地元と病室で育まれた日常のサウンドトラック——MaLの初ソロアルバム『Primal Dub』
インタヴュー・文/大石始
高田馬場の九州料理店「九州珠 (KUSUDAMA)」でMaLさんに会うことになった。MaLさんの出身地は東京の練馬区だが、この町に20年以上住んでいることもあって、今のMaLさんにとってはこの町が地元なのだという。
店にやってきたMaLさんは杖をついていた。2021年6月、彼は全治9か月の大怪我をし、2か月半もの入院を余儀なくされる。昨年末にリリースされた『Primal Dub』という作品は、その入院期間中に制作された作品だ。
MaLさんは90年代から東京のクラブシーンで活動を始め(小室哲哉プロデュースのユニットで作品を発表したことも)、2000年代はRUB-A-DUB MARKETで活動し、2010年代はPART2STYLEでヨーロッパでも精力的に活動してきた。近年はDJとともにプロデュースワークでも忙しいようで、さまざまな作品でその名を見かける。ZEN RYDAZというユニットでも活動していて、そのヴァイタリティーは驚かされるばかりだ。
そのように多彩な活動をしてきたにもかかわらず、『Primal Dub』はMaLさんにとって初のソロ名義の作品となる。そこに広がっていたのは、静けさに包まれたアンビエント・ダブ。重低音鳴り響くベースミュージックを作り続けてきたMaLさんのこれまでの作風とは少々カラーが異なるが、そこにはDJの現場から離れ、家族さえ面会が許されない病室という環境で制作したことがダイレクトに反映されている。
『Primal Dub』は九州珠が運営するレーベルの第一弾作品としてリリースされる。九州珠のスタッフの多くがDJでもあって、酒や料理を運んでくるたびにMaLさんと親しげな会話を交わしている。常に「シーン」のことを意識しながら活動を続けてきたMaLさんは今、高田馬場という地元で新たな「コミュニティー」を生み出そうとしているのだ。僕はそのことにも関心を持っていた。
――まずは怪我のことについて話を聞かないといけないですね。怪我をしたのは2021年6月でしたっけ。
「そうっすね。ここ数年プロデュース業をいっぱいやってて、その中のグループが配信ライヴをやるということで、そのチェックの時間に会場にいったんですよ。パソコンや機材を両手に抱えながら階段を降りていたら、そのまま下に落ちてしまった。とりあえず機材は大丈夫だったんですけど、膝のお皿が曲がっちゃってて」
――うわー。
「脱臼なのかと思ってグイッと直したんですけど、膝から下に繋がってる靭帯が切れちゃってるんで、ぷらっーとなってて。何とか人に支えてもらいながら店の外まで出て……」
――即救急車。
「即入院・即手術。 そうしたら人工靭帯を入れるときに合併症になっちゃって、結果、2か月半入院することになりました」
――怪我をする前の段階からコロナの影響でDJの現場もだいぶ減ってたんじゃないですか。
「実は去年の1月にコロナにかかっちゃって、入院もしたんですよ。なんだかんだ1か月半ぐらい引きずっちゃって、ぼちぼち復帰しようと思って少しずつDJを再開してすぐ、3月から4月にかけてまん防からの緊急事態宣言でDJがなくなって。それで6月に怪我をしちゃったので、去年はベッドに3、4か月ぐらい寝てました(笑)」
――入院してからすぐに制作を始めた?
「最初は5人部屋にいたんですけど、手術のあと数週間後に個室に移れることになって。機材を送ってもらって、曲を作り始めました。ZEN RYDASのセカンドアルバムを作ってる途中だったので、それをフィニッシュさせなくちゃいけなかったし、MACKA-CHINと作ってた高岡早紀さんの7インチ(「私の彼氏は200歳」)もやりかけで。最初は納期のあるそのへんの制作を進めるために機材を送ってもらって、それが終わってから自分の曲を作り始めました。毎日朝4時に起きて、午前中に1曲作るというペースで」
――病室という制作環境は音作りに影響しました?
