僕がやってるのは「シマ唄」ではなく、「シマの唄」なんですよ――奄美大島の「根っこ」を歌う森拓斗
2023年11月、僕は奄美大島にいた。38年前にこの世を去った里国隆という放浪芸人に関する取材をするためで、約1週間、国隆をよく知る親族や関係者に話を聞くべく島の北部と中部を慌ただしく行き来した。死から時間が経過しているため、証言者を探し出すのはなかなか苦労したものの、それでも島に行くまではまったく知らなかった証言を得ることもできた(取材の成果は現在制作を進めている国隆の評伝としてまとめる予定だ)。
国隆は型破りなパフォーマーでもあった。奄美群島や沖縄本島の路上に陣取り、三味線や竪琴を片手に奄美のシマ唄や流行歌、ときにはオリジナル曲を歌った。生涯流転を続け、故郷から遠く離れた沖縄本島北部で息を引き取った。内地のメジャーレーベルからレコードを出しているものの、奄美シマ唄の世界において常にアウトサイダーであり、現在も島では評価が揺れているように感じる。
シマ唄の「シマ」とは奄美大島では「Island」を意味しているわけではない。ヤクザが「うちのシマ」と言うときと同じように、特定の集落/コミュニティーのことを指している。つまり、シマ唄は集落のなかで育まれてきたコミュニティーソングという側面を強く持っているのだ。では、コミュニティーから常にはみ出してきた国隆は、なぜ沖縄に行っても奄美のシマ唄を歌い続けたのだろうか。彼にとっての故郷とはどのような場所だったのだろうか。僕はそうした問いかけの先に、「故郷」のあり方が揺らぐ現代を生き抜くヒントがあるような気がしている。
前置きが長くなった。
今回の取材旅行のなかで、僕にはどうしても会いたい人がいた。それが奄美大島で生まれ、現在も島に住みながらマイペースな音楽活動を続けている森拓斗くんだ。ひと昔前の表現を使えばサーフロック系のシンガーソングライターと言えるかもしれないけれど、彼は三味線片手に奄美のシマ唄も歌う。その歌にはいわゆるシマ唄の唄者とは異なるロック世代特有の感覚が反映されていて、初めて聴いたときには嬉しくなってしまったものだった。
国隆の死後生まれた拓斗くんはもちろん生前の国隆を知っているわけではないし、特別な繋がりがあるわけでもない。音楽的に強い影響を受けているというわけでもないだろう。だが、そんな彼に「シマ」のことを聞いてみたくなったのだ。
拓斗くんはまた、今回の評伝のなかで重要な役割を果たすことになるだろう盛島貴男のことをよく知る人でもある。盛島さんは「現代の里国隆」とも称される人物で、国隆同様、奄美シマ唄界のアウトサイダーであり続けている。僕自身、盛島さんには幾度となく取材をしているけれど、拓斗くんのような奄美の若者が盛島さんのことをどのように見ているのか気になっていた。
取材の現場となったのは、名瀬港のほとりに立つライヴスペース「MAYASCO」。拓斗くんによるとここは「シマのミュージシャンの溜まり場」だそうで、彼はライヴをするだけでなく、自身のバンドである根心屋BANDのメンバーと共にレコーディングやリハーサルもしているのだという。根心屋BANDのメンバー(ギターの盛保道さん、ドラムの武大輔さん、ベースの中村圭太さん、サックスの石原凱さん)も同席するなか、ゆったりとインタヴューが始まった。
いつか島に戻るつもりでした
――拓斗くんは何年生まれなんですか。
森拓斗(以下、拓斗):1987年生まれです。地元は名瀬の幸町っていうところで、父親は(奄美大島北部である)大笠利の出身なんですよ。
――じゃあ、笠利のほうにも子供のころからちょくちょく行ってた?
