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川が江戸の食文化をつくった(後編) 〜江戸料理研究家うすいはなこさんに話を聞いて〜
江戸料理研究家 うすいはなこさんのインタビュー記事の前編です。前編はこちら。
全6回のイベント「おいしい流域」の企画を進めていく中でたくさんの問いに出会いました。その問いを深めるべく、”山、川、海のつながり”について様々な方にインタビューをしております。
※本プログラムは、日本財団 海と日本PROJECTの一環として開催されました。
日本の海苔があぶない
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日本の海苔はいま全国的に質が落ちていて、技術云々の話ではなく、海苔自体の品質が落ちています。海水温が高くなって海苔が溶けてしまうという状態で、この10年ほどで金額も倍くらいになりました。海苔は今や高級品で、そのうち食べられなくなる時代が来るかもしれません。
江戸時代にも海苔はあって、江戸前の海苔が食べられていました。浅草海苔という名前が残っていますが、元々は浅草で養殖されていて、幕府から移転の命令が出てから、大森へ移ったと言われています。名称を継承したので、大森の海苔も「浅草海苔」と呼ばれました。東京湾では船橋や品川でも良い海苔が獲れましたが、江戸っ子は地産地消精神が強いので、浅草海苔じゃないと嫌だったんですね。
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今でも使われている板海苔ができたのも江戸時代で、それまでも海苔自体は加工せずに汁に入れたりして食べられていましたが、障子の形にして板海苔を作ったのは江戸時代の山形屋さんで、流通しやすいように寸法を決めて統一したのが山本海苔さんだと言われています。
ワサビは薬草だった
江戸前鮨にはワサビが使われますが、ワサビが使われるようになったのも江戸時代です。それまでは魚を食べるときに主に使われていたのはカラシでした。今でも江戸の料理を作るときにはワサビではなくカラシを使うことが多いです。醤油が普及するまでは日本酒と煮干しを煮た煎り酒が使われていたんですが、煎り酒とワサビの相性があまり良くないんですね。江戸初期は醤油がそこまで出回っていませんでしたが、中期くらいになって江戸中で醤油が使われるようになってから、ワサビが流行るようになりました。ただ、ワサビは平安時代に書かれた『本草和名』に載っていて、生薬としては食べられていたようです。当時は京都の丹後あたりでは栽培されていたようですが、江戸時代になってから関東でも栽培されるようになりました。
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このワサビを奨励したのも家康で、伊豆の村民がワサビを家康に献上されたのがきっかけで、葉っぱが葵の御紋に似ているし、薬草としても素晴らしいということで、徳川家がワサビを門外不出にして守るようになりました。しかしその後庶民にも広がって、江戸の後期にはワサビがブームになります。薬に味と書いて薬味と言いますが、ワサビが持つ殺菌効果に気づいた人たちがお寿司の中に入れ始めたんですね。
当時のワサビは主に伊豆から水運で江戸まで運ばれていました。ワサビは水につけていないと保存できないので、水につけたまま船で運ばれたようです。伊豆のワサビの産地は幕府の御料地になっていたので、江戸から明治に入ってからそれ以外の地域でもワサビが栽培されるようになりました。長野の安曇野でワサビが栽培され始めたのも明治に入ってからです。そこから大正期になって市場が日本橋から築地に移ったときに、鮮魚とワサビがセットで売られるようになってから、さらに広がっていったようです。
水運が江戸最大のイノベーションだった
三代将軍徳川家光の時代になると参勤交代が本格的に始まります。それによって諸国のうまいものが江戸に集まってきたんです。参勤交代は大名に力を持たせないための政策ではあったのですが、地元の味を食べたい大名たちが大量の食料を江戸に運んできました。自分たちが食べるだけではなく、それを売ることでお金にしていたので流通も生まれて、当時の江戸はいろんな地方の郷土料理が全部集まった百貨店状態だったんですね。その中で、各地方の食べ物を比較して発展していく文化も生まれてきました。
上方の方ではどうだったかというと、大阪は海が近いので海魚も食べていました。一方で京都は主に川魚文化で今も川魚は食べられていますが、海魚は乾燥させたニシンやタラ、ハモなど生命力が強い魚は、生きたまま京都まで運ばれて食べられていました。
三重や富山など海と山が迫っている地域では海魚が美味しいんです。山の豊富な栄養が海に流れ込むためです。ただ、そういうエリアでは栄養価も畑に留まらず海に流れてしまうことも多く、味の薄い野菜になってしまうこともあります。一方で、田んぼには水が豊富に流れるので稲は育つ。お米が美味しいところでは、野菜はお米ほどには美味しくない、というのが私の持論です。
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江戸時代には水運や参勤交代などで、江戸と地方が繋がっていって、それまで日本各地の流域内で育まれていた食文化が一気に江戸に流れ込んできた時代です。その一番大きなキーになっていたのが徳川幕府の治水事業や河川開発で、利根川東遷事業や玉川上水の事業であり、江戸の街に張り巡らした水路の整備でした。水運による流通イノベーションで江戸の食文化が生まれ、それが現代の食文化を作っているんですね。