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学ぶに値しない〈歴史学〉        大日本帝国と史論家山路愛山の時代25


なぜ思想史は本質的な学問か

 日本人は思想オンチの人が多い。私たちの日常の思考や行動を形作っているのは思想であるのもかかわらず、研究する人は少ない。例えば、韓国人が船の沈没事故や飛行機事故などで家族を失い大げさに泣いている姿を見たことはないだろうか。そしてそこに日本人とは違う行動の違いを感じる人はいないだろうか。

 これを思想史(宗教思想含む)以外の歴史学は説明はできないはずだ。彼らが興味を持っているのは政治家があれをした、これをしたと言った話の積み上げばかりである。そういう歴史を積み上げたところで、せいぜい出てくる感想はあの時代は良かった、愚かだった、この程度の話である。水戸黄門の世界の 勧善懲悪と同じなのである。一方は悪人であり 一方は善人である。このように 時代をさばいていく。私はこういう歴史学を大学生の時に学ばされて、人間に対する深い理解を欠く学問であり、到底学ぶに値しないと考えるようになった。

大井の指導教授だった故粟屋憲太郎氏の著書。東京裁判研究の国際的権威 だった。しかし、大日本帝国は悪であり、戦後日本は善とする善悪二元論的な勧善懲悪史観は私を大いに失望させた。

 思想史を学べば、韓国人のこうした行動は簡単に理解できる。儒教には孝の思想というものがある。涙に関しても規定されているのだ。だから泣き女などが出てくる。表面的にはこういう話があるが、じゃあなぜ日本人はそうまでして感情を殺さなければいけないのかといった問題も発生してくる。葬式で泣いたら泣くんじゃないと怒られるようなことすらあるのが日本人だ。こういうことを理解する方がもっと深く本質的な歴史学なのではないか。私はそう考えるようになったのである。

古い歴史学、新しい歴史学


 山路愛山は古い歴史学と、新しい歴史学という言い方で、史学の伝統には二つの流派があると述べている。 

「一は則ち歴史を以て一種の芸術とするものにして、読者の心目に英雄、豪傑、匹夫、小人及びその時代境遇を映写せしめ、あたかも彫像絵画小説が人心に生ずると同じ種類の効果を与えんとするものなり。これ則ち古流の史学にして第十九世紀のギボン、マコレーといえどもついにその範疇を脱する能はざるものなり。」 

「二はすなはち史実のために史実を求むるものにして、その研究したる結果が人心に与ふる効果などはその問ふ所にあらず、ひたすら如何にして真の史実に達すべきかと苦心するものなり。これ則ち新式の史学にしてランケこれが唱を為したりと云はる」

 以前書いた通り日本人にとって古いということは学ぶに値しないと考える傾向が強い。新しい≒正しいと思っている人たちが多い。しかしながら、愛山にとって古いとはネガティブな意味にはなり得ないのである。前者が愛山の立場であり、人心に影響を与え、人心の改造を図ることを優先課題とする側である。後者が先ほど 本質的ではないと述べた実証主義史学である。

 愛山は、史学の目的とは国家の成員の大多数を形成する平民などに対して、何らかの教訓や人生そのもの、また思想的な影響をもたらすものでなくてはならないとし、「考証穿索」は、史学の義務であるが、あくまで目的達成の為の手段に過ぎないとした。 そこで注目なのは、考証について愛山が、下等と高等と二つに別けて論じている点である。 

「単にこの事があつたとか、なかつたとか云ふ個々別々のことを穿索するのはいわゆる下等考証で、これも誠に必要なことではあるが、考証は之れに限らない、さらに之れよりも穿索の趣意を広くして国民の生活は如何、人情風俗の変遷は如何などゝ云ふ大なる問題につひて穿索せんければならぬ。これは弁慶は無かつた人だの、児島高徳は有る人だの、楠正成の湊川討死は止むを得なかつただのと云ふ考証よりもずっと広い考証である、それ故にこれは高等の考証である、勿論どこ迄が下等の考証で、どこ迄からが高等の考証だと云ふ、キッパリした区別はない。高下は比較的の言葉である、詮索の目的に大小高下のある所を比較して一を高等なる考証とし、他を下等なる考証とするのだ。(中略)しかしながら若し歴史を書くの目的が一事、一件の実否をたしかむると云ふ様なる小さなことにあるのではなく、国民の生活とか、社会上の大変遷とかを書き表はすに在るならば、なにもそんなに、精出して古文書の詮索をしなくても、他に材料はいくらもある」(A二六一)

