〇いとしいたべもの/森下典子 4 おいしい人 2024年1月8日 22:33 その頃、母はよく家でラーメンを作った。豚の挽肉を醤油で煮て数日寝かせたスープをのばし、乾麺を茹で、ほうれん草、シナチク、鳴門、ネギを載せたシンプルな醤油ラーメンである。澄んだスープの中に、豚肉の甘みとうまみが出ていた。はじめに具は、玉ねぎと人参のみじん切り。それにハムか鶏肉、あるいはソーセージを細かく切った物が入っていた。母はそれらをフライパンでジャーッ!と炒め、その中に四角いごはんの塊をゴトンッ!と放り込んだ。ケチャップの容器も最初はガラス瓶で、底に残ったケチャップがきれいに取り切れなかった。卵を一つお椀に割って、菜箸でカッカッカッ!と手早くほぐし、バターを入れて熱したフライパンにチャーッ!フライパンを手首でぐるりぐるりと回しながら、溶き卵を薄く丸く広げる。卵とバターの匂いが立ち込め、卵の黄色がフライパンの中でところどころぷくぷく膨れながら、騒がしい音を立てているのを見ると・・・明るい黄色と、ケチャップの赤。トマトとスパイスの刺激的な香りと、焼きたての卵の風味が、私を急き立てた・・・オムライス世代冷蔵庫をさぐり、残りの野菜の芽の生えた玉ねぎと、キャベツを具にして、みそラーメンを作り、生卵を一つ、そっと割入れた。熱いどんぶりを抱え、味噌の香りに全てをゆだねて、湯気をふうふう吹きながらすすった。キャベツの芯が甘く、半熟になった卵が破れ、とろーっと出てきた黄身が甘かった。わが人生のサッポロ一番みそラーメンフォークの峰でぎゅーっと押し切ると、カステラはアコーディオンのように激しくひしゃげてから、ふわふわーっと元の形に戻った。切り口のスポンジの穴が潰れ、断面がもろもろとそばたつ。その卵色の「もろもろ」がたまらなく私をそそる。頬張ると、ねっとりと湿り気を帯びた甘さと、卵の風味が鼻を抜け、くらくらした。カステラに溺れて私は水羊羹を見ると、惚れ惚れしてしまう。つるんと濡れて美しい。スプーンでしゃくると角がシャープに切り立つところもいい。ひんやりとした寒天質を口に入れると、甘さと小豆の香りに、細胞が涼やかな風を感じるのだ。水羊羹のエロス厚手の大鍋にサラダ油とみじん切りのにんにくを熱し、まずは香りを立てる。そこに、一口大に切った豚肉、玉ねぎ、人参、ナス、ピーマン、セロリ、かぼちゃ、ブロッコリー(ブロッコリーは崩れやすいので、最後に入れる)などを入れ、よく炒める。ざーっと水を加え、沸騰したら丁寧にアクを取りながら柔らかくなるまで中火でコトコト煮込む。カレー進化論私は、カレーライスのごはんは固めにしゃきっと炊いたのが好きだ。しゃきっとしたごはんをカレー皿に盛り、野菜のごろごろ入った黄金のルウをかける。カレーご飯の粒と粒の間にたちまちすうーっと沈み込んでいく。カレー進化論箱の中の小さな説明書きを見ると、一本一本手で皮を剥いた蒸かしたサツマイモと、砂糖だけで作られているとかで、なるほど、ところどころに赤黒い皮が混じっている。表面はすべすべしているが、芋の短い繊維が、フェルトのようにところどころケバ立っていた。私は立て続けに、三本食べた。芋の繊維なのか粉なのか、喉のあたりにぼそぼそたまり、積もってくる。煎茶を飲む。するとお茶の味と一緒にたまってたものがすーっと流される。すっきりしてまた食べる。父と舟和の芋ようかん驚くほど大きなものの歯ざわり出会った。栗が入っていた。それも、とびきり大粒のやつが、丸ごとごろんと一粒。金時芋のようにぽくぽくとし、芯まで甘く煮え、とろけるような味がこっくりと染み込んでいる。こし餡が、大きな栗の回りを薄く包んでいた。その甘さがなんとも上品だ。それらを包み込む白い饅頭の生地は、おろした山芋を蒸し上げた薯蕷で、しっとりした粘りと弾力があり、栗の甘煮とこし餡の甘味にモチモチとからまるのである。