拓斗:いや、あまり行ってないです。名瀬に大笠利の集落の人たちが集まる郷友会があって、そういう集まりには行ってましたけど。よく八月踊り(註)をやってましたね。
――名瀬の中でも大笠利出身者が多い地域はあるんですか。
拓斗:あります。島は口コミで情報が伝わることが多いので、近い場所に集まるんでしょうね。東京でシマンチュ同士で集まるのと似てるかもしれない。
――八月踊りは拓斗くんの世代でもみんな踊れるんですか。
拓斗:いや、踊れないですね。そもそも歌えないんですよ。八月踊りは男女のかけあい唄なんですけど、何を歌うか、その場で決めるので、ある程度歌詞を覚えていないといけなくて。それが難しいんです。
武大輔:こないだとある集落で種下ろし(註)があって、4軒ぐらい家々を回って八月踊りをやったんですよ。女性陣はみんな歌えるんだけど、男性陣が全然歌えなくて。それが集落の中で問題になったんです。集落の放送で「近年は女性の声は聞こえるけれど、男性の声が聞こえない。今度公民館で練習をやります」と言われていました(笑)。
――そういう集落は多いんですか。
武大輔:増えてるみたいですね。その集落はIターンの人も多くて、そういう人たちのほうが八月踊りを歌えたりするんですよ。
拓斗:移住者のほうが奄美の文化に愛着を持っていたりしますからね。僕なんかより移住者の人のほうが島について詳しいんですよ。僕は19歳で一度島を出ちゃってるので。
――19歳で東京に出たんですか?
拓斗:そうです。(吉祥寺の沖縄料理店である)ニライカナイでバイトをしていました。
――それまで奄美に対してはどんな思いを持ってたんですか。
拓斗:そうですねえ…僕は学生時代、サッカーで一度島を出てるんですけど、挫折して帰ってきてるんですよ。そのころから「やっぱり島が好きだな」と思っていたかも。
――じゃあ、なんで19歳で島を出たんでしょうか。そのまま島に残るという選択肢はなかった?
拓斗:なかったですね。島が好きっちゅうより、友達が好きで。みんな島を出て東京にいたんですよ。先輩たちからも一度島を出て、外を見ておいたほうがいいと言われてましたし。
――でも、いずれ島には戻るつもりだった。
拓斗:そうですね、僕の場合は完全にそうでした。
――音楽活動を始めたのはいつごろ?
拓斗:コピーバンドは中学生からやってました。Hi-STANDARD、BRAHMAN、そのあたりです。ギターの(盛)保道とはそのことからの付き合いなんですよ。(後ろで話を聞いていた保道さんがギターでHi-STANDARD「Stay Gold」のイントロを弾く)
――いまだに弾けるんですね(笑)。
拓斗:2000年はまだ小学生だったので、AIR JAMはリアルタイムではないんですけどね。そのとき出ていたTHE SKA FLAMESに奄美出身のメンバー(ヴォーカルの伊勢浩和とパーカッションの中須章仁)がいることも最初は知らなかった。
――当時、伊勢さんたちは奄美出身であることアピールしていたんですかね。
拓斗:どうなんでしょうね。ただ、僕らより上の世代の人たちは奄美出身と公言するのはマイナスイメージを持たれることもあって、あまり言わなかったんです。奄美大島出身といっても知らない人が多かったので。
武大輔:俺は高校から島を出たんだけど、そのころは東京の飲み屋でも黒糖焼酎を置いてるところは少なかったし、初対面の人に出身地を聞かれて奄美大島と答えても「奄美大島って東京だよね?」と言わてて。
――伊豆大島と勘違いしてるわけですか。
武大輔:そうなんですよ。めんどくさいので九州出身と答えるようにしてました。
盛保道:「奄美って沖縄でしょ?」と言われたこともあった。
武大輔:それも多かった。20年ぐらい前、元ちとせさんの「ワダツミの木」が売れて一気に変わりましたね。それ以降で奄美大島が知られるようになったところはあると思います。僕はちょうどそのころ東京にいたので、その変化を感じていました。
――拓斗くんが上京したのは2000年代半ばだから、「ワダツミの木」以降ですよね。
拓斗:そうですね。そのころはもう「奄美っていいよね」と言われるようになりました。
――拓斗くんが保道さん・西平せれなさんとONE SOULというグループを始めたのは2008年ですよね。
拓斗:ONE SOULは上京して少ししてから始めました。メジャーのミュージシャンになるつもりで、事務所に入るためにオーディションも受けてましたね。
――ただ、ONE SOULの活動は短期間で終わってしまいます。
拓斗:僕、片親だったんですけど、親父が癌になっちゃって。CDのリリースやラジオ番組の話もあったんですけど、俺が世話をしなきゃと思って島に帰っちゃったんですよ。それが2009年。帰ってきてすぐに奄美大島で皆既日食があって、島が盛り上がっていたことを覚えています。
――それからずっと奄美?
