「安定のおいしさ」という違和感
日本酒ばかりではなく、ラーメンについてもこだわっています。
卑近な例としては、ラーメン店のラーメンと街中華のラーメンは異なり、街中華は麺料理だと思っています。もちろん、街中華でもラーメンは作っています。が、酸辣湯麺は麺料理だと考えています。
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Facebookの8,000人超のメンバーを抱えている、ラーメンのグループボードの中に、時折、うれしそうに「安定のおいしさ」という表現で食レポを語っている人を見るのですが、私は何か違うなあという違和感を覚えます。
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例えば、最近は「同じものを作らない努力」が日本酒業界の中に散見します。しかし、限りなく「以前」に近い仕上がりであることから、同じ名前で登場するのですが、これもちょっと違和感を覚えます。
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昔は蔵元が杜氏に「うちの味はこれです」と指定して、同じ味を杜氏が造るという請負型の「専門業務型裁量労働制」のため、蔵人として誰を連れて行くかとか、誰を蔵人頭にするとか、すべてが杜氏の采配で決められていました。
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だから、その味わいに狂いはなく、ほぼ毎年、同じ味わいに仕上がっていました。ブレンドして作るのではなく、生一本として造るわけですから、経験則を含めた技術力の凄さには驚かされます。
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その一方、実に正直なんだろうなと思っているのですが、「今年のうちの○○はこの味に仕上がりました」的な発言があり、「それって失敗ではなく、故意なの、狙ったの?」とツッコミを入れたくなってしまうことがあります。
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同じものを造ろうとして同じものができなかったのは失敗なのではないかと思うのですが、ポジティブに考えれば、これもまた修練の成せる技であり、経験則にもなっていくわけです。だから、失敗ではないという前向きな考え方であり、見事な姿勢であると考えられなくもありません。
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しかし、「安定のおいしさ」ではない。時にはおいしくないこともあるワケですからね。少なくとも私は好きではない、かも知れない。
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けれども、3年ぶりに立ち寄ったラーメン屋さんで出されたラーメンが味が変わっていなくて、「安定のおいしさ」となるのは、この3年間に酸辣湯麺を数百杯は作ったはずだろうから、もっとおいしいものとなっていなければならないのではないかと思ってしまうんです。
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どうなんでしょうね。どうでも良いことなのですが、「ちょっと違和感を覚える」という話です。