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0003 B-side 山怪・UFO・超芸術

 0003 A-sideでは『山の牧場』を扱った。そこでは『山の牧場』という怪異譚は、山の怪談として捉えることができるし、UFO譚としても捉えることができると述べた。加えて、それは超芸術の側面も持ち合わせていると私は考えている。超芸術とは、赤瀬川原平が提唱した概念であり、簡単に言うと何のために使用するかわからないまま放置されている建築物のことを言う。例えば、Wikipediaに掲載されている以下の写真を見れば、超芸術がどのようなものかすぐにわかるだろう。

見事な空中階段である。

 牛のいない牛小屋、上がる階段のない2階、30基も並ぶトイレ、未だに続けられる増改築など。山の牧場はまさに超芸術と呼ぶにうってつけであろう。0003 B-sideでは『山の牧場』をより楽しむために、山の怪異譚、UFO、超芸術についての作品を紹介しよう。

1.山の怪談の定番

田中康弘『山怪 山人が語る不思議な話』ヤマケイ文庫 2019

 山は深い。鬱蒼とした木々が空を隠し、奥まで決して見通すことのできない視界の悪さが人を容易に迷わせる。山には文字通り空間的な深さがある。だが、それだけではない。山には物語を醸成する場としての奥深さがある。山には間違いなく何かがいる。だがそれに、はっきりとした名を与えることは不可能である。私たちはそれを狐や狸のせいにしたりもするが、それで全ての現象に満足いく説明が与えられるわけではない。そして、また別の物語が生まれる。名状し難い何かにひたすら怯えながら。
 本書は、マタギや猟師の間に伝わる山の怪異を蒐集してできた書物である。短い話が多いが、それだけに逆にリアリティを感じられる話ばかりだ。面白いのは、場所が異なるにもかかわらず、似たような話が多いということである。例えば、狐譚は至る所にあるが、地方がどこであろうと狐は必ず火と関連している。どの地方でも狐火が目撃されており、巨大なものはバレーボール大にもなるのが目撃されている。一方で狸は音と関連する。狐は視覚的、狸は聴覚的な怪異というのが興味深い。あるいは、巨大な蛇の話もどこにでもあるようだ。成人男性の太腿ほどの太さの大蛇が現れる話も多い。それがツチノコという妖怪を生み出したのかもしれない。人が消えたり、一度消えた人がひょっこり現れたりするという話もたくさんある。子供が消え、あり得ない遠距離で発見される。しかも到底登るのが不可能なはずの巨岩の上で、となるとここに人智を超えたものの存在を感じないわけにはいかない。人ならざるものが呼ぶ、あるいは訪ねてくるという話もたくさんある。呼びもしないのに訪ねてくるとは甚だ理不尽な話だが、彼らに下手に応えてしまうと散々な目に遭うことすらあるというのは、恐怖を通り越して怒りを感じる。山では方向感覚が狂うという。なぜか右と左が逆になるという現象は山との付き合いが長くなると、誰しも一度は経験するようだ。それだけではない。山はカーナビゲーションシステムさえ狂わせる。山ではこれさえ持っていれば安全という万能の道具はないのである。
 『山怪・弐』、『山怪・参』とシリーズ化されており、累計26万部を超える大ヒットとなっている。現代に残された広大な異界として山は未だに私たちの身近に存在している。

