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電車に乗る

定期券を読み込ませるときは、いつも疎外に対する微かな緊張感がある。
車掌が笛を吹く。
電車の扉が開く。
自転車にまたがる。
今朝は、見慣れない乗客が二人いる。
トイレに立ち寄り、鏡の中の自分を見つめる。わたしの目は、わたしを見る他人のそれになっている。
階段を上る。
駐輪場に自転車を停める。
大学生とOLの間の座席に座る。
いつもの二人のサラリーマンが、ポケモンGOの話題で盛り上がっている。
改札を通る。
売店の前でいつもの女の子とすれ違う。わたしの前に座っている初老の男性は、イヤホンのコードが外れていることに気付いていない。
私立大学の送迎バスとすれ違う。
ホームで電車を待つ。わたしは前から6人目で、扉が開くのを待っている。


わたしは、わたしの死を記述する。
しかし、死を記述するとは、何を書くことだろうか。それは、わたしが見たもの、触れたもの、感じたものについて記述することである。
それは、決してわたしの生ではない。「生きる」という言葉には、欺瞞的な響きがある。「生きる」ことは、人を罠に嵌めてしまう。観念論の袋小路で絶対知を求めても虚しい。
わたしは生きているのではない。生は、死から遡行的に見出されるものであり、わたしの目に映るものはわたしの死だけだ(そういえば、観念論とは遡行的なものだった。死に抗する為の内省。弁証法の機能は過去にしかない)。
わたしは、日々死んでいく。
歩く。死ぬ。
食べる。死ぬ。
電車に乗る。死ぬ。
珈琲を淹れる。死ぬ。

わたしの過去は、わたしを何者にもしなかった。
そのことに、今ようやく安心する。

「生きる」は、「死ぬ」の対義語ではなく、もちろん同義語でもなく、死を欺瞞的に飾るための修飾語だ。生きようとすることは、世界を舞台に、人々を役者に変えてしまう。

#電車 #哲学 #ヘーゲル #アルトー

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