の中に身を潜める。左側――つまり踏切とは反対側――から大型車のエンジン音が聞こえてくる。目を細めて生け垣の隙間を見ると、銀色の荷台に赤色のロゴ、さっきの隊列走行車の一台だ、と君は気づく。きっとパトカーの進路を塞ぐつもりなんだ。君は、パトカーを街が食い止めている間に脱出をしようと機を窺う。生け垣の隙間からトラックのキャビンにある運転席の窓が見え、君はガラスの向こうの無人の運転席を見つめる。見つめていると、目が離せなくなる、視線がガラスに固定されている……、やがて、窓が歪んで大きく見えるだろう。
君は、しばらくは、トラックが移動したのだと思っている。しかし、無人だったはずの窓の手前に、帽子を被った頭が見え、例の幻覚が始まったと考えるだろう。
鉛色の帽子と制服の男。最初は警官のように見えるが、警官の紺の制服との色彩の違いに気づく。男が左手で握っている物の形状が少しずつはっきりと映し出される……。車のシフトレバーのような形をしている……、電車のマスターコントローラーだ。
君はようやく、映像が電車の運転席であると判断する。どこの電車だろうかと考えていると、窓の左側に赤い文字が浮かび、それは『速度超過』という表示で、点滅している。ヘッドアップディスプレイの表示、運転席の周囲に配置されているモニターに見覚えあることに気づく。そうだ、これはLRTだ。
君は、運転士の行動に目が釘付けになる。彼は、モニターの方に向かってなにやら大きな口を開けて喋っている。その口の動きに合わせて、パトカーから、
「そこのトラック、早く下がりなさい!」
と、怒ったような焦ったような声が聞こえてくる。
映像は、カメラワークでゆっくりと左に旋回し、運転士の右斜め後ろからのフレームになる。彼は、5Gに運転を任せるのをやめたのか、マスターコントローラーを奥へと押し込む。きっと、何かトラブルがあって手動で運転しようとしているんだ、そう君は考える。モニターの側――マイクがあるのだろう――に向かって、興奮しながら何かを喚く運転士、その顔が怒りと恐怖と緊張の混ざったものであることを見てとると、君の胸の中にも、興奮の種が芽を出し、成長していくのを感じる。何のトラブルだろう、気になって運転席の周囲を見ていると、窓の外を流れる電柱の速度が少しずつ速くなっているような気がする。そう思ってモニターにある速度計に焦点を合わせてみる。百キロ……、百六キロ……、百十二キロ……、と少しずつだが確実に増している。
その速度計を見つめていると、君の中で大きく育った興奮に加えて、なぜか自分を追ってくる者への怒りの感情が大きくなってくる。どうして追われなきゃいけないんだ。自分が何かの力に動かされて人を刺したことを忘れ、理不尽に権力を行使されて追い詰められている現状に憤る。
映像では、恐怖と必死に闘っている鬼気迫る形相の男が、マスコンの隣にあるブレーキを両手の目一杯の力で引いている。だがモニターの速度計は、あざ笑うかのように少しずつその数値を大きくしており、窓の外の電柱や家々の風景は君の動体視力では追いつかないほどの速度で吹っ飛んで行くように消え去る。
彼はマイクに何かを叫び続け、足元のペダルを力一杯、何度も踏みつける。君は、以前見物していた経験から、それが手動の警笛弁であることを知っている。速度、運転士の焦り、必死の動作を見ていると、怒りと興奮の感情がますます大きくなっていく。
ふん、5Gを使った遠隔運転に頼っているから、故障が起きても何もできない自業自得だ、君はそう思い、怒りで手を震わせながら、拳をぐっと握る。拳の中で汗がじっとりと滲み出ているのを感じる。
遠くから警笛の音が聞こえてくる。それは、映像の中で中年の皺を目元に刻んだ運転士が足元のペダルを踏むタイミングと同時で、
「ファー、ファー」
