
都市にある「小さな源流」に目を向けよう(後編) 〜文脈デザイン研究者、玉利康延さんに話を聞いて〜
文脈デザイン研究者 /「和食人類学」著者 玉利康延さんのインタビュー記事の前編です。前編はこちら。
全6回のイベント「おいしい流域」の企画を進めていく中でたくさんの問いに出会いました。その問いを深めるべく、”山、川、海のつながり”について様々な方にインタビューをしております。
※本プログラムは、日本財団 海と日本PROJECTの一環として開催されました。
歩かないと見えない水源
僕が住んでいる石神井公園には稲荷神社があるんですが「稲が成る」という意味だという説もありますが、稲が成るためには水が必要不可欠なので、水が湧くところに稲荷神社が立っていることが多くて特に西日本だとその傾向が顕著です。そういう所には縄文遺跡が見つかることも多いんですが、先人が「いいね」って思った場所には必ず何かある。水を軸に街を歩くときはそういうポイントを見るようにしています。国分寺には、奈良時代に武蔵国分寺という行政機関があったわけです。今でいう東京都庁のような建物がここにあったわけで、そういう場所には必ず周辺に水が湧くところがあります。そこで全国の国分寺を見てみると、武蔵国分寺と同じように後背地に崖線があって、水が湧き出す地形や構造の場所に建っていることが見えてきます。

武蔵国分寺を南北に通るように鎌倉街道が残っていますが、気になって歩いてみるといろんな発見があります。歩きながら地図に緑の点を打っていったのですが、これは全部鎌倉街道の伝承碑なのですが、街道沿いには必ず水が湧くスポットがあります。これはなぜかと考えると、当時は自動販売機なんてないから、街道を歩く人の喉を潤すためには湧水が必要だったんです。この鎌倉街道沿いは崖になっていることが多くて、崖だから水が湧くし、崖地だから後世になっても開発しにくい地形なので緑が今も残っています。水が湧く場所を探すことで、いろんなことが見えてくるようになりました。

このようなことを情報として知っていることも大事ですが、現地を車ではなくて自分で歩かないと見えないものや気付かないことがあります。事前の情報は半分ぐらいにして、まずは現地に行ってみることの方がとても大事です。実際に行ってみて、そこから湧き出ている水に触れることで、どのぐらいの水量があるか、水温はどのくらいか、ということが分かります。今では水に触れるだけで、これは11度だとか14度だとかわかるようになってきました。11度ぐらいだと水として飲むのは美味しいけど、水の中に入るのは結構つらいぞとか、ウェットスーツだったら入れるなとか、15度だと中に入れるなとか、身体が覚えるようになってきました。
東京全体が多摩川流域だった
玉川上水は羽村取水堰から入っていて、開削当時は多摩川の65%の水が玉川上水に入ったようで、取水してから終着地の新宿御苑の先にある四ツ谷大木戸門に到達するまでに、1回もポンプアップしてないんです。つまり自然勾配の力だけで水が流れているわけで、一度も谷を跨ぐことがないような経路を通っています。拝島の先の残堀川では川の方を立体的に玉川上水の下にくぐらせているらしいんですが、谷を避けて上水を通さなければならなかったんです。そのような点を見ていくと、小金井がすごく重要な場所で、ここは石神井川と仙川の源流部になっていて、つまり谷があるってことです。この二つの谷を避けながら尾根の部分を見つけて、上水が通っています。同じように井の頭公園のあたりも神田川の源流部にあたるので、仙川と神田川の間をうまく縫いながら玉川兄弟が掘って行ったわけです。その先にも小さな谷や川がいくつもあるんですが、羽村から四ツ谷まで一度も谷を跨がないという構造がすごいなと思っていたんです。

今回地図を作るにあたって、玉川上水から派生する用水を全部調べてみたのですが、それらの用水も全て谷を跨がない同じ構造になっていて、江戸時代の人はすごい仕事をしたものだなと思いました。下北沢のあたりを流れている自然河川である北沢川はおそらく江戸時代においても既に水量が少なかったはずで、おそらく玉川上水から北沢用水へ水を流し込んでいます。これは農業のために必要だったからで、つまり、本来自然河川として誕生した北沢川は、江戸時代の1670年頃にはもう多摩川の水が大量に流れ込んでいるんです。その頃から武蔵野台地の上では江戸野菜が沢山つくられるようになりました。これは徳川五代将軍だった徳川綱吉(在位1680〜1709年)が農業奨励を推し進め、元々火山性の黒ボク土であまり作物の育たなかった武蔵野台地の上を一大農作地に作り替えていく上で必要不可欠だった為です。この頃から江戸の人口が更に膨れ上がっていきました。
北沢川と同じような水の構造が善福寺川にもあって、玉川上水の支流である千川上水から70%も注水されていて、妙正寺川ですら玉川上水から水が引かれている。さらに小石川植物園の前を流れる小石川にも千川上水の水が入っているし、石神井川は荒川水系の河川なのですが下流の方で千川上水の、つまり多摩川の水が入り込んでいて隣の水系に股がって水が流れ込んでいることに衝撃を受けました。さらに、渋谷川にも新宿御苑の脇から玉川上水の水が流れ込んでいるし、現在の代官山の蔦屋書店の前の道は三田用水が通っていて、その水が目黒川に流れ込んでいました。皇居にも多摩川の水が流れ込んでおり、国立公文書館の前にある北桔橋門から江戸城本丸に玉川上水が流れ、不要な水は内堀に流れ込んでいました。
いわゆる流域というのは、雨が降って水が湧いて、そこから流れ出る範囲を指すのですが、多摩川に関してはもう人工的に張り巡らされた上水や用水がすごすぎて、もはや東京都の武蔵野台地の全部が多摩川流域と言えるように見えました。この地図では近代以前の用水の経路の情報を作っているので、その後、水道局の工事によって水の流れが変化した部分はあるかもしれませんが、少なくとも江戸時代の終わり頃は武蔵野台地のほとんどが多摩川流域だったということが言えると思います。

戦後に整備された現在の上水道網では、利根川水系から多くの水が引かれていますが、戦前までは東京の水は多摩川で全部賄おうという気概を感じます。戦前までは多摩川流域に浄水場がいくつもあって、上流の奥多摩に水源涵養林を作ったり、奥多摩湖の小河内ダムを作ろうとしていました。多摩川流域という一定の意識の中で戦前の東京市は頑張ったんだなという形跡がすごく見られるのですが、戦後はとても多摩川だけでは賄いきれなくなってきて、利根川から上水を引き始めて、現在の東京の水道網に変化し、自分達がどこの川の水を飲んでいるのか、という実感が薄れていくわけです。
まだ日常生活で上水と川のつながりを感じられた頃には、自分たちが使う水が汚染されないように、上流部や川の水質の環境維持に対して強い意識が働いていたはずですが、現代になって水道の蛇口をひねれば簡単に水が出てくるようになった時点で、人々の川へのつながりの意識は失われ、親水性の低い、深くコンクリート三面張りの都市河川で子供が遊べなくなった時点で、自分自身と川の繋がりや意識は決定的に欠如したのだと思われます。