社会と繋がるために~”日本版トニー賞への道”を見て、クラシック出身の私が思うこと~
コロナ禍で発足した”舞台芸術を未来に繋ぐ基金(通称:みらい基金)”がこんな動画をアップしていた。
その名も”日本版トニー賞への道”。
チラッと見るだけのつもりだったのに、気がついたら1時間以上経っていた。…あれ、おかしい。
私もしがない一舞台人の身として、いろいろ考えさせられたということだ。この気持ちを忘れないように備忘録として記しておこう。
※ざっと見ただけなので、記憶違いもあるかもしれない。詳細はその目で確かめられたし。
この動画の最初の方で、
「演劇界の人を救うために!って立ち上がってみたはいいけど、思ったよりも世間の反応が薄かった。もっと演劇が社会に根差したものであったなら、結果はまた違ってきたのかもしれない。まだまだ壁は厚い(意訳)」
ようなことをおっしゃっていたのは、”ミュージカル界のプリンス”こと井上芳雄さん。
なんてわかりみが深いんだ!と、とても共感してしまった。
というかミュージカル界ですらそうなら、クラシック界は絶望的やないか~。
かくいう私は、ミュージカル界よりもさらに厚い壁に覆われた魔境、クラシック界の人間だ。
母親の影響で、幼少の頃からお家で流れるBGMはクラシック、リビングには当たり前のようにアップライトピアノがあった。なんなら母の胎内でモーツァルトを聴かされていたというのだから、生粋の魔境育ちだ。
育った環境が常識になるとはよく言ったもので、私はみんなもクラシックを好んで生きているのだと思っていた。
どうやらそうではないらしいと気づいたのは、ピアノを習い始めた小学生の頃だった。
(…あれ?なんでみんなは音符が読めないんだろう?)
(ベートーヴェンを知らないだと?)
(バッハとヘンデルの見分けがつかない?…髪型で判断すな!)
音楽のテストなのに、解答欄にピカソと書いた強者もいた。
世間一般の興味はそんなものだったのか。
それでも私は趣味でピアノを習い続け、中学の部活も運動音痴だからという理由で合唱部を選択した。音楽漬けの日々である。
(ちなみに私は高2になるまでは、音大を目指そうだなんて露ほども考えていなかった)
そして紆余曲折を経て音大に入り、更に世界は狭まった。
当たり前だが、音大には基本的にクラシック音楽大好き人間ばっかりが入学する。変人の集まりだ。
(でもみんな自分だけは普通だと思ってる。変なのに。途轍もなく変なのに)
毎週教授と一対一で顔を突き合わせるレッスンがあるし、その教授がクラシック界の一線でブイブイ言わせてる現役オペラ歌手の場合も、”知り合いの知り合いは大御所”なんてこともザラにある。
そんな狭い世界で生きていたらそりゃ錯覚もしてしまうと、今になってしみじみ思う。
”みんな(クラシックを含む)音楽が大好き”なのが、常識になってしまうのだ。
私も学生時代はイタリア歌曲・日本歌曲を専門に勉強してきた。オペラのアリアだって、一般的に知られているようなものばかり歌ってきたわけではない。(っていうか有名なアリアは大抵、ハチャメチャ・ハチャトゥリアン(笑)に難しい)
むしろそのマニアックな世界に酔い痴れていた節もある。
でもそのただ狭いだけの世界からは物理的に卒業した。と同時に、取り巻く環境も考えもガラリと変わった。(在学中にいい成績を残せていればまた違ったのだろうが…トホホ)
”音楽だけで食っていけるのは一部の選ばれし者だけだ”ということは、周知の事実だろう。残念ながら私は選ばれなかった。
細々と音楽活動を続けていくために、お金は別の仕事で稼いで生きている。
でないとコンサートでわずかに収益を上げたとして、経費とトントンレベルだったらいい方、赤字なのが通常運転(っていうかレッスン代とか楽譜購入費とか伴奏者のお礼とか…ホント高すぎ。やってらんねぇ)なので、ある程度他の手段で稼いだ方が効率がいいんである。
最近は何回かコンサートの場数を踏んだこともあって、少し周りを見渡す余裕ができてきた。そして、疑問に思うようになった。
お客さんは本当にクラシックが聴きたくて来ているんだろうか?
(ありがたいことだが、)知り合いである私が出演するから来てくれているのではないか?
自分の得意分野ばかりを演奏するのは、もしかしたらひとりよがりなんじゃないか?だって絶対知らない曲だもんな。
そもそも自発的にクラシックのコンサートへ行く人って誰なんだ?一部のクラシックマニアを除き、ほとんどが本人もプレイヤーか、もしくは出演者の関係者だったりするんでは?いや、それってあまりにも自給自足すぎやしないか?