と、乾いた空気の中をよく通る高い音として伝わってくる。君は、この加速する列車は以前の火災や転落や教室と同じく、背景の一部を切り取って作ったディープフェイクだと高をくくっていた。だが、列車は現実にこちらに向かって近づいている。警笛を聞いた君はそう確信して耳を澄ます。速度計は時速百三十キロを超え、運転士は完全に度を失っている。
「馬鹿野郎、危ないから早く後ろへ退避しろよ! 死ぬぞ」
君は一人呟く。しかし運転士は、パニックに陥らないよう、マスコンとブレーキを片手ずつで持って、何と電車のコントロールを取り戻そうとしている。パネルに何かを喚き、足元を踏みつける。すると、さっきよりもより大きな音量で「ファー、ファー、ファー」と警笛が聞こえてくるだろう。
運転士の喚く口元と重なって声が聞こえてくる。
「列車が暴走しているらしい。早く下がれ!」
「無理です。前後に無人トラックがいて、動きません」
「た、た、退避しろ! 一旦パトカーを乗り捨てるんだ!」
列車の速度と共に、君の憤然とした気持ちも高まって行く。
「もっと、速くなれ。突き抜けて行け!」
君は、心でそう叫ぶ。
だが、次に「ファー、ファー、ファー」と空気が圧縮されてドップラー効果でさらに高くなった音を聞くと、運転士が両手をレバーに食らいついたままのガラスの向こうには、立ち往生した、君を追っていたパトカーが……。
「止まれえ!」
君は目を閉じて体をかがめて絶叫する。右方から、もの凄い衝撃音と共に、映像は止まり、君は下を向いて閉じた目の瞼のスクリーン――つまり闇――しか見えなくなる。続いて、別の二つの衝撃音が、君の後方でほとんど同時に鳴り響いて、それが何度も君の頭の中をリフレインする。
無限に思えた時間が過ぎ去って、恐る恐る目を開ける。君を囲むススキの群れ、少し先にある生け垣は、何年も昔からそうであったように、黄金の穂を優しく揺らし、常盤色の硬い葉で身を護っている。二度目の大音響の聞こえた後ろを見てみると、薄いピンクの家屋が、さっき見ていたそれとは異なる様相を見せている。脱線した黒い屋根に白い車体の電車がピンクの二つ横に並んだ丸い窓の下の壁に飲み込まれ、恵方巻を頬張る巨人のように見える。だが、恵方巻ではなく、家が飲み込んでいるのは、巨大な鉄、大半の窓が割れ、ドアが外れ、家に食い込んでいる部分の鉄板は捲(めく)りあげられている、さっきまでは電車として多くの客を安全に運んでいた、巨大な建造物だ。
君は、メッセージの指示を忘れたように、体を起こしてススキを掻き分け、そっと生け垣から体を出す。トラックが占拠する道路の端を通って、右手の踏切の方へ歩き出す。踏切で右側を向くと、くの字型になっている数秒前まではパトカーと呼ばれていた物が、強い力で変形させられ、弾き飛ばされ、ピンクの家とは反対側にある電柱をへし折っていた。
「厚みがある状態で手球と的球がぶつかると、こういう分離の仕方をするよな」
君は、恐怖心を抑えようと、わざと口元を歪めて笑顔を作り、この事故をビリヤードに喩(たと)えようとする。
「まさに、ここにも物理学の場が……」
君は吐き気に襲われてしゃがみ込む。
ポケットの中にスマホの振動を感じる。取り出してメッセージを開く。
『私たちの怒りの鉄槌は下されたのです。あなたも留飲が下がったでしょう。さあ、これから騒ぎになるので、パトカーが来た方向と反対側へ向かうように。食事の場所は追ってメッセージ送ります』
君は、立ち上がって、そのメッセージの返信画面を開き、音声メッセージのボタンを押す。
「おい! 市長だが街だか知らないけど、これ以上はやめてくれ! 関係ない人を巻き込んでいるんだぞ。あんたが何者か知らないが、知らないけど、こんな大きな権力があるなら僕に関わらなくてもいいだろう。怒りの鉄槌? 怒っているのは、きっと僕じゃない! あんただ。あんたの怒りだ。僕は怒っていない……怒っていない……怒らない! だからやめるんだ!」
君は、線路の上に立ち尽くしたまま、やめるんだと叫び続ける……。