「めちゃくちゃ影響しましたね。普段だったらクラブに行って、『今はこういうビートが流行ってるな』とか常に時流を意識して、クラブカルチャーの中で曲を作ってるわけですけど、その2か月半、カルチャーから完全に切り離されていたわけで」
――MaLさんがクラブに行くようになった10代以降、そうやって現場から切り離されたのは初めての経験だったんじゃないですか。
「初めてですね。僕は10代のころ、東京のレゲエ・シーンから入ったので、周りの友人たちはみんなジャマイカ修行しに行ってたんですね。僕はそこにちょっと違和感があって。まずは東京でしっかりやろうと思ってたし、東京から離れちゃうと浦島太郎状態になるんじゃないかと思ってたんですよ。東京から離れたくなかった。のちにPART2STYLEでヨーロッパに行くようになっても、長くて2か月で帰ってこようと思っていました」
――それはなぜなんでしょうか。
「地元を離れると、たとえ2か月とかでも感覚が鈍っちゃうんです。ある意味ちょっとかぶれちゃうっていうか」
――かぶれる?
「そう。僕は常に時流を見ながら音楽に関わってきたと思うんですよ。『今はこういうのがトレンドで』という。そういうアンテナを東京でビンビンに張ってるだけに、ロンドンに何か月もいると、今度はロンドンのアンテナになってしまう。それで日本に帰ってくるとすぐに(東高円寺のDJバー)GRASSROOTSに遊びに行ってました。良くも悪くもあそこが自分の基準で、行くとフラットになれるんですよ。ある意味、東京の中でも一番奥深い場所なので」
――それこそMaLさんだったらヨーロッパに移住して向こうを拠点に音楽をやることだってできたわけじゃないですか。東京のアンテナ持ち続けたいと思うのはなぜなんでしょうか。
「『東京からロンドンに一矢報いたい』という気持ちでずっとやってたんです。向こうの人に認められたいっていう気持ちはもちろんあるんですけど、ロンドン拠点で人気が出てもあまり意味ないというか。地元を盛り上げている中で、ロンドンでも人気があるというのが理想」
――なるほど。
「コロナのこともあるし、怪我のせいもあってこの街にずっといるっていう自分の現状もありますけど、僕が初めて聖地巡礼のためブリストルに行ったみたいに、海外の音楽好きが高田馬場にやってきてBIGBOX(高田馬場駅前の商業ビル)の前で写真を撮るようになったらいいなって。コロナの前からそういう気持ちが高まってたんですよ。
高田馬場にはここ(九州珠)があったり、9SARI CAFEがあったり、グラフィティやスケーターをやってる人たちもいる。高田馬場発信で何かを作っていければと思っていて」
――そういう地元回帰的な方向に向かうきっかけとなったのが入院だった?
「そうですね。その間、クラブにはもちろん行けないし、自分の動きを俯瞰で見るようになったんですよね。僕自身、東京のアンテナを張ってたというよりも、東京にしがみついてたんじゃないかって。自分は今までシーンを作ろうと思ってやってたんですけど、ジャンルや雰囲気にこだわりすぎてたなと思って」
――ベースミュージックならばベースミュージックというジャンルという。
「今はジャンルとか関係ない時代になってますよね。ここのスタッフはほとんど20代ですけど、DJをやってるやつが多くて。話をしていると特定のジャンルのDJという感じでもないんですよね。前だったらヒップホップなりドラムンベースなりカテゴリーがあって、『近いから話せるね』みたいな感覚だったけど、今は若いDJと話していても『音楽』そのものが共通言語になってる」
――理想的といえば理想的ですよね。
「そうなんですよ」
――でも、入院することでそうした活動からは切り離されますよね。
「そうそう。それまではフロアありきの、クラブでかかる音楽を作ってきたわけですけど、病院のベッドで横になってると久石譲の曲が普通にいいなと思えてきたり。YouTubeでいろんな音楽を聞いてる中で旋律のほうに意識が向いていって、病院の窓から見える風景に合う音楽を自然と求めるようになっていきました。
もともとチルな音楽は好きだったし、そういうミックスも出してるんですよ。その延長上という感覚はあるんだけど。ただ、退院したら全然気が変わりましたね(笑)。でかい音でちゃんとしたDJがかけてるのを聞いて、やっぱり格好いいって」
――『Primal Dub』はちょっと80年代の環境音楽みたいなテイストもありますよね。ダンスミュージックのチルアウト的な感覚ともちょっと違うというか。
「今まで作ってたものは多分作れないと思ったんで、この環境で作れることをやろうと思ったときにダブにフォーカスしていったんですよね。空気感を描写するときにダブってすごく都合のいい手法なんですよ。“Powder Snow Dub”っていう曲なんかは、めちゃめちゃ体調が悪くて、エアコンから出てくる冷気が白く見えたことがあるんですよ。それがちょっとパウダースノーみたいに見えて、その寒さをダブで表現しようと」
――病室の風景からいろいろ発想していったわけですね。
「抗生物質って幻覚も見えるし、めちゃめちゃ具合も悪くなるんですけど、そのときのことを描写したのが“Sivextro Riddim”っていう曲だったり。闘病生活で自分に起きていることを表現していった感じなんですよ」
――でも、不思議と重苦しくないですよね。
「早く退院したかったし、幸せになりたいという気持ちが出てるのかもしれない。コロナなので一切の面会も禁止で、家族すら会いにこれなかったんですよ。2か月半、先生と看護師さん以外会ってなかった」
――鍵盤やギターの音も入ってますよね。あれはサンプリング?