拓斗:いや、それからもいろいろあって。奄美に帰ってきたら次の日ぐらいに親父が死んじゃったんですよ。東京に戻ろうと思って東京の友人たちに相談したら、彼らから「オーストラリアがおもしろいよ」という話を聞いて。それで東京に戻らず、オーストラリアに2年行きました。日本をしばらく離れるということで自分のCDを作って、それを向こうに持っていったんです。
――それがファーストアルバム(『SLOW LIFE』)?
拓斗:そうですね。
――オーストラリアではどこを拠点にしていたんですか。
拓斗:農場でバイトをしながらずっと移動してましたね。そのころは路上で歌ってたんですけど、そもそも日本語しか歌えないし、英語もそんなに喋れない。今思うと楽しかったんですけど、当時は辛かった。結構めちゃくちゃな生活でした。
――帰ってきたのが2012年?
拓斗:そうですね。向こうで今の奥さんと出会って、子供ができたのでここ(奄美)に帰ってきました。
――音楽をやることを前提に島に帰ってきたわけですよね。
拓斗:いや、それが音楽をやめようと思ってたんですよ。結婚したし、手に職をつけなきゃと思って。でも、帰ってきたらどでかい凱旋ライヴを勝手に企画されてて(笑)。
――自分が知らないうちに?
拓斗:そうなんですよ。オーストラリアに行く前に作ったCDを島の人たちが聴いてくれたみたいで。だから、音楽をやめようと思ってたんだけど、やめれなくなってしまった。
僕が聴いてぞわぞわするかどうか
――今のバンドを結成し、Nekko Recordを立ち上げたのが2019年ですね。根心屋BAND、Nekko Recordと「根っこ」がテーマになっているわけですが、何かきっかけがあったのでしょうか。
拓斗:オーストラリアに住んでいたころ、そもそ日本でも何もやってないし、奄美でも何もやっていないことに気づいたんですよ。そのなかでアボリジニがディジュリドゥを吹くように、自分にとっては島口(註)で歌うのが自然じゃないかと考えるようになったんです。
実際島に帰ってみると、自然から受ける影響の大きさにあらためて気づかされました。奄美の神様が降り立ったと言われる節田立神(註)という場所があるんですけど、そこでライヴをやったことがあって。そのときは体調が悪くて声が出ない状態で会場に行ったんですけど、後ろから風がびゅんびゅん吹いてきて、自分じゃないぐらい声が出たんです。島のエネルギーってすごいなと思って。
――それが原体験になった?
拓斗:そうですね。そのころユタ神様(註)にも相談したことがあるんですけど、「そういう力を感じられる感覚があるから力に変えられるんだ」ということを言ってもらえて。そのころから奄美の本をめちゃくちゃ読み出しました。
すぐそこにあまみ庵という古本屋さんがあるんですけど、店主の森本さんに節田立神の体験について話したんですよ。そうしたら、「これ読んでおけ」と渡されたのが清眞人さんの『根の国へ 秀三の奄美語り』という本で。根の国っていうのはネリヤカナヤ(註)のことを指してると思うんですけど、その本を読んだときに「根っこ」というテーマが浮かんできて。自分の活動で島を盛り上げていく覚悟が決まったんです。
――さっきリハでもやってた「行きゅんにゃ加那」はいつぐらいからやってるんですか。
拓斗:奄美ではみんな小学校ぐらいであの曲を習うんですよ。
――えっ、そうなの?