コンサートには足を運んだことがない人だって、アイドルやバンドのライブは行ったことがあるのに…?
正直な話、チケットノルマに追われて友達同士でお互いのコンサートに行ったり来たり持ちつ持たれつするのも、私は好きじゃなかった。
本当は、クラシックをまったく知らない人にこそ「こういう世界もあるんだよ、悪くないでしょ?」って伝えたいのだ。
そのためには内側から殻を破らなければならない。
ただでさえお堅いイメージの強いクラシック、受け身ではダメなのだ。
そういえば、一度仲のいい友達とコンサートをやろうとして、企画の段階で破談になったことがある。
”今まで自分が究めてきたものを最高の状態で披露するべきだから、専門外の中途半端な選曲はしたくない。なんのためにこんなに時間を掛けて勉強してきたのか。そんなの、せっかく来てくれたお客さんへの冒涜だ”
VS
”せっかく来てくれたお客さんには楽しんでもらいたい。選曲はなんだっていいじゃないか、なんとなくクラシックのよさを感じてもらえれば。まずはこちらから歩み寄らなきゃいつまで経っても世間との溝は埋まらないし、興味すら持ってもらえない”
とまあ、そんな具合にお互いの根本的な部分が相容れなかったのだ。
どちらかが絶対に正しいなんてのはない。なんならどっちも正しいし友達の気持ちも痛いほどわかる。でも私はこういうプロがたくさんいてくれるからこそ、後者を選ぼうと思う。
”一つの道を究めるエキスパート”よりも、”いろんなことに挑戦するエンターティナー”を目指したい!
そうは言ってもクラシックで落ちこぼれた自分がコンプレックスだったし、今まで歌しか歌ってこなかったんだから、何もかもが中途半端だ。嫌になる時だってある。が、結果的に方向転換できたのはよかったんじゃないかと自己満足している。
それにそのお陰で、外の世界の空気を吸えて少し視野が広がった。絶対に出逢えなかっただろう人たちと袖振り合ったりもしている。
だいぶ脱線してしまったが、何が言いたいかというと「その壁、ぶち壊していきたいね!」ということである。クラシックを知った上で好きになるか嫌いになるかは、その人自身が感じればいい。でもほとんどの人が食わず嫌いなのが現状だ。
お高く止まっている(つもりはなくてもそう見える)のはもうやめにしたい。
はっきり言って、コンサートに行くために着ていく服を用意するのは億劫すぎる。ドレスコードはカジュアル、なんならTシャツにでも指定しようか?
また、鑑賞マナーが細かいのも肩が凝る要因だろう。”演奏が終わったと思って拍手したらまだだった…恥ずかしい”みたいなことはクラシックあるあるなのだが、スゴイと思ったタイミングで拍手してもらえた方が気持ちいいじゃないか!
確かに繊細な音楽だから最低限のルールは必要だとは思う。だが知らずにやってしまったことに対して、マナーがなっていないと睨みつけるのではなく、もうちょっと初心者にウェルカムな雰囲気を醸し出せるやさしい世界であるべきだ。
”日本版トニー賞”は、井上芳雄さんが
「日本にもトニー賞のようなものがあったら、舞台をあまり知らない人でも”昨日のトニー賞、○○が受賞したね!”みたいな会話が日常で見られるんじゃないか?(意訳)」
と、演劇界と社会がもっと密接に繋がることを夢見て発案されたものだ。
彼のような影響力は私にはないけれど、まずは自分の手の届く範囲で壁を取り壊していきたいと思う。地道に、トンカチで。
せめて数少ない私のファンたちにはそんな壁を感じないでほしいし、あわよくば私がその狭い世界を知るきっかけになってくれたなら…こんなに嬉しいことはない。
そのためには常に外・社会へ向けた意識を忘れずに、少しずつ活動の幅を広げていかなきゃね!
もし将来、リサイタルやワンマンライブに出演する機会があったら、演目には専門的に学んできたクラシックやミュージカルだけでなく、ポップスやらロックやらをふんだんに盛り込みたい。あわよくばシャウトして暴れたいし、会場を煽ってみたいのだ。カオス上等である。もちろん、拍手はいつだって大歓迎だ。
(個人的にはオペラの超絶技巧の高音だって、ある意味でデスボイスだと思っている!)
さて、いつか来るそんな日のためにヘドバンの練習でも始めるとするか。(違う、そうじゃない)
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