今年もやっぱり、秋がきた・・・母が料理本を見ながら作ったのは、「マツタケの銀紙焼き」だった。銀紙の上にサラダ油を塗って塩鮭の薄い切り身を敷き、その上に、手で裂いたマツタケをこんもり載せる。さらに松葉を刺した銀杏を載せ、銀紙で密封するように包み込んで、魚焼きの網にのせて焼いたものだった。それは日曜の朝、やってきたホタテを焼くと、ジュクジュクと泡が立って、海を煮詰めたような香りが食欲をそそるように、マツタケを焼くと、生木の匂いを煮詰めたような森のエキスで空気が染まった。それは日曜の朝、やってきた炊飯器の蓋を開けたらふあーっと湯気が上がり、焼きたての匂いがした。ごはんの上で騒がしく泡だっていたものが、さわさわーと音を立てて、いっせいにひいていく。ふっくらした一粒一粒が艶やかに光って立っている。お釜の中は、まるで春の畑の土みたいにほこほことしていた。漆黒の伝統しゃもじでかき混ぜてごはんに空気を入れ、それをわが愛用の縞のお茶碗にこんもりとよそった。粒がピカピカ光、湯気がほわ~んと二筋、たゆたった。そのごはんの上に、〈江戸むらさき ごはんですよ!〉を一匙、載せる。あんなに黒々と見えたのに、海苔の佃煮のどこも黒くない。「黒」の正体は、実は青のりの「緑色」だったのである。この緑色がどはんの湯気に触れた途端、磯の香りが目を覚ます。ごはんが炊き立てで熱ければ熱いほど、香りが際立つ。はふはふ言いながら、ごはんを頬張る。どろどろした照りの、みりんの甘みに味覚がとろけ、噛むほどに口の中が磯一色になる。漆黒の伝統とりわけ秋茄子がうまかった。太陽の光をふんだんに浴びた茄子は、皮が柔らかくなり、実が引き締まっている。油で炒めると、発泡スチロールのようにふかふかしていたのが、油を吸ってぐったりとし、実がとろーっと甘くなる。茄子の機微皮を剥いた焼き茄子は、縦に裂いた実が薄緑色にほっこりとし、中には小さなタネがあって、どこかイチジクの実を思わせる。かすかな青臭さがあり、噛むと、焼けた実がとろりと甘い。この甘さに、生姜醤油が実に合う。それを味わい飲み込むと、からみついていた炭くさいスモークの香りがふわんと鼻に抜ける。そして、舌にかすかに残る、さわやかな後味の渋み。茄子の機微じゃがいもクリーム色の春泥のようにもったりとし、それでいながら、あちこちに丸くなった角が残っていた。じゃがいもの泥にまみれた小口切りのキュウリは、シャキシャキと小気味よい歯触りで、茹でた人参は滋味深く甘い。しんなりしてポテトの泥と見分けがつかなくなった玉ねぎのスライスも、独特のツンとくる匂いを発しながらサリサリと音を立てた。林檎はシャリシャリとして甘酸っぱい香りがし、細切りのハムがうまみを出していた。それらが、自然で優しい甘みの、もったり酸味を残しながら、喉の奥に消えていく・・・七歳の得意料理その鯛焼きは、まだほんのりと温かかった。鯛の背びれの外にはみ出した「みみ」の端が黒く焼けている。私はそこに歯を立てた。バリッ!いい音がして、焦げ臭さの混じった香ばしい匂いがぷう~んと漂った。皮が薄く、パリパリとしている、そのパリパリした薄皮が破れ、中にずっしりと詰まった粒餡が見えた。弾力のある粒餡で、小豆の皮に歯ごたえがある。甘さは控えめ。餡子というより煮豆の素朴な味がする。鯛の腹からはみ出した粒餡が、金型に挟まって「みみ」と一緒に黒く焦げているのを見つけた。鯛焼きのおこげ自分の思い出の中にある美味しい物それは人それぞれなんだけど、その人それぞれを覗くのも楽しいかもしれない。 いとしいたべもの (文春文庫) www.amazon.co.jp 814円 (2024年01月08日 22:32時点 詳しくはこちら) Amazon.co.jpで購入する ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #料理 #本紹介 #森下典子 #いとしいたべもの 4