拓斗:みんな音楽の授業で習うんです。僕も授業で三味線を習いましたし。
――そういう教育は世代によって違いますよね。昭和30年代に名瀬で育った盛島さんは、「学校では方言を喋っちゃいけなかった」と言ってたけど。
拓斗:僕らはその逆でしたね。方言弁論大会があったし、奄美の文化を学ぼうという教育を受けていました。
――「行きゅんにゃ加那」をバンドアレンジするにあたって難しかったことは?
拓斗:そこに関しては、専門的な音楽理論を学んだ保道の存在が大きいですね。彼が考えたアレンジが元になっていて、判断基準としては僕が聴いてぞわぞわするかどうか。島唄に詳しい人が聞いたらめちゃくちゃだと思うんですよ。歌詞も変えてますし。
――ただ、好き勝手にアレンジすればいいわけではないですよね。守らないといけないものがある。
拓斗:そうですね。やっぱり、拍ですよね。単純な四分の四拍子ではないという。
――四分の四拍子でやると、拍が余ったり足りなくなってしまうわけですね。奄美にかぎらず、西洋音楽的発想で作られていない民謡なんかではよくある話ですが。
拓斗:シマ唄の場合、歌を四分の四できっちりやると、どうも間伸びしちゃうんですよ。だから、自分は基本的にシマ唄をそのまま歌っているだけです。メンバーが合わせてくれている。そこはうちのメンバーがシマ唄のことをある程度理解していることも大きいと思いますけど。
「おもしろいものだから参加したい」ということが大事
――今年は「行きゅんにゃ加那」のレコードも出ましたけど、一枚一枚に泥が塗られていて驚きました。
拓斗:あれは紬の糸を染める泥を染色屋さんからもらってきて、僕とデザイナーの2人で300枚塗ったんですよ。サブスクでも音楽を聴ける今、意味のあるものを作りたかったんですよね。レコードを手にする人たちの色に染めてほしくて。あと、コロナで他の場所にも行けなかったので、島で何ができるのか一度やってみたかった。
――現代においてローカルで音楽をやる意味とは、どういうところにあると思いますか。
拓斗:時代が変わりつつあるんだなとはよく思います。シマ唄に対して僕自身が思うのは、凝り固まったところがあると思うんですね。枠を定めすぎると、そこに入れない人たちが出てくる。正直、枠を壊したほうがいいなと思っていて。
――枠というのは、ジャンルということ?
拓斗:ジャンルもそうだし、「シマ唄とはこういうものだ」という固定概念自体、考え直したほうがいいと思うんですよ。それでも残るものは残ると思うので。
シマ唄もそうだし、八月踊りみたいな集落の行事もそうですね。「大切なものだから残さないといけない」という思いも大事だけど、「おもしろいものだから参加したい」ということが大事だと思う。こうしないといけない、ああしないといけないとルールばっかり作っていくと、島の人でも入っていけない。だから、島唄の魂を考え直すわけじゃなくて、島唄を取り巻くシステムを考え直したほうがいいんじゃないかと思っています。楽しいところにみんな集まりますからね。
――盛島さんや彼の周りにいる諸先輩方はまさにそんな感じですよね。枠がなくて、何でも自分たちでやってしまう。
拓斗:まさしくそんな感じですよね。島の先輩たちは僕らが何かをやろうとすると、いつも「やれやれ!」と応援してくれるんですよ。「こうしろ、ああしろ」ではなくて。一緒に作っている感じがするんです。
――島の人たちはみんなあんな感じなんですか。盛島さんたちが特別?
拓斗:ちょっと変わってるかもしれないけど(笑)、集落の中だとみんなああいう感じですね。仕事とか抜きにして応援してくれる。家族みたいな感じなんですよ。
――お互いがサポートし合うような?
