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『南洋のソングライン 幻の屋久島古謡を追って』を書き終えて――もうひとつの「あとがき」

 自分のことを語るのはあまり好きではない。インタヴュアーとして多くの人々と向き合ってきたためか、どうも聞き手としてのスタンスが身について離れないところがあるのだ。友人たちと酒を呑んでいてもいつのまにか聞き手に回ってしまうし、いい年をして「僕の話なんか誰も聞きたくないんじゃないか」という中二病めいた思いが拭えないこともまた、自分語りが苦手な要因ともなっている。
 2022年11月に刊行された著作『南洋のソングライン 幻の屋久島古謡を追って』でも、その点は変わらない。屋久島を旅しながら自分のなかに湧き上がってきたものを綴ることはあっても、僕がどんな半生を歩んできたのか、個人的なことはほとんど書いていない。そもそもこの本は他者の個人史をできるだけ真摯に聞き取り、綴ることが重要なテーマである。そのため、僕のことなど普段以上にどうでもよかったのだ。
 だが、個人史の集積といってもいい本書を書いた僕がどんな人間なのか、どこかで記しておいたほうがいいような気もしていた。人のことを根掘り葉掘り聞くくせに、お前はどんなやつなんだ。自分のことも少しぐらい書いておけ。「まつばんだ様(詳しくは本書にて)」に問い詰められているような感じがした。
 ここでは僕が屋久島という摩訶不思議の島に辿り着いたいきさつについて少しだけ触れつつ、本書の最後に記されたものとは別ヴァージョンの、もうひとつの「あとがき」を残しておこうと思う。

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 『南洋のソングライン』は、僕にとって6冊目の単著となる。もちろん今までの5冊もそのとき自分の持てるものをすべて注ぎ込んだし、その点に関しては嘘偽りない。
 だが、この本は僕にとって特別な一冊となるだろう。企画を依頼する際、編集の国本さんは「大石さんの代表作を作りたい」という殺し文句を口にしていたものだった。実際、本書が代表作になるかどうかは現時点ではわからないけれど、僕は少なくともこの本を自分の代表作となるべく書いた。そんな覚悟を持って著作の執筆に挑んだのは初めてのことだった。

 特別な本となった理由はいくつかある。
 まずなによりも、僕はいつかこんな本を書いてみたかったのだ。何らかの謎を解くべくある地からある地へと渡り歩き、背景にある広大な世界を浮かび上がらせる、そんな物語を。
 そうしたイメージは子供のころから頭の中にあったと思う。父親が絵本の編集者をやっていたこともあって、幼少時代の僕の部屋にはたくさんの絵本が並んでいた。民話や神話をモチーフとした国内外の絵本に没頭したものだし、「ニルスのふしぎな旅」や「ガンバの大冒険」といったテレビアニメも大好きだった。僕もいつの日かガチョウの背中に乗って旅をしたり、仲間とともに島から島へと渡り歩いてみたい。そんなことを夢見る小学生だった。
 やがて興味の対象は映画に移り変わっていった。美大卒業後、現在の映画美学校の前身で映画を学んだ。時間だけはいくらでもあったので、級友たちと競い合うように劇場に足を運んだ。名画座の特集上映をハシゴし、朝までかけて10本の映画を観たこともある(それが正しい映画鑑賞の仕方だとはとても思えないけれど)。
 小川紳介やフレデリック・ワイズマンの作品をきっかけにドキュメンタリー映画の世界にのめり込み、23歳のころ、とあるドキュメンタリー制作会社の入社試験を受けた。本採用とはならなかったものの、提出した企画に関心を持ったプロデューサーの計らいで、その企画を番組化するための取材を進めることになった。
 結局、番組になることはなかったその企画は伊豆諸島の御蔵島を舞台としたもので、島に自生する巨樹に関わる人々を追った人間ドラマであった。今思うと、その世界観はどこかで『南洋のソングライン』と繋がっているようにも思える。
 その後の僕は映画やドキュメンタリー制作の道に進むことを諦め、子供のころからどっぷり浸かっていた音楽の世界に進んだ。音楽ライターとしてそれなりに仕事をする一方で、いつの間にか日本のフォークロアをテーマとする文筆家となり、そうした題材で何冊かの著作を書くことになった。
 23歳のときは自分の未熟さから御蔵島の企画を形にすることはできなかったけれど、子供のころから夢見ていた物語をようやく書き上げることができたのだ。『南洋のソングライン』の現物を手にしたとき、胸の奥から込み上げてきたのは、過去やり残したことを実現することができたという喜びでもあった。

 ただし、『南洋のソングライン』の取材・執筆にはなかなか苦戦した。たびたび「本当に本になるのだろうか?」という思いが頭をもたげ、途中で何度も心が折れそうになった。完成までは約3年の月日を要したが、途中で休憩所で倒れ込んだり、国本さんや妻といった伴走者に泣きついたり、ゼッケンを外しかけたりしながらの泥臭いゴールであった。過去の著作のなかでも一番の難産だったといえる。
 これまでの著作の場合、僕が企画を立て、出版社に持ち込むことが多かった。刊行までのプロセスは綴ると、だいたいこんな感じになる。