2.放浪する民の記録

三角寛『山窩奇談』河出文庫 2014

 『山の牧場』を読んでいると、そこに誰かが住まっているように思えてならない。もちろん従業員のことを言っているわけではない。誰かはわからないが、確かに誰かがずっといるような気配が感じられるのだ。それは私たちの目につかないように、じっと私たちを覗き込んでいるのかもしれない。山窩という放浪民は、必ずしも山に関係しているわけではないが、このような定住場所を持たない者らのひと時の安住の地=瀬振として山の牧場が機能していると想像するのは楽しい。
 山窩というのは、狩猟採集を生業として生きる流浪の民の総称である。定住はせずに、瀬振と呼ばれる小屋に暮らす。戸籍も持たず、国家もその存在の全てを把握できてはいない。彼らの間でしか通じない独特の言語を用い、超人的な能力を持つ者も多く、間者の子孫と言われる。忍者と呼ばれていた集団を考えてみるとよい。彼らはすべからく山窩の祖先であったと言われている。このような存在がオカルト的想像力を刺激しないわけがない。彼らはオカルトの格好の材料である。曰く、神代文字を使用する失われた古代文明の生き残りである。その祖先は天皇の系譜とも密接に関わっており、天皇を陰で支えた古代職能集団として存在していた、云々。
 三角寛の描く山窩はフィクションである。おそらくは、その大部分が創作されている。山窩が警察の手助けをしていたのは本当なのかもしれないが、この小説内では山窩がいなければ全く事件が解決しないかのように描かれている。しかも、ある事件で、警察の手助けをしている山窩が冤罪で捕まってしまうのだが、留置場に仲間が忍び込んで情報をやり取りした上、山窩ネットワークを駆使して真犯人を捕まえるという離れ業までやってのける。また別の話では、狼に育てられた山窩が犬を操るという特殊能力を発揮して事件を解決する。ここまでくると、流石にやりすぎ感が否めない。
 それでも私はこの山窩小説をぜひノンフィクション・実話と思い込んで堪能してもらいたいと思っている。三角寛の描く山窩には圧倒的なリアリティがある。たとえ、いっときの想像の中でしかないにせよ、生き生きと躍動する山窩をあなたの中に顕現させ、彼らと生活を共にしてほしい。

3.UFOをめぐる書物2選

① ASIOS『UFO事件クロニクル』彩図社 2017
② 飛鳥昭雄・三神たける『UFO特務機関「MIB」の謎』学研パブリッシング 2010

 https://www.amazon.co.jp/dp/4054045561/

 『山の牧場』といえば、やはりUFOである。UFOに関わる書物は多数あるが、論調は大きく2つに分かれる。UFOに懐疑的な論調の本かUFOの存在は自明のものとする論調の本かのどちらかである。後者は陰謀論とともにUFOを語るのがほとんどである。私はここでどちらの本がよりよいという判定を下す者ではない。そうではなくて、私は両者の読み比べをおすすめする。今回、私が選んだ本は①が懐疑派の②が肯定派の本である。
 ASIOSはAssociation for Skeptical Investigation of Supernatural(超常現象の懐疑的調査のための会)の略称。その名称からも明らかなように懐疑的視点から調査を行う組織である。ただし、超常現象を否定する組織ではないことは付言しておく必要がある。彼らの採用するのは方法的懐疑である。いくら科学的に検証しても説明のつかない事件に関してはきちんと判断を保留するという態度を貫いている。
 一方、飛鳥昭雄は『月刊ムー』読者にはお馴染みの漫画家兼サイエンス・エンターテイナーである。彼は、NSA(国家安全保証局)の一員であったブルーム・マッキントッシュなる人物から譲り受けた「M–ファイル」と呼ばれる過去のオカルト事件に関する真相が記された機密文書を所有し、その情報公開を行なっている。三神たけるは『月刊ムー』の現編集長・三神丈晴のペンネームである。謎学研究者として自らも執筆に関わるときは、三神たける名義を使っていることが多い。上述の経歴からも分かるように、この二人が手を組んで書かれた書物はつまり、ほとんど『月刊ムー』である。謎の真偽というよりも謎そのものを掻き回すということを楽しむ姿勢である。
 ①では、1940年代〜1990年代までの主要なUFO関連の事件が取り上げられており、それら全てに科学的・文献資料的な考察がなされている。冷静に、公正に真偽判定が行われているが、それらを抜きにしても事件の概要を知るための辞書として利用することもできる。
 ②では、タイトルにあるように「MIB」つまりメン・イン・ブラックというUFO目撃者を脅迫する黒服の男たちの謎を追っていく章もあるが、人類最終兵器プラズナー、古代インド核戦争、神々の乗り物などが出てきて「MIB」に行き着くまでにお腹いっぱいになるかもしれない。
 両者ともに、有名な「ワシントンUFO侵略事件」を扱っているが、そのトーンの違いを比較して読むのも面白いので、せひ交互に読み比べながら楽しんでいただきたい。

