日記 2025年1月25日


 リアルタイムに、その時考えていることを書き残すことは、日記と異なるのだろうか。今は昼の11時。
 例えば、今俺は「今日何か買うべきものがあるか」を考えている。候補は次の通り。
・青春爆走2巻 特典付き
・コミケへの聖歌 …東浩紀が激賞しているから。
・キースイッチ …HHKBのバックスペースキーが今朝まで完全に壊れていたから。しかし何故か急に調子が良くなり、暫くは買わなくていいかもしれない。
・スーツ …そろそろ欲しい、が、高いし、試着が面倒だし、買っても直ぐには家に来ない。
・インスタントコーヒー(ハマヤを買うか迷うね)
・クリームシチュー味の焼きそば
・柔軟剤 結構尽きて来た

 あと、洗濯はひととおりやらねばならない。
 それと、木・金の議事録を完成させることなど、平日の残務はやる必要があるので、気合を入れて、どこかカフェないしはラウンジで作業をする必要がある。できれば近所のカフェなどで済ませられると、お金もそこまでかからない。コワーキングスペースの探索を改めて行うか。

 夜22時に帰宅。結局、上記リストのうち実現できたのはインスタントコーヒーだけ。代わりにいくつかの出会いと発見を得た。

 錦糸町のカフェ「チャンプ」に行こうと友人に誘われた。行ってみると、Googleレビューの通り本当に電波が通じなかった。
 お茶の良さを、コーヒーを飲みながら友人が語る。特に、湯飲みの良さについて。コーヒーカップ=磁器のコントロールされた美しさと、湯飲み=陶器の偶発的な美しさ。
 俺は自分の、時間芸術へのスタンスを友人に説明。俺は映画などを見るとき、途中で気になったことに気を取られ、映画館なら途中の会話の流れを聞き逃してしまう(仕事の会議でも聞き逃しは多発する)。家で見てると、気になったことにそのまま脱線してしまい、映画は見れなくなってしまう。
 
 その瞬間に気になったことを、友人は、映画が終わってから、覚えていれば調べるし、忘れていればそれまでのことだったとして割り切るという。しかし俺にとって、その瞬間の突発的な発露は特殊で掛け替えのない貴重なものであり、それは一回的な美を重んじる姿勢=彼の湯飲みへの感性と接続できるということを主張した。

 それも大事だが、最大の発見はチャンプの味噌パスタの美味しさであった。聞いたことのないフレーバーだが、ぶっ飛ぶくらいうまい。つまりマーボーナスの美味しさに近いのだが、一方で味噌ラーメンにバターを載せる美味しさにも近い。友人は「俺は一生こういうのでええ」と言っていたが、彼の言う「こういうの」のジャンルにおいては最高級のうまさであった。
 とにかく、油+味噌+炭水化物=神。あとは、俺が体系だったジャンルの説明を上手くできないことについて。そしてSpotifyについて。

 太田屋に移動。大人とは何か、善とは何かを、訂正可能性に引き付けて主張した。我々はオバQである。しかし、大人のオバQであるのだ。以下、代表的な論議。

・劇画・オバQについて。あそこに出てくるオバQは自分達ではないかと友人が問題提起。
・大人になるとはどういうことか。子供と大人と言う単純な発展段階は単純すぎるモデルではないか。自分たちは閉じこもっていて、孤独を感じ、不安を感じているが、果たしてそれは子供なのか(ゲンロンにおける男子性の議論を念頭に置きながら)
・いわゆる「大人」について、締め切りからの逆算=死からの逆算してのタスク遂行を意識するかどうか、と定義できる。死を意識・知覚できる故に可能となる行為。同時に、それはある程度蓋然性のある、「平均寿命」を自分が生きる、という考えがある(平均的な人間などいないにも関わらず・ひろゆきがFPを嫌う理由)。
・一方、「メメント・モリ」という態度がある。死を意識する意味では上記と同じだが、ここにはいつ死ぬか分からないという不確実性への目配せがある。明日死ぬかもしれない場合、一週間のスケジュールはその8割が無意味。宵越しの金も持たない。
・子供は皆オバQ。自分がいつか死ぬこと、終わりが来ることを知らず、ずっと遊びを繰り返し続けることを意識する。
・俺たちは、子供の頃からの夢をずっと追いかけ続けている。その意味でオバQと呼ばれるかもしれない。しかし、死を意識していないなんてことはあり得ない。それ故に不安がある。
・死に対し無知な子供が、自己の死の未来を知った先に、逆算的タスク遂行的人生観を得るか、メメント・モリ的人生観を得るかの違いであり、後者は生活態度はオバQ的であるが、死を認知しているという意味で決定的にオバQと異なる。二つの人生観に優劣は存在せず、ただ経済合理性の差異のみがある。
・友人の元友人である男はカスであるとして、その彼女は、何故カスな男と付き合い続けているのか。
・女は、自分が間違った選択をしたということを認めたくないのはなぜか。
・そもそも男は何故カスであるのか。自分が無い、話を理解できない、優柔不断、ミーハー、etc…
・訂正可能性の欠如。
・善とは何か。それは常に、自分は間違ったことをしていないか、疑い続けること。ただその継続的な自問自答のみが善の実践となる。
・すべてを疑うというのはどうか。例えば、ある部分については疑ったり、その結果棄却したりすることもある。しかし、他方で絶対に守り続けなければならないもの(信念、美学、主義、etc)があるのではないか?
・疑いながら変化していくことと、一貫性を保つことは両立できる。むしろ本質的には同一である。それが訂正可能性。むしろ、そのような形でしか人は一貫性を保てないし、そもそも認識できない。
・人は少しずつ変化していくが、本人はその変化を認知することができない。自分は一貫した主体だと思っているし、そのように認知する。
・自分と言う存在のレールは、さまざまな現象と遭遇する。そのとき、レールが破断することなく続いていくためには、鋼のような剛体であるのではなく、柳のようなしなやかさを持っていなくてはならない。そうして柔軟に曲がり、レールは続いていく。
・レールに乗っている人間は後ろを振り向いて、それまでのレールが途切れづに続いていることを見て、自分が一貫した存在であることを認識する。同時に、それが曲がっていることは見えない(高速度で移動する宇宙船の中では、光も曲がってしまうのと似ている)。
・話に出てきた男も女も、レールは曲げられること(曲げるべきであること)を知らない。女は、真っすぐなレースを無理やり通して、曲がった先の正しい認知に届かない。男は、レールを曲がらない角度で曲げようとして破断させ、一貫した自己の形成に失敗している。いずれも、曲げる=訂正する=変化する=問い続けるということを出来ていない。よってそれらは善の状態にはない。
・男と女は、経済的な成功は手に入れている。しかしそれは自己の決定とは全く関係しない。
・善を行うかどうかのみが、自己によって決められる唯一のことである。

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