私は人前で比較的ヘラヘラしている。 「悩みとかなさそうでいいなあ。」と言われるタイプの人間だ。 そんなわけないのに、「悩みがなさそうって言われるのだけが悩みなんです〜。」とニコニコするのがテンプレ。 本当のところは人に悩みを打ち明けることが苦手なだけだ。 人に弱みを見せることに慣れていなさすぎるから何にも悩んでない元気はつらつアホ人間として振る舞っている。 そうして何年も生きてきたからアホ人間ぶりに磨きがかかってきた。 強がりたい心はどんどん頑固になり、本当に誰にも弱って
何かの特徴を捉えて表すことは比較なしには成立しないと思う。 なぜなら形容詞そのものが比較によって意味をなすからだ。 私たちは常に物事を比較して生活している。 「大きい」という言葉について考える。 「大きいボール」というとどんなものを思い浮かべるだろうか。 バスケットボールやバランスボールなどだろうか。 直径1mなら、それは大きいボールだと多くの人は思うのではなかろうか。 しかし一歩踏み込むと話は変わってくる。 スーパーボールであれば直径5cmでも相当大きい。正直私は見たこ
現代ではちょっとしたことが切り取られてバズったり炎上したりすることは日常茶飯事だ。 それらの事象について、SNSでたくさんの人の意見を知ることができる。 否定や肯定、その理由。 自分の中にない考えを気軽に知ることができる。 考えの幅が広がるのは素敵だと思う。 でもそれによる弊害もだいぶ大きいと思う。 テレビを見ていて、「面白いなあ」と思いながらも頭の片隅で「でもこういう言動はたぶん引っかかる人がいるだろうなあ」とどうしても考えてしまう。 私の意見はそうでなくとも、私の頭の中
ちょっとした成功って覚えてますか? 私はあんまり覚えてません。 多分1日1個くらいは、ギリギリ電車に間に合ったりとか朝の食パンがちょうど良くこんがり焼けたとかなにかしらあるはずなのに。 ちょっと嬉しいとかちょっと得したとか。 でもちょっとした失敗って死ぬほど覚えてる。 バイトでお釣りを返し損ねたとか 友達にいらん一言を言ってしまったとか 店員さんのオススメを断りきれなかったとか 電車でめちゃくちゃ音漏れしてたとか 人に借りたものに油性ペンで書き込んじゃったとか。 もう数えき
23時から24時は割とゆったり過ぎるのに0時から1時ってびっくりしてまうくらいはやいのなにごと?存在してる??
私だって人並みでいたいけど誰にも選ばれてないし誰のことも選べない。 誰かが見てくれてるなんて言われても誰も見てないやんって思っちゃう。 やだなあ悲観的だなあ。誰もこんなヤツ好きにならねえよなあわかるぜ!相棒!
わたしには彼氏がいない。 周りにわたしほど「彼氏いない歴」が長い人はほぼゼロだ。 大学生になるとこうもバイトと恋愛の話しかしなくなるものかと苦々しい思いをすることが多々ある。 つまり私はその話題の半分にはついていけないと言うことになる。 もちろん、ドラマや本で見かけたようなあるあるを話の隙間に差し込むことはできる。 知ったかぶりもできる。 なんとなく話についていけているフリまでなら可能だ。 でも肝心の彼氏がいないことに加えてそういうエピソードが大学に入ってからまったくと言
私はテレビっ子だ。 日中はテレビに齧り付いて見ているし、見れない時間帯はビデオを入れまくるからレコーダーはパンパンだ。 そして住んでいる地域で見れない番組はTVerで見る。 最高な時代に生まれたなあと毎度思っている。 最近はテレビを見る若者が減っているそうだ。 確かに私の周りで私よりテレビを見てる人は居ないといっても過言では無い。 ひとり暮らしをしている姉はファイヤースティックを買ってからテレビ番組を見なくなったと言っていた。 広告料の割合もネットに過半数を取られたそうだ。
最近、頭を使わなくてもみれるエンタメが増えているのではないだろうか。 もしくは頭を使った気になることができるエンタメ。 張り巡らした伏線を最後にはすべてキレイに回収して視聴者がスッキリできるものがあまりに多い気がする。 でも私はそういう作品があまり好きではない。 「ドラマや映画のために作られた人間たちによる物語」感が強すぎるからだ。 ドラマの3ヶ月間だけのために作られた人間関係の中で起こりうる3ヶ月間だけの出来事。 現実にはそんなのあり得ない。 まず現実に起きた事象の中で
努力をしても報われないことがあるんだ。 北京オリンピック後の羽生結弦選手の発言に救われた人は少なくないのではないだろうか。 私たちがよく聞く「努力は必ず報われる」という言葉とその裏付けのような話を意気揚々と語る成功者。 でも世の中の9割以上の人は努力をしても報われない経験が少なからずあると私は思う。 どんなに努力して部活に打ち込んでも、どんなに勉強しても1番にはなれなかった。受験に落ちた。なりたいものになれなかった。 私の短い人生の中でさえ、報われなかったことなんていくらで
私が私であるということの確固たる根拠はどこにあるんでしょうか。 「私がこれまで私として生きてきたことの記憶」は根拠にするにはあまりにも不安定な気がしてしまうんだよなぁぁあ
皆さんは心の余裕がないときにどうしていますか? 本当に心の余裕がないときって、自分に心の余裕がないことにも目が向かないくらい心に余裕がないですよね。 つまり、本当に心の余裕がないときは「心の余裕がないときにすべきこと」なんていうコラムを読んでる場合じゃないんです。というより、そもそも心の余裕がないと思わないからそんなもの読もうとかいう発想が浮かびません。 ということはこれを読んでる人はそこそこ心に余裕がある方ということになりますよね。 それならば余裕がない時のために今から
人によって態度変えるヤツって、嫌なヤツの代表格として取り上げられがちですよね。 でも誰もに同じ態度で接することができる人ってどれくらいいるのでしょうか。 中学の友達、高校の友達、バイト先の人たち。それぞれの前で見せる顔ってみんなそれぞれ少しずつ違っているのではないでしょうか。 「Aちゃんには思いっきり冗談が言えるけどBちゃんにはちょっと控えめかも。」とか。 でもそれって、"人によって態度を変えるヤツ"になってしまうのでしょうか。 私は、そうは思いません。 好きな人の前ではど
習慣づけたいことは続かんのに 続かんなあ〜っていう発言は続けれるの なんなん!!!!!
好きなものはありますか? みんなそれぞれ度合いや対象は違えど"好き"という感情を持ったことはあると思います。 じゃあ、好きだったものは? これもきっとそれぞれが持ち合わせているものだと思います。 ここでお風呂真っ只中の私は思いました。 好きなものへの感情と好きだったものへの感情の違いって何なんだろうか。 後になって「私ってあの頃、〇〇がすごく好きだったよなあ」って思うことはあるけど、好きなものが好きだったものになる瞬間は気づけたためしがない気がします。 それでは、堂々
寝る前やお風呂中など、ひとりでゆっくり過ごしているときに ふと答えのない問いに頭を悩ませることがある人は多いと思います。 でもそういうのってすぐ忘れてしまいませんか? せっかく持っていたその時にしか出せない答えは検索しても出てきません。 そういうのってすごく勿体無い気がします。 だから、私の中でその時に出た答え"らしきもの"を出来る限り言語化して残したいと思います。 次回は「好き」と「好きだった」ってなにが違うんやろうっていう疑問について書きます!たぶん!!