「いや、ピアノはほとんど自分で弾いていて、ギターはフリー素材をサンプリングして自分でメロディーを作りました。ここ2年ぐらいいろんな人と仕事させてもらうようになった影響で、そういう作り方もしていて。メジャーアーティストの仕事をしてると、最初に譜面を渡されたりするんです。いつ『俺、譜面読めないんです』と言おうかと思って(笑)」
――すごくいいメロディーですよね。誰かプレイヤーに弾いてもらってるのかと思っていました。
「ありがとうございます。暇だったんで、いくらでもやれたんですよ。入院していたからこそ根を詰めた制作ができたところはあるんですよね。来ないときは外部からの連絡も1週間ぐらいこなかったんで」
――日常と繋がった音楽でもありますよね。だからこそコロナ禍の生活とすごくフィットするという。
「それは自分でも感じました。僕もコロナ禍で家にいることが多くなったことで、家族と仲良くなったんです(笑)。娘たちとの距離が近くなったこともあって、今回長女にトランペットを吹いてもらったんですよ」
――どういう経緯で九州珠のレーベル、HOODISH RECORDINGSからリリースすることになったんですか?
「ぶっちゃけ入院費を稼がなきゃと思って、(九州珠の店主の)マサヤくんに相談したんですよ(笑)。そこからレーベルを立ち上げようという話にまでなって」
――HOODISH RECORDINGSは九州珠とMaLさんの共同レーベルという感覚なんですか。
「僕は近所のおじさんレベルで関われればと思っています。九州珠をやってるマサヤくんは僕の10歳下、スタッフのJAZZ CUZZが20歳下で、世代が世代が離れてる良さを生かしてやっていければと。僕は相談役みたいな立場でやっていければと思っていて」
――ジャンルとしてのシーンではなく、ジャンルレスなコミュニティーを作ろうとしている感じがしますね。
「そうですね。ZEN RYDAZでフィーチャーしている愛染というラッパーがいるんですけど、愛染もここで知ったんです。ここ最近僕が関わってる人はここで会ってる人が多いですね。
ここのスタッフももともとブートのミックステープを作ってたんですよ。居酒屋だけど、パーティーもやれば、ものも作って売っていて。でも、ここに出入りしてるやつのなかでも自分で音源作ってるやつもたくさんいるし、どうせだったらオリジナルを作って、パーティーの沸点で自分たちの曲をアンセムとしてかけられるのがいいんじゃない?という提案を以前からしてたんですよ」
――自分たちの地元で、自分たちの音でパーティーをやる。地産地消じゃないですけど、ローカルなコミュニティーの理想的なあり方ですよね。
「そうですね。僕もここでDJをやるときは全曲自分の曲でやったりしてます。そうやっていくことで、町が盛り上がっていけばいいなって。
ある意味、今までの人生で一番健全に音楽と向き合えてる気がするんですよ。今までは『どうしたら売れるだろうか』『どうしたら盛り上がるだろうか』と考えてたんですけど、今はそういう意識が薄くて。自分の中でいいと思ったらいいよねという。だから、すごく楽しいんですよ」
僕が九州珠を出たとき、時計の針は23時半を回っていた。MaLさんと一杯目の乾杯をしたのは確か17時すぎ。6時間以上もふたりだけで話をしていた計算になるけれど、体感では30分ぐらいの感覚だった。
高田馬場はミャンマー人のコミュニティーがあり、「リトル・ヤンゴン」とも呼ばれている。そのうえ九州珠みたいな場所もあるのだ。僕は千鳥足で駅に向かいながら、次にこの町へやってくる日のことを考えていた。
取材協力:九州珠‐KUSUDAMA‐