見知らぬ土地に対して、費やすべき適切な時間【2015.03 大山】
高校時代のサッカー部の同期より、一緒に山に登りたいと連絡があった。後に鬱になってしまう彼だが、このときはまだ何事もなく元気にラーメン太りをしていた。気心の知れた友人といえど、その生活の全てを知っているわけではなく、はたまた目には見えない心の内を全て見透かしているわけでもなく、やっぱり他人は他人であって、まさか彼が鬱になるなんて思ってもみなかったのが正直なところである。
ぼくは何かしてやれるわけでもなく、寄り添ってやれるほど身近には住んでおらず、細やかな気遣いができるほど繊細でもなく、ただただどこまでも友人であることを姿勢として持ち続けることにした。それは、当時の登山記録を振り返ってみても明確な事実として随所に垣間見られた。
彼の誘いを受けて、私は初心者でも登れる関東の魅力的な山を調べた。登り応えがあり安全、なおかつ登山を続けたくなるような魅力のある山。私は丹沢山系の大山という山を選び、念入りに登山計画を練った。丹沢山系や富士山、相模湾まで見渡せる好展望の山。ケーブルカーも走っており、万が一の怪我や体力不足にもリカバリーが利く。麓には温泉地が並び、下山後も山を楽しめる。積雪もそう多くはないため、ちょっとした雪山気分も味わえる。大阪から夜行バスに乗り込み、神奈川で下車。そこから電車を乗り継いで、小田急線伊勢原駅にて友人と合流した。
なんてことはない、近所の山に登る気分だ。初めての関東の山、初めて登る友人。それは未知の領域であるはずだったが、山の登るまでにかけた適切な時間が山との距離を縮めてくれた。夜行バスに乗り、電車を乗り継いで、バスを乗り継いで、ゆっくりと時間をかけて山に近づいたことで、気持ちがおいていかれることなく、地に足ついた状態で登山口に着いた。なにより高校来の友人がいることで、未知も未知でなくなり、穏やかな気持ちで山へと一歩を踏み出せたのだ。
抜群の快晴。山頂に着いても、ああ、こんなところまで来てしまったのかという哀愁を感じることなく、終始穏やかな心身の運びができた。山との間にある心理的な距離も、物理的な距離も、それを縮めるための適切な道程があるのかもしれない。費やすべき適切な時間があるのかもしれない。この日の内的な満たされ方は、たしかな手応えとして今なお残っており、人間が自然と関わる上でのひとつの答えが眠っているような気がしている。
それは大げさなことでも何でもなくて、自然に対して適切な時間を捧げ、科学的で合理的な準備を整え、恐れることも奢ることもなく、大切な家族・友人とともに自然に向き合うこと。穏やかに広がる初春の青空と、雄大に聳える富士山に似つかわしい、穏やかで甘い結論かもしれないが、私はこのときの内的平衡感を信じたいと思う。
花のように咲き、花のように待つ。
波のように立ち、波のように消える。
風のように柔く、風のように去る。
それが願いです。