 愛山の場合はとにかく、最初に人生経験を基礎とした「目的意識ありき」の研究姿勢であった。これは、重野安繹の実証史学とは大いに異なる対立点の一つとなる。

「考証とは色々なものをば取合せて、証拠を執つて定めると云ふこと、西洋学では演繹と帰納との二法に分けてあると承はるが、考証は即ち帰納の方でありましょう。」[ii]

 重野は史学のみならず、学問全体の〈考証化〉を唱えたのだが、ここでは歴史学の目的意識が判然としない。考証には〈考〉えるの字が含まれており、史料外のことにも想像を働かせるような研究になっていればよいが、愛山はそう見なすことはできなかった。


抹殺博士として知られた重野安繹(1827〜1910)



 彼とは微妙に異なるスタンスであり続けた久米邦武は

「史学に考証と云ふことは必ず為なければならぬけれど、考証ばかりでは史学にはならぬ。必ず見解を定めた判断を下さなければ学にはなりませぬ」[iii]

 と述べて、いたずらな考証一点張りを批判しており愛山に近い。このように見てくると、安易に官学に対抗する史学者山路愛山という従来の見方にも異論が出てくるだろう。

近代とは帰納的な欲望重視の時代



 演繹と帰納ということで限って見たら、明治四二年(一九〇九)に田中王堂は社会そのものを「演繹を主とする」それと、「帰納を主とする」それとで分別し、演繹的社会を

成るたけ過去に作つた生活の方針に依つて、新に起る欲望を支配して行かうとする

傾向があるとし、帰納的社会を

新しい欲望に従つて、それに適当する生活の方針を創設しようとして居る

といった傾向を指摘していた[iv]。


哲学者田中王堂(1868〜1932)

 前者が、どちらかといえば前近代的であり、後者が近代的な世界観を示す。保守的か進歩的かという、社会観の相違は、直ちに愛山と官学史学の対立に結びつくわけではなかろうが、相異なる演繹的社会観と、帰納的社会観が明治期に意識され、それに近い対立が愛山らに見出せることは注目してよいだろう。 

 近代的な歴史学の出現は、愛山にとって見たら、平民主義を脅かすものと認識された。

「而してこの傾向は今日にまで継続し、日本の史界は依然として興感を主とする平民的のものと、考証を主とする貴族的、もしくは専門的のものと二に分れつゝあるが如し。」(A三九八)

 近代的歴史学が、自分たちの否定したはずの「貴族主義」だとの指摘は、奇妙であるが、もちろん皮肉であろう。この意味の考察には、一次史料が豊富にある重野ら修史館の官学派は、有利な条件で研究ができる位置にいた故に帰納的な歴史研究が可能であったということに対し、愛山は野史の立場であり一次史料に乏しくそれを克服する為に独自の史料論を提示し、いち早く史学の目的を打ち立てて、演繹的な歴史研究の優位を強調することで、彼ら「貴族的」な「専門家」を上回ろうとした背景がある。
 
 ここではっきりしたのは、愛山が近代で展開されたような思惟様式を、無条件賛美するといった傾向がほとんどなく批判的観察者であったということである。近代的歴史学が平民主義を脅かすといった危機感になって現われた。  


[i] 愛山の歴史学に関する見解は「国民新聞」紙上で明治二七年(一八九四)四月二九日、五月一日に掲載された『歴史の話』と、「太陽」誌の明治四二年(一九〇九)九月号『日本現代の史学及び史家』に出現しており、年代は違えども両論文における論点に、大きな変更はなく、おおよそ、これで彼の全般的な史学論と、彼が思想的に優れていると認識する史学思想の二点に関して、把握できるようになっている。
[ii] 「学問は遂に考証に帰す」『重野博士史学論文集上巻』雄山閣 昭和一三年(一九三八) 三九頁
[iii] 「史学考証の弊」『久米邦武歴史著作集第三巻』吉川弘文館 平成二年(一九八九)七〇頁
[iv] 田中王堂「近世文壇に於ける評論の価値」『新小説』明治四二(一九〇九)五月号

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