「庇護」
今朝は、雨の音で起きた。一度は8時に起きたが、そのまま二度寝して、昼前にベッドから出た。雨の音が聞こえていたのは一度目に起きた時か、二度目に起きた時かは覚えていない。とにかく、今日は夕方からの用事があるから、少しでも寝ておきたかった。
雨は強かったはずだが、今では降っていない。でも、夜9時くらいにまた降るらしい。どうだろう。夏の雲は気分屋だから、どうだろう。目の前の、たたまれたビニール傘が「どうだろう」と呟いている。職務を果たせる時間や、そうでなくとも彼の輝ける時間がくることを、彼は信頼できるだろうか。彼に、そんな力があるだろうか。夏は、そんな季節である。
「必要とされるだろうか」
傘がつぶやく。
〈必要なときも、不要なときもあるわ〉
窓の外を見ながら答える。
「僕はそのために生まれてきたのに」
〈そうなのね〉
「雨が降らない日の僕なんて、ただのお荷物だよ」
〈そう思ってるのね〉
「確かなことは、僕にとって今日はサイテーな一日だってこと」
外の光は、昼を過ぎて、白く白く街を照らしており、若葉はそれを受けてきらめいている。雨上がりの街と、向こうに見える青空、雲間から見える太陽を、眺める。傘は、言いたいことを言って黙ってしまった。
〈あなたが私を庇護したいのはわかるの〉
「…」
〈だけど、晴れの日に私が雨に濡れないっていう事実もあるのよね〉
「僕が必要ないって?」
〈まあ、晴れの日は…少なくとも。そうね〉
「…」
傘は黙ってしまう。
〈わたし、嫌な気分だわ〉
「…」
〈あなたが黙るのって、攻撃?私になにを言ってほしいの?〉
傘はため息をつく。
沈黙を破るように、突然、雨が降り出す。
わたしは傘を開く。
傘は頭上で、息巻いている。爆発音のような言葉が、次から次へと聞こえる。
「ほら…ほら、僕が必要だろ。君がなんて言ったって、君は僕を求めるんだよ。どうだ!どうだ!!どうだ!!!ねえ!さっきの僕の傷つきがわかるかい!?君がなんて言おうと、僕がいないと君は歩けないってことを!!その行為が、真に証明してるんだ!!!」
傘からはあ、はあと息が聞こえてくる。
〈…わたしが間違ってたわ〉
くくっ、と噛み殺したような笑い声が、傘から聞こえる。考えるよりも先に、口から言葉が出る。
〈あなたがしたいのは、庇護でも攻撃でもないわ〉
傘が黙る。息を吸って、また言葉を出す。
〈わたしの尊厳と心の中までも、自分の支配下におきたくてたまらないのね。わたしはあなたが理想のあなたを達成するために侵害されている。これは庇護なんかじゃない、搾取よ。攻撃なんていう可愛らしいものでもない…。わたし、あなたのために生きてる訳じゃないの。言われなければそんなこともわからないなんて…一体いままで何を教わってきたの?〉
そう、わたしはこう思っていたのだ。言葉として外に出して、やっとわかった。
傘が言葉につまる。はあ、はあと息をする音が聞こえる。気持ち悪くなって、そのまま傘を捨てる。
雨は勢いを増す。傘を失ったわたしの服を、あっという間に濡らしていく。気持ちよくて仕方がなくて、わたしが1人でも生きていることは明白で、喉が潤っていく感覚に飲み込まれそうだった。
雨は強く強く降る。わたしは雨に包まれていた。頭から爪先まで、雨の流れの中にある。雨は大きな流れを作って、それはもはや川のようだった。そして次第に川は、海になっていった。
呆然としていて、長い時間が経ったようだった。ふと息をする。わたしは、魚になっていた。元から魚だったのかもしれない。どうやら海の中で傘をさしていたらしい。馬鹿馬鹿しいことだった。よっぽど魚の方が、楽しいのに。どうして人間をやっていたんだろう。そういえば、と夕方からあったはずの用事を思い出したが、予定があるような感覚も、今朝見た夢だったのだ。
暗い海底を這うように、珊瑚と岩の間を泳いでいく。
鱗の一片が、差し込む光を受けて輝いたあと、暗闇に溶けていった。
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