(1)企画構成案作成のためのリサーチ
(2)完成した企画構成案を出版社に提出
(3)企画通過後、担当編集者と構成を練り上げる
(4)構成案をもとに取材と調査を重ねる
(5)執筆
(6)校正作業ののち、校了

 こうした場合、企画構成案が完成した段階である程度ゴール地点は見えている。もちろん取材を重ねることで新しい視点が与えられ、構成が大きく変わることもあるし、企画段階で立てていた仮説を見直す必要に迫られることもある。だが、全体の方向性そのものがガラリと変わることはない。一度走り出してしまえば、そこに向かって突き進むだけだ。
 対して今回の『南洋のソングライン』の場合、キルティブックスの国本さんによる「〝まつばんだ〟の本を書きませんか」という執筆依頼から始まっているわけで、スタート地点から違う。そのうえ〝まつばんだ〟という謎めいた古謡に関する先行研究はあまりにも少なく、歌とその背景にあるものについて語ることができる島民も少ない。「〝まつばんだ〟の本」といってもゴールがどこなのか、そこまでの道順がどんなものなのか、そもそもゴールなるものが存在するのか、僕はもちろん、企画者である国本さんさえまったく見えていなかったのだ。
 そのため、当初の僕らは直感に任せて取材とリサーチを重ねるしかなかった。途中でひとたびゴールらしきものが見えてもそれを覆すような証言と出会ってしまい、再設定したことも何回かあった。明確なゴールが見えたのは取材がすべて終わり、ある程度執筆が進んでからのことだ。   
 だが、進むべき道のわからないまま、直感に任せて「南洋のソングライン」を辿る楽しさは格別のものだった。集められた証言と資料に向かい合い、思考し続けたその時間こそが「物語を綴る」うえで大切だったのだとも思う。
 本書のなかでは分岐点を前にして途方に暮れる様もそのまま描かれている。迷い、悩みながら、わずかなヒントを手がかりにソングラインを辿っていく。この本を手に取ってくれた方々もまた、僕が味わったそうした楽しさをいくらかでも感じてくれると嬉しい。

 もうひとつだけ、自分のことを書いておきたい。
 本書に限ったことではないけれど、僕はひとりの文筆家として取材対象の人物や土地との「距離」を常に意識するようにしている。今回で言えば、言うまでもなく僕は屋久島の人間ではない。島にルーツがあるわけでもないし、生活者ですらない。数度にわたって島に滞在しただけの「異邦人」にすぎない。
 そんな僕が屋久島の歴史に深く潜り込み、島民や〝まつばんだ〟に関わる人々の心情や人生を綴るのである。他者の歴史を自分のものとして語る暴力性については、音楽ライターとしてアフリカやラテンアメリカの音楽文化に向かい合うときも常に意識していたが、ここ数年、芸能や地域を主題とする沖縄県立芸術大学のプロジェクトに関わったことにより、その語り方にはかつて以上に慎重になった。東京のような都市部に住む人間が沖縄や東北のことを語るときに垣間見える搾取の感覚に苛立ちを覚えることは多いが、では、自分が同じことをやっていないと本当にいえるだろうか? 無意識のうちに誰かの足を踏みつけていないだろうか?
 屋久島の山深い世界のなかで迷子になりながら、そうやって自問自答し続けていた。僕の場合、そうしたプロセスを経ることなく、個人史の集積としての「他者の物語」を綴ることはできなかったのだ。
 屋久島とそこに住む人々の物語を語るのは簡単なことではなかった。本が刷り上がった今もなお、本当の意味でゴールすることができたのかどうかわからないけれど、「やれることはやった」という達成感はある。文字数は予定を大幅にオーヴァーし、あれやこれやと国本さんに苦労をかけることになったけれど、屋久島の神々と「まつばんだ様」に対して自分なりの「筋」を通すことはできたのではないだろうか。いまだ確信をもてないままではあるけれど、そんな気はしている。

 なお、今回は表紙の挿画・挿絵をnakabanさんに、装丁・デザインを宮澤大起さんにお願いした。nakabanさんは本書のなかで幾度となく言及している詩人・山尾三省の著作の挿画も手がけている方で、〝まつばんだ〟の背景に広がる屋久島の海と山の世界を想像力豊かに描き下ろしていただいた。宮澤さんのデザインがその世界観を丁寧にまとめている。自分でもとても美しい本だと思うし、おふたりのお力がなければこの本は「特別な一冊」にはならなかっただろう。
 なんだかんだいって、これだから本作りは楽しい。2015年に『ニッポン大音頭時代』を書き下ろしたときは心労から円形脱毛症になったりしたが、この雑文を書いている今もまた、僕は性懲りもなく次の書籍の企画を立ち上げようとしているのである。



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