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「目黒新富士」−水が絵師を繋いでる?!−『名所江戸百景」

昨日は一日お出かけしていい気分転換になりました!映画見てカフェでゆったりして、蔦屋書店で本を漁りまくって、夜は火鍋を食べました。
やはり一日冬のように寒かったので火鍋で締めて正解でした。なんてったって半袖にカーディガンで行ってしまったのでね、、。笑

体調管理をできるようになりたいと願うばかりの今日も広重。今回は『名所江戸百景』「目黒新富士」です。

◼️ファーストインプレッション

以前「目黒元富士」を見た時に新富士もあるということは確認しました。
富士講が流行っていた当時、江戸でも参詣を楽しめるように富士塚という富士山の模倣塚を作り出しました。
その中の一つで、元富士の後に新富士ができたために元・新と名所がついています。

こちらの絵でも元でも同様に塚の麓に桜が咲いて花見のスポットだったことがよくわかります。

新富士では塚の頂上までの道順が描かれていて、途中に石碑が立っています。あと何メートル!とか描かれているのでしょうか笑。
富士塚はまるで富士山のような形をしていますね。そう感じるのは奥にある富士山が合同をなしているからより一層なのでしょう。

富士塚の山頂に登りきった人は富士山を眺めています。
なんらかの理由で富士山まで行けない人は「いつか登ってみたかったな、、」と羨望の眼差しを向けているようで少し切なくなります。


◼️新富士

先ほども申した通り、この富士塚は新富士です。
こちらは元富士の7年後に出来ています。

目黒新富士は元富士に遅れること7年、文政2年(1819年)に、択捉島えとろふとう探検で知られる近藤重蔵が、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)の邸内に築いたもの。東富士、近藤富士とも呼ばれた。近藤重蔵は邸内に三田用水を引き込んで滝を造るなど、趣味人であったらしく、富士の築山も信仰心からというより観賞のためと思われる。昭和34年まで残っていたが、今日では自然石の碑が残るだけである。

https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/tobu/fuji.html

近藤重蔵!受験日本史で出てきた名前でインパクトあるもののうちの一つ!
近藤が地震の邸内に築いたということなのですね。

四回にわたって蝦夷地に赴き、樺太から千島列島の情勢を探索し、択捉(えとろふ)島の一角カムイワッカオイに、露人のたてた十字架を撤去して「大日本恵土呂府」の標木を建てた。そして西蝦夷地上地処分方并取締法を建議し、『辺要分解図考』・出張取調書及地図を献上している。
(中略)
江戸滝野川に閑居し、のち目黒の別荘に移り住んだ。

https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=30010zz197160

前半は択捉島の占領をしたことについて、後半は1819年に目黒の別荘に移り住んだことについて。

このエリアがそもそも探検家の別邸の敷地内であったことに驚きなんですが。
しかもそこを一般公開して富士塚を築いていたこともなかなかですね。今、公人の敷地内を一般公開していることなんてないですからね。

赤ピンが目黒新富士があった場所。
元富士は、代官山駅の近くにある東京富士見坂の少し南らへん。
富士塚の高さだと、頂上からはお互い目と鼻の先ですね。
ここから目黒川沿いのニトリ中目黒店を眺めるように描かれていたのですね。

絵の手前に走る川のようなものは三田用水という用水路。

三田上水は、現在の港区南東部エリアの飲用水として、1664年に開通しました。上水は現在の世田谷区北沢で玉川上水から分水し、世田谷区、渋谷区、目黒区、品川区を経て港区高輪に至り、そこからさらに地下に埋められた木樋で港区芝に至る、全長10kmほどの水路でした。

https://mizbering.jp/archives/17779

芝までの十キロなんて長い用水路だったのですね。
この上水は目黒川渋谷川の間を通るものです。その間を通る三田上水はその分水との高低差を利用して水車がよく建てられたそうです。以前渋谷あたりの北斎の絵で水車の絵がありましたが、それ関連なのでしょうか。

葛飾北斎『富嶽三十六景』「隠田の水車」

渋谷の神宮前あたりを描いたものなのでその可能性は高いかもですね。

そんな感じで近藤邸の三田用水はもしかしたら北斎の絵の一部のなりつつあったのかもしれません。。。?

今日はここまで!

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