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「目黒元不二」−富士山に行けなくてもここでできます!−『名所江戸百景』

今日は鶏胸肉を買ってきて、サラダチキンにしました。とってもプリプリでこればかり食べそう。
それとおやつをプロテインにすれば完璧ですね。笑

そんなタンパク質日和な今日も広重。今回は『名所江戸百景』「目黒元不二」です。

◼️ファーストインプレッション

右手前のスキーヤーでも怖いくらいの傾斜。ここは本当にこんな景色だったのでしょうか。
それに対比して左奥の富士山。手前がまるで富士山の半分を描いているかのような描写で、奥の富士山と合同な感じがします。坂の上半身に植えてある松がよくこんな斜面でこんな大きさを保っているなと感心します。この松もまたこれまで見てきた名所の木々のように名前のついた有名な名木だったのだろうと思います。

坂の下にある花見スポットは平坦な地面に桜が何本も咲いていて、とても平穏な空間。長椅子のようなものも用意されていて歓談の場として最適だったのでしょうね。

話は戻って坂に途中まで登っている人が二人いますが、二人とも紫色のフード付きのつなぎを着ています。
何か宗教的な規範の中でこの格好をしているのでしょうか。

◼️富士塚

この特殊な急勾配は富士塚というもの。

東京の駒込富士や浅草富士など各地の富士神社や浅間神社の境内には,富士山をかたどった模造富士や富士塚がつくられ,6月1日の山開きの日に白い行者姿の富士講中の者が富士禅定にならって登る風習もあり,一般の参詣者もこれを行った。駒込の富士神社では,麦藁蛇がこの富士詣の際の名物となっており,これを受けて帰ると疫病にかからぬという俗信もある。

https://kotobank.jp/word/富士塚-618059

 近世の民間信仰遺跡の一つ。富士信仰講中により造営された富士山を模した。特に文化・文政期(一八〇四‐三〇)以降に盛行した。

https://kotobank.jp/word/富士塚-618059

富士山を信仰し、富士山にお参りする講を組織する富士講というものが当時はありました。この組織である講は江戸で八〇八も存在したそうです。
その中でもやはり富士山に行きたくても行けない人々は多くいました。身体的に厳しかったり、経済的に東海地方まで行けなかったり、日数的に足りなかったり、いろんな理由で行けない人が今よりはいるのではないかと思います。

そういう現実があると、人々は「江戸に富士山(仮)を作っちゃえ!」という発想が生まれてきたのです!

それが富士塚というもので、江戸の人間はここに登拝しました。

この絵に描かれている富士塚は目黒のものなのでこちらのサイトから参照すると、、

目黒元富士跡 目切坂上 キングホームス前 目黒区上目黒 1-8

目黒元富士跡という場所でした。江戸の中にも120もの富士塚があったのですね。歩けばそこらじゅうにあったという感覚。
下はもっと細かく描かれているサイトです。

この富士塚ができたのが1812年文化年間のことですが、もう一個の富士塚が7年後の文政年間に近くにできたことで、元と新で名称をわけていたそう。そして描かれているのは元の方。

現在の位置がこちら。

代官山のど真ん中にあるのですね。そこから絵のように富士山を眺められる位置を考えると、南西の方角を向いているので赤ピンの目黒元富士跡からちょうど左下のレイヤとある上空写真の方面を向いているようにこの絵は描かれているということになります。

本物の富士山と富士塚を眺めながら花見をするのはとても癒されるものだと思います。富士塚に登って達成感を満開にしている人々を見るのはとても微笑ましいものですね。
茶屋に座っている人々もきっと富士講の人々だとしてもこの風景は江戸時代の人間の最大限のエンタメを誇らしく描いているように感じます。


今日はここまで!

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