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ゾウの墓に木を植える

年末年始は調査先の倒れたゾウのことが気になって、休みなしで彼女の元へと向かった。
ホストマザーからは年末年始を家族と過ごせないくらい調査先の仕事が忙しいのかとぼやかれた。いつもならホストマザーの気持ちに配慮して「やっぱり行くのやめようかな」と言ってしまうところだが、今回はどうしてもそれが出来なかった。

もう何ヶ月もの間、治療中におやつをあげていた私に対する彼女の態度は、けっこう傲慢だ。
近づくと鼻を伸ばしてきて、私だと確認すると「さぁ、くれよ」と言わんばかりの顔で私を見てくる。たまに記録用の写真などを撮っていてすぐに応えないと、「早く」と急かすかのように私の履いているクロックスを鼻で思いっきり吸ったり、身体に鼻を巻き付けてくる。
倒れたとは言っても、筋肉で出来たゾウの鼻は人間の一人や二人くらいどうとでも出来てしまうだけの力がある。だから、毎日彼女の機嫌を伺うことは欠かせない。

これだけ長く一緒にいると色々なことが見えてくる。
彼女は治療中におやつをもらうのが好きなんだろうと思う。

彼女が倒れる前まで、治療中はゾウ使いが寄り添い、スタッフも集まってきて、彼女に話しかけて、おやつをあげた。
彼女は誰がいるのか一人一人に鼻を伸ばして確認する。ちょっかいを出すのが好きな獣医には、ちょっかいを出し返して髪をつまんだりする。面倒見の良い検査技師には、しっかり挨拶をする。ちゃんと誰が誰かわかっている。
この時ご機嫌なのは、彼女の仕草を見ればわかる。
治療を終えて私たちが移動すると、彼女も一緒に来たそうにしていた。

彼女が倒れてから、治療に当たっているスタッフたちの間で、私がおやつをあげると他の人があげる時よりよく食べるということがよく話題にあがった。
これはなぜなのか?
ゾウと言葉を交わして話が出来るわけではない私たちが、それを明確に説明することは難しい。けれど、きっと治療を受けながら、みんなに囲まれて、おやつをもらっていた彼女の好きだった時間を思い出すからではないだろうか。

人が好きで、食べることが好きな彼女のことが、私たちは大好きだった。

その日の朝、私はいつものように彼女に挨拶をしてから、鼻に触れた。

いつもとは違う呼吸の音。
いつもより感覚を研ぎ澄ましている。
いつもより少し気怠げ。

戸惑って、私は彼女の鼻に触れたまま彼女をじっと見つめていた。
ゾウ使いに声をかけられ、はっとして鼻から手を離した。

スタッフたちが治療をしている間、いつものようにおやつをあげた。
彼女はそれを口に入れるけれど、噛もうとしない。一つ食べるのにものすごく時間がかかる。
でも、私がもういらないのかなと思って次のおやつを準備しないでいると、「何サボってんだよ」とでも言いたげな顔で、鼻を伸ばしてくる。だから私は彼女の前でおやつを持って待機して、彼女がおやつを食べ終わったところで、口に入れた。

その時、私は彼女が何か訴えているように感じていた。けれども、それがなんなのかはっきりと言葉に置き換えることが出来なかった。
その日、私は何度も彼女の元に足を運んでは、おやつがいるか訊いてみたり、水を飲むか訊いてみたりした。
とにかく、彼女のことが気になって仕方なかった。

その日の午後、彼女はゾウ使い夫婦とスタッフたちに囲まれて静かに息を引き取った。

それは、本当に静かで、彼女の最期の呼吸の後も、彼女がもう息をしていないことが信じられなかった。
誰もがこのタイミングだなんて思ってもいなくて、でも誰もが近いうちにこの日が来ることを知っていた。

私は、たぶん、彼女がいつもよりも体調が悪そうにしていることを感じていた。私だけではなくて、それぞれのスタッフもそれを感じていた。それは、言語化出来るほど明確なものではなくて、直感に近いものだった。
私たちそれぞれが、それぞれに感じていたことを共有したのは、彼女が亡くなったすぐ後だった。