拓斗:そうですね。そういう精神はすごく残っていると思います。
――ところで、拓斗くんが盛島さんに初めて会ったのはいつごろなんですか。
拓斗:十代のころですね。そのころ(奄美のライヴハウスである)アシビでバイトをしていて、「しいたけを作ってる変な人がいるよ」という話を聞いて会いに行ったんですよ。当時の貴あには国隆うじの真似をしながら集落で弾いているぐらいで、どこか舞台で演奏していたわけではなかった。そういえば、初対面のときに国隆うじのCDを全部渡されましたね。「全部聴け」と。
――そのころはまだ奄美でも盛島さんは知る人ぞ知る存在だった?
拓斗:そうですね。島の中だけで噂になってたんですよ、変わった人がいると。そのあとでハシケンさんとかスティーブエトウさん、遠藤ミチロウさんが訪ねるようになった。
――拓斗くんは島外でのツアーも頻繁にやってますよね。奄美出身の方々がそれぞれの土地でサポートしてるんでしょうか。
拓斗:いや、むしろどこかでツアーをやるときは、その土地に住む島の人にあえて連絡しないようにしてるんですよ。
――えっ、それはどうして?
拓斗:最初は奄美の繋がりで内地に行っていたんですけど、島を出てまで鶏飯や黒糖焼酎だと、島を出る意味がないと感じて。その土地の風土を味わうためにローカルの人たちに会いに行くようにしています。
――なるほどね。北海道でもツアーをやってますよね。あれも奄美出身者の方がオーガナイズしているわけではない?
拓斗:違いますね。「根っこ」という言葉に辿り着いたとき、アイヌのことを調べるようになったんですよ。それで一度北海道に行って、「アイヌモシリ一万年祭」という祭りをやってるアシリ・レラさんと会いにいって。そこでちょっと歌わせてもらったんですけど、アシリ・レラさんに「あんたもアイヌだね」と言われて。そのときに自分自身の凝り固まった考えから解放されたんです。
――それが今の拓斗くんの土台になってる。
拓斗:そうですね。自分はシマ唄をやるというより音楽をやろうと思うようになりました。僕がやってるのは「シマ唄」ではなく、「シマの唄」なんですよ。
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2023年12月、森拓斗&根心屋BANDが関東3か所でライヴを行う。彼らの魅力はやっぱりライヴにこそある。黒潮のように大らかなグルーヴに揺れているうちに、荒み切った自分の心が鎮まっていくような気さえしてくるのだ。この長いインタヴュー記事を最後まで読んでくれたあなたにもぜひそんな体験をしてほしい。
●2023年12月14日(木)
東京・吉祥寺World Kitchen Baobab
Open 19:00
Start 20:00
入場料 ¥1,000+投げ銭
LIVE:
森拓斗&根心屋BAND
奈良大介
DJ:
大石始
Yatchan(黒糖Rockers Crew)
貴子(黒糖Rockers Crew)
東京都武蔵野市吉祥寺南町2丁目4-6 小原ビルB1F
Tel:0422-76-2430
●2023年12月15日(金)
東京・渋谷THE HAPPYmAN CHEAKS
Open 19:00
Start 20:30
入場料 ¥1,000+投げ銭
LIVE:
森拓斗&根心屋BAND
カズキクチ×足立PANIC壮一朗×gnkosai×スパイシーマリコ
DJ:
YoshitakaHarada
THE HAPPYmAN CHEAKS
東京都渋谷区渋谷2丁目11-14 メインステージ青山B1
●2023年12月16日(金)
神奈川・江ノ島Oppa-la
Open 15:00
入場料 W/F ¥2,500、当日 ¥3,000
LIVE:
潜伏期間
gnkosaiBAND
森拓斗&根心屋BAND
DJ:
kacchi nasty
Latin Quarter(PanPacificPlaya)
タカラダミチノブ
Jyotaro(焚火dub)
asa(The Pink Peppers)
MUSE
PA:
hayashi sound
FOOD:
TETTAGOHAN
江ノ島Oppa-la
神奈川県藤沢市片瀬海岸1丁目12-17 江の島ビュータワー4F
TEL:0466-54-5625