
〈キズモノ〉こそ良き人材 大日本帝国と史論家山路愛山の時代30
二項対立史観の愚劣
史論家山路愛山が見るところの、新井白石の最大業績は、歴史家としての仕事であった。その前に、ちょっと振り返っておこう。
愛山は「理法」によって世界を説明することは空しいとした荻生徂徠に共感を示した。それは後に影響力を持った「階級闘争史観」や、その他の史観にせよそれらがもつ弊害は同じようなものだ。
巷間で問題視されている「自虐史観」だとか「自賛史観」だとかいう善悪二元論も同様である。ここに挙げたすべての立場を、〈一面史観〉と呼ぶことができるだろう。〈極端史観〉と言い換えてもよく、それは思考の〈easy way out〉である。立論が単純化するほど、歴史の多様的側面は見落とされてゆく。
今も根強いこういった立場の〈解毒剤〉として徂徠の
「天地も活物に候。人も活物に候を。縄などにて縛りからげたるごとく見候は。誠に無用之学問にて。」
という言がある。徂徠の言う通り、歴史というのは生き物が織りなす不完全性の学問である。どのように完璧を期そうが、過去を完全に論述するなどということは不可能である。歴史の担い手である人間の性質にはあらゆる条件(時代性や地理性など)が関与しており、とても一面で割り切れない。こうした前提を認めているのが徂徠や愛山であった。愛山は徂徠が生きた元禄時代の思想界の潮流を次のように述べている。
「宋儒(朱子学)は截然善悪の区別を為し、善を喜び、悪を疾(にく)むの情太だ強し」
一方の徂徠は
「彼れこれに抗して曰く、悪は善の不完なる者なり。物のその養を得ざる者を悪といふ。養つて完全ならしむればすべて善なり」
と、「疵物(きずもの)」こそ良き人材とした徂徠の思想を評価している。人は「その処を得る」のが好ましい。
こうなると演繹的な善悪の基準を持ち出して、人を無理やり従わせるという考えは否定されるであろう。「場所」と「人間」の関係は緊張感を持って出現する。こういう感覚が良くも悪くも日本人の国民性をある程度規定するのは当然であろう。かくして、場所としての社会や、道徳では割り切れない人間を深く追究する学問として「歴史意識」は台頭してきた。徂徠の発言からそのことが確かめられる。そして時空を超えて、愛山の学問精神は彼に直結したのである。
卓抜な新井白石の歴史思想
だが、歴史を見る際には、先の〈一面史観〉に陥らない「理法」が必要である。愛山が指摘していたように
「彼れ(徂徠)は彼れの第一原理について何の解釈も与へざりき。曰く道は知り難くまた言ひ難しその大なるが為の故なりと、・・・」
と徂徠には答えは見出せなかった。その理法は徂徠よりも、白石にあった。彼は『新井白石』を出版する少し前の明治二五年(一八九二)八月~九月に発表した「歴史家としての新井白石」において次のように述べている。
「歴史家ならずして歴史を書き得る者はなしといえども歴史家にして歴史を書き得ざる者は必しも無きに非ず、何となれば歴史は書にして歴史家は人物なればなり」
福沢諭吉が歴史を書かないといって、福沢は史論家ではないと言えないと述べたのが白柳秀湖であったが、愛山のこの言も同じ意味であり、真の歴史家は「胸中に真の歴史ある人なり」なのである。歴史思想の有無こそが問題なのである。愛山は白石が優れた歴史哲学を持っていると見た。
「㈠ 彼は時間なる者の意味を知れり・・・相当なる時間には、相当なる変化なかるべからず再言すれば時間は歴史を生む者なりとは、氏の脳髄を支配せる認識なりしが如し」
「㈡ 氏は常感をもつて歴史を論ずべきことを知れり・・・彼は常感をもつて人事を論じたり、歴史はくりかへす者なること知れり」
「㈢ 氏は政治史の要点を知れり・・・白石の史は山陽の史に比すればむしろ多く道徳的の評論をなしたりき、しかれども彼は政治史として歴史を見たる人なりしなり・・・彼は貨幣の制度に着眼せり、その鋳造の時、信用の度をも知り得べきだけは知らんと勉めたり、彼は外国交際に就てすこぶる精密なる観察をなせり、最も驚くべきは、当時他の歴史家が多く藐視(びょうし:軽視する)したれどもその実、政治史の一大要点なる交通のことに注意したるの一事なり、彼は実に史学をもつて自己の経綸を資けんとせしなり」
「㈣ 氏は歴史批評の才に長ぜり」
「㈤ 氏は歴史の材料を取ること広かりし、氏はこれを正史(官が書いた歴史)に採れりこれを野乗(民間の立場の歴史)に採れり」
「㈥ 氏は歴史の地盤を拡けたり・・・氏は南島誌を書きて我南彊の事情を尽くし、蝦夷誌、奥羽五十四郡考を書きて我北辺の事情を尽せり、ことに外交の一事は氏の最も思慮を費せし所なりしが如し」
白石は、一族の対立といった次元を越え、国家という単位で歴史を描いた最初の人であったということだろう。特に㈢の指摘は重要である。白石が、政治史の要点を知っていたのも、学者上がりの政治家として国家にとって重要な側面を理解していたためであろう。愛山が
「事に因つて志を観るべし、人を論ぜんとせばまづその事業を見よ」(『新井白石』)
という面から白石を評価しているのも見落とせない。人物の道徳よりも事業に目がいくのはこの徳川時代の国家意識の表れである。
白石と徂徠は真逆の人格であったが、愛山の論によって浮かび上がってきた事実がある。それはともに「国家主義の祖型」ともいうべき存在であったということだ[i]。共に社会や国家を重視する姿勢が顕著なのである。白石の史眼が多面的なのは、国家という統一点が強固に存在しえて初めて成立する。そして白石の強靭な個の人格を準備したのは、秩序の安定化によるものであった。強い個性は必然的に自他の峻別という態度になって現れる。
「なかんずく最も吾人をして驚歎せしめたるは氏が比較歴史学を知れることなり、蓋し支那朝鮮の史乗に我国の事を記るものを摘出してもつてこれを我正史に参照せしは氏をもつて破天荒となすべし」
この愛山の高揚ぶりを無視できない。愛山は後に『日漢文明異同論』、『孔子論』などの著作を発表し、支那研究に努めたが、これも白石の史眼に倣ってのことであった。
白石がなした他者の発見は同時に自己の発見であった。白石の思想もまた愛山によって失われずに発見され、引き継がれていった。
[i] 尾藤正英「解説」『荻生徂徠 日本の名著一六』中央公論 昭和五八(一九八三)