たくさんの「もし」が生まれた。

もし今日はいつもより体調が悪そうだと獣医に言葉にして伝えていれば。
もし今朝もっと彼女の好きなものを食べさせていれば。
もし治療するときにもっと優しく対応していれば。

でも、その「もし」が、彼女にとって望ましいことだったかどうかは、私たちにはわからなかった。
この何ヶ月もの間、ずっとそれぞれがそれぞれに葛藤してきた。

あるスタッフはこう言った。

「今日逝かなければ、明日逝くだけだ。明日逝かなければ、明後日逝くだけ。昨日逝かなかったから、今日逝った」

彼女に直接かかわった誰もが、最後の最後まで、何が「正しい」のか、何が「善い」のか悩みながら彼女に応えてきた。これまでに何度も話し合ってきたし、何度も涙を流してきた。
だから、気持ちの落とし所なんてなくて、ただそれが「今日」だったことを受け入れるしかない。

私たちはもっと彼女と一緒にいたいと思っていたし、彼女がこの先もずっといるんじゃないかと心のどこかで期待していた。
その一方で、もう十分頑張ったから、ゆっくり休ませてあげたいとも思っていた。
揺るぎのない「正しさ」や、キレイで、一貫したことなんて何一つなくて、あるのは矛盾と模索だけ。

それが現実。

これが私がフィールドを離れても絶対に忘れたくないもの。

翌日、彼女の葬儀が行われた。
感染症にかかっている可能性も無きにしも非ずであったため、彼女は調査先の敷地内に埋葬されることとなった。
私が以前親しくしていたゾウも眠るその場所は、今ほど開発が進んでいなかった時代の森の面影を残す場所だ。
墓標もなく、土がこんもりと盛り上がっているだけのゾウの墓場は、どこか寂しげだ。

葬儀のあと、私たちは彼女の身体状況を確認した。
多くの場合、この作業の間に葬儀の参列者は帰ってしまうのだが、その日、確認がどれだけ長引こうと、雨が降り出そうと、参列者は帰ることなく、その場に残っていた。

作業が終わり、彼女を埋葬し、ショベルカーが土を平すと、参列者がショベルや鍬を手にして、ぞろぞろと彼女の埋葬地へと歩き出した。
参列者たちは、彼女の埋葬されたそこに、木や花を植え、彼女が大好きだったおやつを置いた。そして、その周りに彼女が使っていた台の木材を使って柵を作り、鉄線を巻いた。

スタッフたちは、「こんなの初めてだ」と口にした。

私はその参列者たちが、ゾウ使いの夫婦の親戚ではなく、彼女と面識のある人たちだと気づいた。
彼女は小さい頃、ゾウがいない村で暮らしていた。村の人たちはゾウ自体が珍しかったこともあり、子どもだった彼女の元をよく訪れた。一緒に遊んで、おやつをあげて、大事に大事に育てられた。旦那さんが出稼ぎに行っている間も、奥さんと近所の人たちが彼女の面倒を見てきた。そうやって小さい頃から人に囲まれて育った彼女は、わがままだが、人が大好きなゾウになった。
そんな話を、以前ゾウ使いの奥さんから聞いた。

参列者は口々に、小さい頃はどうやって面倒を見て良いかわからなかったとか、ゾウ使いのことを彼女が心配していてどっちが親だかわからなかっただとか、彼女はあれを食べるのが好きだったとか、彼女との思い出を語っていた。

私たちはそっとその場を後にした。

ゾウの墓に木を植える。
その木は元気に育つかもしれないし、枯れてしまうかもしれない。

彼女のゾウ使いは数日に一度、彼女のお墓に植えた木に水をあげにくる。
彼女のゾウ使いが来ない日、私はこっそり水をあげている。
この前、獣医にバレて、それからは一緒に水をあげに行っている。

彼女がいなくなったからといってこの物語(ストーリー)は終わるわけではない。
彼女の物語は、きっとこれからもまだまだ続いていく。

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Tomoko Oishi
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