徒然と怪異 非常口の女
住んでいるマンションは、廊下の突き当たりに非常口がある。
すりガラスの窓がついた非常口。
越してきた初日だったか、数日後だったか。一応、非常口と非常階段を確認しておこうと思いたち、部屋を出て、非常口へ向かった時のことだった。
女が立っていた。
すりガラスの向こう、やけに扉に顔を近づけている。茶髪。赤茶だか、ピンクブラウンだかわからないが、そういう色の上着を羽織った、中年か初老の女性。すりガラス越しで、なんとなくではあるが、満面の笑みで、覗き込むようにして立っていた。
変質者をフロアに入れてしまったら、叱られるどころでは済まないだろうな。
マンション周囲には同じような集合住宅や民家がある。住む人が多ければ、多いほど、当然、なかには心身の調子を崩している人もいるはずだ。
彼女はそこに立っているだけ。騒ぎ立てるのもよくないだろう。
この次、誰もいない時に確認すればいいや。
そう思って、部屋に戻った。
その後しばらく、非常口など気にする事なく会社に通う日々が続いたが、「ああ、そういえば…」と、非常口を確認しようとする日に限って、女が立っている。
いつも、同じような服装。髪は、茶色のパーマでふわふわ。
認知症や、精神疾患のある人が、一年中お気に入りの服装で居ようとすることは不思議ではないので、そういうものだと思った。
認知症を患った亡き祖母も、真夏にダウンコートを着たがった。脱がせようとしても寒い寒いと嫌がり、苦労した記憶がある。
ああ、今日も立っているな……。
そう日も経たないうちに、マンションの外から、非常口と非常階段の、下の階の部分がいくらか見える事に気付いた。そうして、同じ作りであろう部分で確認できていたので、むりに扉を開けて確認する必要がなくなっていた。
でも、廊下の突き当たりは、日常的に見える。
ああ、今日も居るのか。
すりガラスだから、室内は何も見えないだろうに。
今日はこんなに暑いのに長袖か、熱中症にならなければいいが、心配だな。
ああ、今日もいる。非常口の辺りは日陰になるから、もしかしたら長袖でも平気なんだろうか。
今日は風も強くて寒いのに、よく立っていられるな。
今日はかなり冷えるから、コートを着た方がいいのにな。
今日は、少しは暖かいとはいえ、皆ダウンを着ているのに、よくそんな薄着で立っていられるな。
今日はいない。
今日はいる。
いる。
いない。
いない。
いる。
いない……。
年が明けて桜の花が咲く頃、女の姿を見掛けることが少なくなった。
不思議なもので、見ない日が続くと、あれだけ見た女の現実味が、薄れてくる。
もしかしたら、見間違いだったんじゃないか。
自分の住む階の非常階段には、実は他の階にはない壁があって、そこにポスターが貼られていたのではないか。なにか光の加減で、人に見えていたのではないか。そういう仕組みで、自分は、壁の絵や光の加減の陰影を、すっかり人だと思い込んでいたのではないか……。
ある日の夕暮れ時。コロナのおかげで早く帰れた私は、その足で非常口まで行き、扉の鍵開けた。
扉が開いた先には、ひらけた作りのコンクリート階段があり、ポスターを貼れそうな壁どころか、扉に向かって影を落とせそうな物すら、見当たらなかった。
彼女が生きている人間であってもなくても、無事、家に帰れていたらいいと思っている。
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