4.超芸術の教科書

赤瀬川原平『超芸術トマソン』ちくま文庫 1987

 超芸術とは何かについては、冒頭で簡単に説明したが、なぜトマソンかというと、さらに説明が必要だろう。これは1982年、ジャイアンツに在籍していた4番バッターの名前である。何でも4番でありながら、三振を量産し続けたことで知られているらしい。4番としての役割を全く果たさないままに、ただその位置に存在し続けた選手とは、まさに生きた超芸術というわけで、赤瀬川が拝借したのである。これは馬鹿にしているわけでも、皮肉っているわけでもない。申し分ない肉体と技術を持ちながら、全く機能を果たさないその姿に、赤瀬川は本当に美を見出したのである。赤瀬川にとっての芸術とはそのようなものだ。
 例えば、どこにも繋がっていない階段、下に防ぐもののない庇、用途不明の鉄柱、無用門、空中に開くドアなど。これらは本来の用途を逸脱しているばかりでなく、普段は顧みられることなくただただそこに佇んでいる。注意深い目で見なければ、そこに存在しているということすらわからないものもある。切れないハサミに存在価値がないように、超芸術に存在価値などない。そう言ってしまうことは容易いが、超芸術はそう単純に割り切れない、人に思考を促す力を持っている。道具とは本質である。それはつまりハサミという存在が存在であるためには、切れるという本質を具備していなければならない。だが、本当にそうだろか。ハサミから切れるという本質を剥ぎ取ったとき、本当にそこには何も残らないのだろうか。いや、むしろ本質を剥ぎ取った剥き出しの実存こそ、純ハサミと呼べるような存在なのではないだろうか。だから、超芸術とは純階段であり、純庇であり、純鉄柱であり、純門であり、純ドアなのである。そしてそこに私たちは美を感じ取るのだ。
 超芸術を見つけるためには焦点をずらさねばならない。それは、私たちが普段意識をフォーカスしているような場所には決して存在しない。積極的にフォーカスをずらして歩かないことには目に入ってこない。超芸術を探して歩く姿は、普通の人の目には極めて奇異に映るであろう。不審者と間違われる可能性もある。本書の中には、そのような苦労の果てに見つけ出された超芸術の全貌が余すところなく紹介されている。
 超芸術を探すのは怪談を探すのに似ている。怪談は大手を振って通りを歩いてはいない。それはふっと意識の逸れて、何気なく垣間見た通りの片隅にひっそりとあなたを待っている。人からそれを聞き出そうとすれば、相手の意識のフォーカスをずらす必要がある。その時初めて怪談はその人の意識上に立ち上がってくる。怪談もまた超芸術と言えるのかもしれない。
 山の牧場は超芸術の宝庫である。牛のいない牛小屋、上がる階段のない2階、30基も並ぶトイレ、未だに続けられる増改築。知れば知るほど、その無用の用の格式美に目を見はらざるを得ない。きっと、山の牧場に、「何のために存在しているのか」と問うてはならないのだ。ただそこにある実存——それこそが山の牧場なのである。実用性や有用性が大きな価値観となった現代において、もはや日常空間に超芸術を見出すのは不可能に近い。もしかすると山の牧場は、日本に残存する最後の超芸術なのかもしれない。

 お読みいただきありがとうございました。次回は0004 A-side 日本怪奇名所案内です。

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